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5つのパンと2匹の魚

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神様が掻き回される時

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彼は、キリストに「治りたいのか?」と聞かれて、何と答えたか?

この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。(ヨハネ5章7節)

 自分の意思があるのか?ないのか?癒されたいのか?今のままでいいのか?ただ、他人のせいにして言い訳をしている。彼は、癒されて自分の足で立ち、自分の足で歩くより、ただ、過去を恨み、人のせいにして生きる方が、今のままの方が楽であった。決断して覚悟して立ち上がる事、即ち、変わる事を選ぶのは、簡単ではありません。でも、私達は、だからと言って、今までのままでいいのでしょうか?

 スヌーピー もこう言っています。「昨日、僕は犬だった。今日僕は犬である。明日もきっと僕は犬であろう。
でも僕は本当にこれでいいんだろうか?」教会の犬ドルチェに聞いてもいいかと思います。「お前はそのままでいいのか?」 ドルチェは何と答えるでしょうか。実はそのままでいることが、昨日も今日も明日も変わらずにそのまま横たわっているのが一番簡単なのです。

 I兄も病気との闘いで、長く苦しい治療に耐えている。変わろうとすれば、癒され様とすれば、立ち上がろうとすれば、そこには痛みと戦いが待っている。癒され、立ち上がり、歩きだしたら、もう誰かのせいにする事も、自己憐憫に浸る事もできない。自分で、仕事を探し、学校に生き、生活を立てなければならない。ただ、引きこもっている事はできなくなります。

 キリストに出会い、癒されて終わりではない。この「ベテスダ」を去るなら、彼を厳しい現実が待っている。その現実を歩むには、単なるキリストとの出会いや癒しだけではなく、彼の、彼自身の、癒された者として、この足で立ち、この足で歩むという強い意志が必要だから。彼自身が、癒しを、救いを、覚悟して自らの意思で選ぶ必要があった。

 ひとつ、不思議な事が書いてある。そこには御使いが降りて来て静かな池の水をかき回す 「水がかき回されると」誰かが癒されるという。私達は、人にかき回されるのがきらい。「先生、これ以上、私の家庭を、夫婦関係をかき回せないでほしい!」池の水も、普段は穏やかで綺麗に見えるが、かき回すと底に貯まった泥が、全体を真っ黒にする。

 しかし、人ではなく、時々、神が、御使いが、池の水をかき回すと言う。私達は、時々、神によってかき回される事が必要な存在。神が、その水を底から、汚いもの、見られたくないもの、触られたくないものをぐわっとかき回して下さって初めて奇跡が、癒しが、救いが起こるのではないか?聖書には、キリストに癒される時、目に泥塗られ、即ち顔に泥塗られ、目が見る様になった人や家の屋根に穴開けて、キリストに近づき癒された人がある。

 渡辺和子シスターの著書 「置かれた場所で咲きなさい」と「面倒だから、しなさい」があります。NHK「こころの時代」 「人生には穴が開く事がある・・・」 渡辺シスターは、226事件、彼女が10歳の時、陸軍大将の父が、自宅の部屋で襲われ、目の前で機関銃掃射で、肉片が壁一面に飛び散ったと彼女が証言しています。こんな大きな穴はないはず、これほど人生ズダズダに切り裂かれた人などない。

 しかし、「人生には穴が開いてしまう事があるが、その穴を通して、穴が開いたからこそ、今まで見えなかったものが見るようになる。 昼間、深い井戸の底にある水には星が写っている。昼間肉眼では決して見えないはずのものが、そんな暗く深い穴の中から見える。

 だから、かき回されても恐れる事はありません。その深く暗い穴からしか見えない神の愛と恵みに出会うからです。ハレルヤ!


今週の「5つのパンと2匹の魚」は16日の特別礼拝、横浜カルバリーチャペルの柴田牧師のメッセージより引用致しました。
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by carbondalle1996 | 2014-02-20 23:59 | 日記 | Comments(0)
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