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5つのパンと2匹の魚

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なおりたいのか?

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さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。(ヨハネ5章5~6節)

 この時イエス様はおよそ31~32歳。この人は、イエス様がお生まれになる前からずっと病んでいて、ここで自分の番を待っていました。6節で「イエスは彼を見られた」とあります。 「見た」とは原典のギリシア語ではeidon という語。これは「出会う」、「知る」、「感じる」、「経験する」、「身に受け止める」という意味です。神様があなたを見られるとは、そういう意味でもあります。その長い痛みと苦しみを主はその身に感じ、体も、心も痛んで立つ事できない彼の所に来られた。 「祭り」の最中。 多くの人・お祝い・大騒ぎ!そんな中で、キリストは誰も行かない様な人の所に行かれた。 忘れられ更に苦しむ人達の所へ。

 NHK福祉ネットワークという番組で、現在日本には「引きこもり」が 163万人。自殺者毎年3万人以上いるそうです。政府も、テレビも アベノミクスだ、オリンピックだと、この国には、まるで問題がないかの様に放送されています。この国には「ベテスダの池」がないかの様にふるまっています。どうしていいかわからないから。しかし実際、私達の周りには、多くの「ベテスダの池」があり、多くの忘れられた人々がいます。「祭り」の華やかさ とベテスダの池 。 対照的な社会の縮図がここにあります。「祭り」に来られたはずのキリストは、祭りではなく、誰も行かない「ベテスダの池」に行かれました。

 6節でイエス様は 「なおりたいのか」 その人に言葉を掛けました。これは不思議な質問です。彼は、治りたいからそこに来ていたはず。 なのになぜ?この「なおりたいのか?」というキリストの言葉には、彼の覚悟を、彼の決断を、彼の強い意志を 問う神の問いかけ。単なるフィーリングや感情、一時的な癒し・解決だけでは、その場限りであって、彼の生涯を力強く変えて行く力となはならない。

 勿論、神はどんな人をも救う事ができます。しかし、救われたいと思わない人、救われたくない人を救う事は、神にもできない。神はどんな病をも癒す事ができる。でも癒されたくない人を癒す事は神にもできない。いいえ、神はあえて癒さないのです。神はどんな罪をも赦し、魂を解き放つ事ができる。しかし、罪赦されたくない人を、即ち、私には罪がないと言い張る人を、赦す事は、神にもできない。だだから、キリストは彼の意思と決断と覚悟を尋ねて 「なおりたいのか?」 と聞かれたのです。

 イエス様は、聖書の中で幾た度も 「私に何をしてほしいのか?」 と聞かれた。そして、「貴方の信仰のとおり、貴方の信じた通りに、貴方の身になるように」 と言われた。大切なことは神様の問いかけに対して、意思をもって口で告白すること。「癒されたいです」、「なおりたいです」、「赦されたいです」。あなたの告白を神様は待っておられるのです。


 今週の「5つのパンと2匹の魚」は16日の特別礼拝、横浜カルバリーチャペルの柴田牧師のメッセージより引用致しました。
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by carbondalle1996 | 2014-02-19 11:22 | 日記 | Comments(0)
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