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5つのパンと2匹の魚

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ルイス・デ・アルメイダ

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 1552年、日本がまだ戦国時代であった時、一人の青年が長崎に上陸しました。彼の名前はルイス・デ・アルメイダ。彼はポルトガルで医学を学び医師の資格をもっており、さまざまな学問やラテン語に関する知識も十分に備えた青年でした。そのような青年が故郷で医者としての成功ではなく、貿易商として遠く日本にまで来たのはなぜでしょうか。

 彼はユダヤ人でしたが、当時のスペイン・ポルトガルはイスラム教徒を追放しキリスト教国再興を目指すレコンキスタが盛んで、ユダヤ人への迫害も強くなっておりました。そうした迫害の中で大勢のユダヤ人はクリスチャンへの改宗を強要され、国内で差別を受けていました。このため大勢のユダヤ人クリスチャンが母国ポルトガルを離れて船に乗り貿易商となりました。青年アルメイダもまたそのような貿易商の一人でした。

 1552年に最初に日本に上陸したとき、彼が見た日本は長引く戦争で多くの人々が傷つき、病気や飢餓で亡くなる人々。それは医師の資格をもち多くの富をもった青年アルメイダの心に衝撃を与えました。彼は1555年に再度日本に上陸しました。このときは貿易商としてではなく、イエズス会修道士として来日しました。彼はこのときの心境を友人の手紙にこう記しました。「私が日本にいるのは神が定められたからです。」

 アルメイダは豊後の国、今の大分県で戦災孤児や口減らしのために捨てられた子供たちを引き取りました。そして私財を投じて育児院を建設し、領主であった大友宗麟に口減らしのために子供が殺されないように禁止令の発布を促しました。 

 その一方でアルメイダは私財を投じて病院を建設し、彼自身そこで医師として無償で人々の病気の治療をしました。当時、ハンセン氏病などの重い皮膚病は人々から汚れと見なされ差別されていましたが、アルメイダはそうした人々も分け隔てなく接し、無償で治療しました。そうしたアルメイダの姿は、次第に人々の心を開き、大勢の人々がキリストを信じて救われました。

 アルメイダがリスボンで修めた学問も大いに福音宣教に役立ちました。日本の知識層を代表する僧侶が関心をもつ天体や地球の現象などの科学的テーマを理路整然と説明するアルメイダは、仏教的世界観しか知らない僧侶たちの心をつかみ、信仰を表明する僧侶まで現れました。同じ時期に日本にいた宣教師ルイス・フロイスはアルメイダにっついて、「日本の風俗をよく学び、話術が巧みで、絶えず人を感化し、キリストの教えを広めるとう希望に燃え立っていた」と評価しています。

 順調に進んでいた日本宣教に一つの影が落ちました。イエズス会はスペイン系軍人で差別思想を持つフランシスコ・カブラル祭司を日本布教長として派遣しました。カブラルはそれまでの「日本に順応した福音宣教」から「非文明国に対する宣教」へと方針を転換しました。日本人を侮蔑し、その文化と言語を否定し、日本人の司祭を認めませんでした。高圧的な態度が多くの信徒の教会離れ、宣教師批判を招き、カブラルの反日感情を一層逆撫でしました。こうした状況の下で、アルメイダはイエズス会と日本人信徒たちとの間に立ち苦しみました。

 またカブラルにとってユダヤ人から改宗したアルメイダも差別の対象でした。アルメイダが正式な神学校で学んでいないという理由で24年間も修道士のままで、アルメイダの働きは認められませんでした。この状況は、1579年にイエズス会が布教長カブラルを解任し、旧来の宣教方針が回復するまで続きました。

 ヨーロッパで起こったユダヤ人迫害が、遠く日本にまでおよびアルメイダはその犠牲となった一人でした。そのような日本宣教の功労者アルメイダに新しく着任した日本布教長は目を留め、アルメイダを司祭へ任じました。それから3年後の1583年に九州の天草の地で大勢の信徒に囲まれながら天に戻りました。
 彼はその手紙の中で「日本の地で生涯の終わりまで、主に仕えさせてくださるように祈ってください」とその友に記していました。彼の願いどおり、彼は生涯を日本宣教に捧げました。

 アルメイダの宣教活動は、九州・鹿児島から近畿地方に至る西日本を行きめぐり、休む間もなく福音宣教に従事しました。彼が歩いた距離は約21300km、地球の半周を超える距離を歩き続け、その働きは「生きた車輪」との異名をとるほどでした。彼の献身当初のクリスチャン人口は4千人ほどでしたが、彼が天に召されたときには、日本人の総人口500万人に対して、クリスチャン人口は20万人を超えたと言われています。
晩年、アルメイダによって島民全員がクリスチャンとなった長崎の度島(タクシマ)には、「昔、南蛮の医者が来た。あっけらかんとした人で、気楽に診察してもらった」という伝承があり、アルメイダが薬剤計量に使用した秤が今も残っているそうです。彼らは江戸時代、キリスト教禁止の下でも隠れキリシタンとなり、明治時代のキリスト教解禁時に発見されました。

 ユダヤ人のアルメイダ神父にとって母国スペインは迫害という荒野だったことでしょう。そのようなアルメイダ氏が海を越えてアジアに遠く日本に導かれたというのは、神様のご計画の不思議としか言いようがありません。そしてその日本で彼は180度方向を転換しました。貿易商としての財を築き上げる人生ではなく、宣教師として自分の築いた財を日本人のために使うという人生。彼にとって日本もまた荒野でありました。カブラルとい布教長の下で27年間も忍耐して仕えました。しかし、そうした荒野での経験を通してアルメイダ神父は多くの日本人を救いへと導きました。
by carbondalle1996 | 2014-02-08 20:13 | 日記 | Comments(0)
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