ブログトップ

5つのパンと2匹の魚

fivebread.exblog.jp

未完了形の神

f0229700_6485413.jpg


ヨハネはこのいのちのことばであるイエス様を、この耳で聞き、この目で見て、この手でさわった方だと紹介しました。いわゆる聴覚・視覚・触覚という3つの触感によって、ヨハネはイエス・キリストとは実際にこの地上に肉体となって現れたお方だと証しています。確かにヨハネはイエス様の傍にいつもて、イエス様の声を聞き、イエス様をいつも見ていました。ここで1つ訳されていない言葉があります。それはセアオマイというギリシア語で、「凝視する」「じっとよく視る」という意味です。口語訳聖書ではこのセアオマイというギリシア語の訳が抜けていましたが、新改訳ではちゃんと訳されておりましたのでご紹介します。

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、(Ⅰヨハネ1:1 新改訳)

 このようにヨハネはイエス様を遠くから見えたという見方ではなく、おそば近くでイエス様の目、口、鼻、その表情の全てをじっと視たと書いています。そしてそれだけではなく、イエス様にこの手で触れたのだと自分の経験を通して、イエス・キリストを証しています。

証するとは昔こういう方がおられたというお話をすることではありません。それならば昔話となります。ヨハネはそのような過去の話をしているのではありません。なぜならば、ここでヨハネは「初めからあったもの」というこの「あった」の時制が未完了形であり、聞いた、見た、触ったという語は完了形となっています。
日本語の動詞には欧米のような時制がないので理解し辛いかもしれませんが、みなさんが中学校で学ばれた英語の文法を思い出してください。完了形は過去のある時点ですが、未完了とはまだ終わっていない現在も続いているという言葉。つまりヨハネがこの手紙で証するイエス・キリストは、天地創造の創めから現在まで、今も生きておられるお方として証しています。この神なる方が人となって現れて、私はこの方の声を聞き、目でじっと見て、そして手で触ったのだと証しています。私たちがイエス・キリストを証するとは、このように今生きておられる神様のすばらしさを語ること。神様が私たちにしてくださった出来事を通して証明することなのです。

 先日、某教会の副牧師先生が証をされていました。東日本大震災でずっと1着のジーンズとトレーナーを着て生活をしていたそうです。しかし、とうとう破れてしまい奥様がお店に買いに行きました。お店についた奥様からの電話。「どんな色がよいかしら」。そのとき電話を出た副牧師先生の家にあるお客様が来られたそうです。
奥様に「ちょっとお客様が来たから待って」と言って玄関を開けると、その方は「どうぞこれを使ってください」とたくさんの衣類をくださったそうです。その中には副牧師先生のサイズにぴったりのジーンズとトレーナーも。神様は生きておられます。
[PR]
by carbondalle1996 | 2013-06-05 06:49 | 日記 | Comments(0)
<< 神様がご覧になるから いのちのことば >>