そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。(マタイ5章3節)
ここでイエス様は「こころの貧しい人たちは、さいわいである」と言いました。さて「こころの貧しい人」とは一体どのような人でしょうか。では「こころ」とは何でしょうか。よく人は、「神を見せてみろ、そうしたら神を信じてやる」と言いますが、そのような人に私は、「あなたは心があると言いますが、それではあなたの心を見せてください」と応じます。心が無いという人はいません。心をもっていることは誰もが認めます。しかし、それを見せることができないのはなぜでしょうか。応えは簡単です。心は物質ではなく、霊だからです。神様も同じです。私たちが神様を見ることができないのは、私たちが物質界である3次元の世界に生きているからです。神様は霊の世界という4次元の世界におられますから、3次元の私たちは霊を見ることはできません。
神様は最初の人アダムを土で造られたときに、息を吹きかけました。するとアダムは生きた魂となったと聖書にあります。この息というヘブル語は霊とも訳される言葉です。つまり土で作った人形に神様の霊が吹き込まれたときに、人は生きた魂、つまり心が作られました。ですから私たちがこの地上での生涯を終えて、体が火葬場で焼かれて灰になったとしても、霊である心は焼かれて灰になりません。霊の国である天国へ帰ります。それではこの霊であるこころが貧しいとはどういう意味なのでしょうか。
例えば、私たちはお腹が空くとご飯を食べます。私などは欲張ってご飯を二膳たべると苦しくなって後から後悔したりします。腹八分目とは本当だと思います。それでは霊である心の空腹を満たすためにはどうしたら良いでしょうか。ある人は、それはお金だと言います。一所懸命働いて、会社を持って、お金持ちになって、大きな家に住んで、スポーツカーに乗って、結婚してたくさん子供を産んで。夢は尽きません。ではそのような夢を1つ1つ叶えたら、心の空腹は満たされるでしょうか。
趣味の旅行やレストランでの食事、友人とゴルフ、お食事、映画やミュージカルを観るというのも素晴らしいことです。こういった夢を叶え、趣味をすれば私たちの心は満たされるでしょうか。いいえ、霊で造られた心を満たすものはこの世界のものではなく、霊である神様御自身です。私たちの心に霊である神様を迎えるときに、私たちは初めて心の満たしを経験します。イエス・キリストを迎える心こそ平安に満ちた心なのです。