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5つのパンと2匹の魚

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北国に駆ける愛

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 昭和3年に三橋萬利(かずとし)先生は青森市の一鉄道員の父親の長男として生まれました。生まれたときから小児麻痺で右手と両足が動かず、左手だけは少し動く状態でした。三橋先生が3歳のとき28歳のお母さんは小児麻痺の息子を見ながら「よろしくお願いします」と涙ながらに言い残して死んでしまいました。2度目のお母さんは生みの母が亡くなって間もなく、親戚の家から18歳の若さで父親のところに後妻として嫁いできました。体の不自由な子供を残された父親にとって、二度目の母はまさにピンチヒッターのようなお嫁さんだったそうです。

 三橋先生が自分は障害者だと意識したのは5歳くらいの頃だったそうです。少しだけ動かせる左手を使って家の中で移動する練習を始めました。畳一枚分を移動するのに何度も転んでしまったそうです。5分かけてやっと畳一枚を横切ることができたそうです。そして周りが小学校に入学する頃には、自分も小学校に行きたいと思うようになりました。しかし、そのような小児麻痺の子供を当時の小学校は入学させてはくれませんでした。自分と同じ年頃の子供たちがランドセルを背負って学校へ行く姿を見ては、「僕も学校へ行きたいよー」と母親の背中で泣き叫びました。そのような萬利少年の気持ちを察して、父親がノートと鉛筆、消しゴムを購入してくれました。教科書は2歳上のお姉さんのお古を使って小学校の気分をこうして味わう努力をしたそうです。

 萬利少年のお父さんは毎晩寝る前にたらいに湯を汲んで萬利少年の足を洗ってくれました。やせ細って曲がってしまった萬利少年の足を洗いながらお父さんはいつも、「どうしておまえの手足はこうなってしまったんだろうなあ。よその子供なら、おまえくらいの年頃になれば一人前に父親の手助けになるのに、お前は何の役にも立たんもんなあ。」長男として生まれた萬利少年に対する父親の期待は大きかったのでしょう。萬利少年は毎晩聞く父親の言葉から、「自分は何の役にも立たない存在だ」という思いが刷り込まれてゆきました。

 そのような父親も萬利少年が20歳のときに突然亡くなってしまいました。47歳でした。そして夫の後を追うように心臓が弱かった育ての母も35歳の若さで亡くなってしまいました。親戚からピンチヒッターとして三橋家に嫁いだ母は、萬利少年を背負ってお祭りやお店や散歩に連れて行ってくれた優しい母だったそうです。戦時中は、青森市内が空襲で焼け野原になったときも17歳になる萬利少年を背負って防空壕まで走った愛の母親でした。萬利少年は3歳で亡くなった実の母と、そして育ての母の二人の愛情を受けて育ったと言っています。

 自分は何の役にも立たない存在だという思いをもって生きてきた萬利少年がイエス様に出会ったのは、友人が貸してくれた一冊の聖書が始まりでした。友人は人生の行き詰まりに苦悶していた萬利少年を心配して聖書を貸してくれました。聖書を読み進めるうちに今まで自分は何の役にも立たない存在だと思っていたが、そうではないことに気づいたそうです。そして神様は萬利少年に希望の光を与えてくださいました。それはヨハネ福音書9章のみことばです。

イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。(ヨハネ9章1~3節)

 この聖書のみことばは三橋青年の人生観を根本から変えてしまいました。今まで自分は小児麻痺であるという境遇をあきらめてしまい、その結果人生をあきらめていました。しかし神様はその境遇は神様の栄光を現すチャンスだとおしえました。そして三橋青年は、友人と一緒に教会へ通うようになりました。動けない萬利少年をリヤカーに乗せて友人が引いてくれました。そして21歳のイースターに洗礼を受けました。それからは雪の日も風の日も、リヤカーの中から救われた喜びを、路傍伝道を通して語る日々が続きました。かつては自分の姿を見られるのが恥だと思い人前に出ることがなかった三橋青年が、神様によって救われた喜びを語り、堂々と人前で自分の姿をさらけだせるように変わりました。
by carbondalle1996 | 2014-02-14 06:47 | 日記 | Comments(0)
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