ブログトップ

5つのパンと2匹の魚

fivebread.exblog.jp

荒野と神の語りかけ

f0229700_2022612.jpg



荒野というへブル語は「ミドゥバール」という言葉ですが、これは本来「語る」とか「ことば」を意味するへブル語の「ダヴァール」から生まれた言葉です。「ダヴァール」が動詞として使われると「語る」となり、名詞として使われると「ことば」となります。この「ダヴァール」に接頭語の「メム」という文字がついて「ミドゥバール」となります。

 不思議ですね。「荒野」という言葉が「語る」という言葉から生まれたのです。少し説明をしますと、「語る」とも「言葉」とも訳されるへブル語「ダヴァール」の本来の意味は「口」です。ですから主語が神様となれば、「神が語る」となり、所有格となれば、「神のことば」となります。つまり荒野とは、「神のことばを聞く所、神のことばによって養われる所」という意味なのです。

 イスラエルの民はエジプトを出て、荒野で40年間養われました。神様は、第二世代が約束の地カナンに入るまでに荒野で訓練をしました。それはイスラエルの民が、神様のみことばに聞き従うことの訓練でした。申命記8章にこう記されています。

 あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない。それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り、あなたがその命令を守るか、どうかを知るためであった。それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって、あなたを養われた。人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった。(申命記8章2~3節)

 神様がイスラエルの民を荒野で訓練されたのは、人はパンだけで生きるのではなく、神の口からでるすべてのもので生きるということを悟らせる目的のためでした。このように、「荒野」「ミドゥバール」とは本来、「神の口からでるすべてのもので生きる」という真理を学ぶ場であるということ。私たちはついつい目に見えるパンを求めて、ふとすると神様という霊的な糧よりも、パンという肉的な糧を求めてしまう弱い者であります。しかし、私たちが現実の荒野で聖書のみことばによって養われる時に、私たちは初めて「荒野で主の恵みを得た」という体験をするのです。

 「苦しみに遭ったことはない、悲しみに遭ったことはない」と言える人は一人おりません。誰もがみな、悲しみの荒野、苦しみの荒野を通った経験があると思います。しかし、もしその荒野で神様に出会うという経験、神様に助けられたという体験をするならば、その人はまさしく「苦しみに遭ったことは私にとって幸いでした。それによってわたしはあなたのおきてを学びました」という詩篇119篇のみことばを自分のものとできます。荒野でしか経験できない恵みがあります。「荒野で主の恵みを得た」という経験が私たちにとって宝となります。

 南アフリカ共和国のマンデラ大統領も荒野で主の恵みを得た中の一人です。アパルトヘイト反対を唱えて27年間も投獄されました。彼は若い頃は武力革命を支持していました。心の思いはその人の外側に出ると言いますが、当時のマンデラ氏の顔は恐い、まるでマフィエアのような顔つきでした。しかし、27年間の投獄生活から釈放されたマンデラ氏の顔は、穏やかで希望に満ちた顔をしておりました。牢獄という荒野の中でマンデラ氏は聖書を読み、神に出会い、武力革命から赦しと和解、白人との協調という道が開かれました。マンデラ氏が南アフリカ共和国の大統領になるために、神様が牢獄という荒野を通して訓練されたのだと思います。
[PR]
by carbondalle1996 | 2014-02-07 04:16 | 日記 | Comments(0)
<< ルイス・デ・アルメイダ わたしはここに人としているのだ。 >>