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5つのパンと2匹の魚

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我土の器なれど

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しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。(Ⅱコリント4:7)

 私たちはもろく弱い、欠けだらけで今にも壊れてしまいそうなみすぼらしい土の器です。ですから器をどんなに綺麗に磨いても、色を塗って綺麗に見せても土の器には変わりません。器の価値はその中に何が入っているかです。

 例えば、ここに金の杯と銀の杯、銅の杯と欠けだらけのお茶わんがあったとします。金の杯はこう言うでしょう。「俺が一番だ。勝者はみんなこの杯から最高のぶどう酒を飲むんだぞ」と。銀の杯はこう言うでしょう。「俺は二番だ」と。そして銅の杯は「おれは三番だ」と。そして金、銀、銅の杯は欠けだらけの古びたお茶わんに向かってこう言います。「お前なんてあっちいけ。お茶わんから飲むのは犬くらいだ」。お茶わんは思います。「そうだなあ。こんなお茶わんから飲む水を飲むのは犬くらいだな」と。

 そのときこの4つの杯の持ち主が来て、金と銀と銅の杯に水を入れて、お茶わんに最高のぶどう酒を入れました。このとき3つの杯はどう思うでしょう。ぶどう酒が注がれたお茶わんを羨ましいと思うのではないでしょうか。器の価値はその器に何が入っているかです。これが神様の視点です。

 しかしこの世の視点はどうでしょうか。金や銀の器のように、器の素晴らしさを誇るのではないでしょうか。器を磨いて、磨いて、ピカピカにして、中に入っているもので誇るのではありません。器そのものの素晴らしさで誇って行く方向。それがこの世の方向です。

 しかし地の塩、世の光と言われたキリストの方向はこれと全く逆です。触れればすぐに壊れてしまいそうな弱い土の器の中に素晴らしい宝が入っている。だからこの土の器は何も立派にならなくても良いのです。自分を磨いて、難行苦行して、善行を積み上げて悟りを開いて、立派な器となる必要はありません。自分が神様から創られた土の器にすぎない存在であることをまず認めることです。ですから欠けだらけで、失敗ばかりする、弱い、愚かな器であることをいよいよ認めてゆけば良いのです。

 それがどうでしょうか。土の器であること忘れて、金や銀の器とその美しさ、綺麗さ、強さ、素晴らしさで比べあってゆくならば、内なる宝の輝きはいよいよ閉ざされてしまうのです。神様はパウロに言いました。「わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」と。ですから私たちは土の器としての弱さ、愚かさを素直に認めて土の器になって行けばよいのです。ならば内なる宝キリストの光はいよいよ輝いてゆくのです。イエス様の言われた世の光とはそのような光です。それは私たちの努力や能力から出るものではありません。ただキリストによってなされる光なのです。
 
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by carbondalle1996 | 2014-04-02 05:29 | 日記 | Comments(0)
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