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5つのパンと2匹の魚

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せっかく洗礼を受けたのに?

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さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。(マタイ4章1節)

 マタイ福音書はイエス・キリストを神の王国の王様として紹介している書です。3章においてイエス様は暗闇の地ガリラヤから、古き自己の葬りと新しい命の新生を意味するヨルダン川に上られ、バプテスマのヨハネから水の洗礼を受けたことを紹介しました。そのとき天が開かれ御霊が鳩のようにイエス様の上に下ったとあります。これは聖霊がイエス様に下ったことを意味します。ある注解書では聖霊の油注ぎを受けたとも解釈されています。このときからイエス様の公生涯がスタートしました。イエス様は30歳まではナザレで大工の子として成長しましたが、時が満ちて、神の子としての宣教の働きを致しました。公生涯のゴールがゴルゴダの十字架であるならば、公生涯のスタートはヨルダン川での洗礼となります。


 聖霊の油注ぎを受けたイエス様は、ご自身の意思によって荒野へ出て行ったのではありません。聖書は「御霊によって」とあります。つまり聖霊に導かれて荒野へ出て行きました。マルコ福音書にははっきりと「御霊がイエスを荒野へ追いやった」とあります。この「追いやった」というギリシア語は羊飼いが羊にムチを打って追いやるときに使う言葉です。そのように聖霊はイエス様を荒野へ追いやりました。公生涯に入ったイエス様に対して神様がまず最初になされたことは、イエス様を荒野に追いやることでした。それはイエス様が悪魔に試みられるためでした。

 洗礼を受けた後に荒野へと追いやられるとは少し納得がゆきませんね。私たちが洗礼を受けて「やったー!」と思っていたら、「はい、あなたはイエス様を信じて洗礼を受けましたから荒野へどうぞ」などと言われたら、あなたはどう思いますか?「それなら洗礼を受けなければよかった」と思うでしょう。しかし、私たちが洗礼を受けるとは、自分自身に死んで新しい王様を迎え、王の民となることを意味します。王の民となるために神様は私たちに「荒野」という訓練の場を与えてくださったのです。それはあなたを滅ぼすためではありません。あなたを王国の民として迎えるためなのです。イエス・キリストを信じたあなたは神の王国の民なのです。
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by carbondalle1996 | 2014-02-03 06:49 | 日記 | Comments(0)
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