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5つのパンと2匹の魚

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アメニモマケズ

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 斉藤宗次郎さんは岩手大学に在学中に内村鑑三を通してキリスト教の影響を受けました。小学校の教師になってから、彼の信仰は益々燃えて、「真に子供を教育するにはキリスト教しかない」と信じて聖書を使って授業をするようになりました。当然、彼の名前は岩手県中に知れ渡る問題教師となりました。時代は日露戦争へと日本が突き進むときであり、そのような中で子供達に戦争反対を教えていました。こうときめたら曲げられない一本気な性格だったのでしょう。

 その頃から迫害が激しくなり、国粋主義者に何度も刃物で切りつけられたそうです。一番辛かったのは、当時8歳だった長女の愛子ちゃんが、男の子から「ヤソの子」と呼ばれてお腹を蹴られ、腹膜炎を起して天国へ帰ったときだったと言っています。宗次郎さんは、晩年になって花巻での苦難の日々を語ったとき、特に愛子の死のくだりでは、目に涙を光らせ、声を奮わせたそうです。そしてとうとう小学校の教師を退職させられました。それからの宗次郎さんは、生計を立てるために新聞配達をしました。
 
 毎朝3時に花巻駅に新聞を取りに行き、重い新聞紙を背負って、一軒一軒駆け足で配達して回りました。十歩行っては神様に感謝し、十歩行っては賛美する。日に3回も4回も花巻駅まで新聞を取りに行き、新聞配達の途中に彼はいつも子供達にお菓子を与え、貧しい人々に恵みを施したそうです。自分が食べて行くのに精一杯な時代に、いつも貧しい人々を施し、助けたそうです。そして、仕事が終わると病床にある者を訪れて、慰めることに務めました。そして夕刊の配達が終わるのが午後の9時。それから毎日3時間、宗次郎さんは、賛美し、聖書を読み、お祈りのときとしました。

 宗次郎さんが、雨の日も、風の日も、雪の日も新聞を届けたのはもちろんですが、新聞の到着が遅れるときは、一軒一軒予告して回ったそうです。こうした誠実な姿に、顧客の評判は上がり、販売部数は少しずつ増えました。

 宗次郎さんが、49歳のとき、花巻を去り上京するときのことが、彼の日記にこう記されています。「誰も見送りに来てくれないと思って駅に行ったら、そこには信じられない光景があった。そこには身動きしない群集が集まっていた。私達のような家族を見送るために、町の有力者の人々、僧侶、神主、友人、乞食の人々、そして多くの人々が私達を見送りに来てくれた。駅長さんは、出発する時間を少し遅らせてくれた。機関士の方はわざと徐行してくれた。涙を流して、『さよならー』とわかれた。」

 この見送りに来た群衆の中に宮沢賢治さんがいました。彼は後に斉藤宗次郎さんをモデルにして「アメニモマケズ」を書きました。
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by carbondalle1996 | 2014-04-05 21:24 | 日記 | Comments(0)
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