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世の光

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あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることができない。(マタイ5章14節)


 私の家は山手台という高台にあります。会社から帰宅すると金足線から山手台の家々の灯りがよく見えます。そうした光景を見ると「山の上にある町は隠れることができない」と言われたイエス様の言葉がそのとおりだと思います。あかりは部屋の中央の天上に置かれ、部屋全体を照らします。イエス様はそのように私たちはこの世を照らす光だと言いました。私があなたを光としようと言われたのでもなく、これから光となると言われたのでもなく、光であると言われました。

 さて、イエス様がこの言葉をおっしゃられた場面を考えてみると、この場面はガリラヤ湖畔にイエス様を求めて大勢の群集が集まって来たという場面です。世の聖人君子が集まって来たのではありません。世界中の王様がそこに集ったのでもありません。泥棒、病人、取税人や盲人など当時のユダヤ社会から捨てられた人々です。世の価値観から言えば悪い人々です。なぜなら社会のルールを守ることなどできなかっただろう人々です。ですからここでも何度も言いますが、地の塩にも世の光にも到底思えない人々です。世の光とは真逆にある人々。

 そのような人々にイエス様が、「あなたがたは地の塩、世の光です」と言われたのです。イエス様の言葉を聞いた人々は大笑いしたかもしれません。この場にパリサイ人や律法学者がいたら、きっと大笑いして出て行ったと思います。パリサイ人や律法学者は自分達こそこの地の腐敗を清める塩であり、この世の光として人々に律法を教える者だと思ったでしょう。そして彼らはこの群集こそこの地の腐敗であり、この世の暗闇そのものだと見下したと思います。ではどうしてイエス様はこの群集に向かって「あなたがたは地の塩、世の光です」とおっしゃったのでしょうか。ルカ福音書でイエス様はこのようなお話をしています。

「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

 自分の罪を認める者。自分の罪を悔いる者。神様はそのような者を憐れみ、顧みられるのです。神様が作り出す世の光とは、そのような者の内に住まわれるキリストの光なのです。あなたはパリサイ人のように自分には罪が無いと言いますか。それとも取税人のように自分の罪を告白しますか。イエス・キリストはあなたの罪の身代わりとなるためにこの地上に来られたのです。イエス・キリストを迎え入れるならば、あなたの内にキリストが住まわれ、キリストが光となります。
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by carbondalle1996 | 2014-04-01 06:17 | 日記 | Comments(0)
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