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5つのパンと2匹の魚

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神様が視ているように見る

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ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。(マタイ3章7節)

 パリサイ人もサドカイ人もイスラエルを宗教面でリードしていた人々です。パリサイ人は、ヘブル語でペルシームと言って分離を意味します。英語で言う“Separate”です。彼らは生活の優れた聖さ、神に対する信仰深さ、聖書の知識を誇りとしていました。そのため熱心だった彼らは、自分たちこそ選ばれた民とし、律法に熱心でない人々を蔑んでいました。そのため人々は彼らを、「分離主義者・ペルシームだ」と呼びました。これがパリサイ人です。サドカイ人は祭司階級のエリートで、復活もみ使いも霊も信じない人々でした。

 こうした宗教指導者たちもまたバプテスマのヨハネの下に洗礼を受けにやってきました。しかしヨハネは彼らに対して優しく「ようこそおいでくださいました」などとは言いませんでした。ヨハネは彼等のことを「まむしの子らよ」と呼びました。どういうことでしょうか。それは彼等の動機が神を畏れる心から起こったものではなく、群集がヨハネを預言者と認めているので、その民衆運動によって自分たちの地位が脅かされることを恐れての行為だったからでした。

 自分の罪を告白するとは、洗礼を受けていた方が群集の受けが良いとか、今の自分にとって都合が良いとかそういうものではありません。告白するとは本来、「神様が視ているように自分も見る」という意味です。神様がそれを罪として視るならば、自分もまた罪として見ます。神様が善として視るならば、自分もまた善として見なければなりません。それが告白です。

 あなたは自分の罪を告白しましたか。それは単なる口から罪を言うという行為ではなく、神様が視ているように自分も視るという霊的な行為です。自分の視点が神様の視点といかに違っていたか。そこに悔い改めというものが生じるのです。この朝、あなたの罪を告白し、神様が視ているようにあなたの周りを視てください。そこにあなたが愛を示す人々がいます。「あなたの隣人を愛せよ」と主は今日もあなたに語られます。
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by carbondalle1996 | 2014-01-23 04:16 | 日記 | Comments(0)
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