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アブラハムの謙遜

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アブラハムはどのように謙遜な人へと成長したのでしょうか。アブラハムは社会道徳や社会倫理を習得して修行して謙遜を身につけたのではありません。何度も失敗を経験して失敗を失敗として認め、心貧しくされ、その度に神様に下に立ち返りました。ですから基準は神様にあります。

 これがもし基準をすばらしい社会道徳や倫理に置いたらどうでしょうか。もっとそこにたどり着こうと自分自身を磨き、修行し、辿りついたときには自分自身を何処かで誇るのではないでしょうか。そこで得た謙遜とは修行の結果獲得したものです。ある境地に達した結果の謙遜です。

 しかしアブラハムの謙遜は違います。基準をこの世の崇高な社会道徳や倫理に置いていません。基準を神様に置いていました。アバラハムは神様の声に従わずにエジプトへ逃れて失敗しました。自分の妻を妹として大きな失敗をしました。そのときアブラハムが戻ったのは、ベテルとアイという町の間の地まで戻りました。どうしてエルサレムではなかったのでしょうか。どうしてヘブロンではなかったのでしょうか。ベテルとアイという町の間にある名前もついていない地ですが、アブラハムはそこで神様に最初に祭壇を築いた場所だからです。

 アブラハムは基準を神様に置き、自分がどこから落ちてしまったのか。自分は何処で神様の声から外れてしまったのか。その失敗を失敗として神様の前で素直に認めて、神様の下に立ち返りました。サラがアブラハムにハガルによって子供を得なさいと言われたときも、否定せず妻の言うままに従いました。その結果、ハガルがみごもると今度はサラからこの責任はあなたにあると責められました。アブラハムにしてみれば、「妻のお前がそうしろと言ったではないか。お前の責任だ」とは言いませんでした。妻の言葉をそのまま受けて、「ハガルはあなたの奴隷です。あなたの手の中にある」と妻に委ねました。アブラハムは妻の失敗もまた自分が神様の約束を待つことができずに犯した失敗だとそのまま認めました。

 このようにアブラハムの謙遜は決して修行の結果得た悟りでも、その境地に達したというものではありません。これは神様の賜物だと思います。神様が御霊の実としてアブラハムに謙遜の実を結ばせたもの。ですからそれはアブラハムの能力ではありませんから、アブラハムが誇るものでもありません。誇るならばそのような実を結ばせてくださった神様を誇るのみです。栄光在主。ハレルヤ!
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by carbondalle1996 | 2014-04-03 06:59 | 日記 | Comments(0)
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