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5つのパンと2匹の魚

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我らが赦すごとく

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わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。(マタイ6章12節)

 私たちが礼拝の中で唱える主の祈りでは、「我らの罪を犯した者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と読んでいます。マタイ福音書では、罪を犯した者というくだりを「負債のある者を」と言っています。この箇所がよく理解できるのがマタイ18章21節のイエス様のたとえ話です。

 私たちは神様に払いきれない負債があります。しかし、神様は一方的な憐れみによって赦してくださいました。それが十字架です。神の御子イエス・キリストが十字架によって私たちの全ての負債を代わりに支払ってくださいました。ゆえに私たちは全ての負債が免除され、天国に入ることが許されたのです。私たちが払いきれない大きな負債を神様が許してくださったから、神様は私たちに対して負債のある他者を許すことを求められるのです。

もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば、あなたがたの父も、あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう。(マタイ6章14~15節)

 赦すという漢字は許可という漢字の許しではなく、恩赦などに使われる赦しです。この2つの漢字の違いは、許可の許しは相手の主張を聞き入れることに由来します。通行許可などはこれです。しかし、恩赦などに使われる赦しという字は違います。決して赦されることのない刑罰が赦されるという意味です。

 愛するということは赦すことです。私たちが神様を愛しているということをどうやって態度や行動で証明するのか。それは隣人を愛することによって神への愛を全うします。愛するべき隣人を愛したからといって、それが神様の愛であるアガペーを表したことにはなりません。アガペーの愛は敵をも愛するという愛です。愛せない隣人、憎くて仕方が無い隣人、一生関わりたくないと思う隣人。そうした隣人を愛するためには、まずその人が自分に対して犯した罪を赦さなければなりません。私たちはもうすでにイエス・キリストの十字架によって神様に罪赦された者であることを信じました。だから私たちも赦せない相手を赦すのです。

 あなたはどうしても赦せない人はいますか。もしいたら、どうぞ赦しを宣言してください。なぜならば神様はもうすでにあなたの罪をイエス・キリストの十字架によって赦してくださっているからです。大川先生は赦すことを習慣化すると教えています。毎日、赦すこと。嫌なことがあったら、否定的な言葉を出さずにすぐに感謝を口に出し、そして相手を赦すこと。どれだけ本人が恵まれるでしょうか。

 赦すことは決して相手のためではありません。よく相手を赦すことは相手がもっと増長するだけだとおっしゃる方がおりますが、そうではありません。今日学びましたように、神様は隠れたことも見ておられます。相手が間違っていれば、必ずその報いを受けます。自分が正しければ、神様はちゃんと私にも報いてくださいます。しかし、ずっと赦さない心であれば、神様は心の中も見ておられますから、祝福されません。それどころか、サタンが入ってきてそこから悪い思いをどんどん入れ始めます。その結果、憎しみや、恨みが心を縛ってしまいます。

 ですから相手を赦すことは、あなた自身が神様から祝福されること。すべて自分に帰ってきます。ですから赦しとは天国の祝福の窓を開く鍵だと言われています。どうぞあなたもこの赦しの鍵を用いて、天国の窓を開いてください。あなたの心は開放され、天国の祝福があなたの人生に臨まれます。
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by carbondalle1996 | 2014-05-02 06:18 | 日記 | Comments(0)
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