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5つのパンと2匹の魚

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みにくいアヒルの子

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 私たちはイエス様の十字架によって罪赦された者です。ですから他者の罪を裁くのではなく、赦す者でなくてはなりません。裁くお方は神様ただお一人です。ですから私たちが他人を裁くとき、私たちは自分を神様の座に置いていることになります。すると私たちは知らず知らずのうちに神様を追い出しているのです。イエス様は私たちを裁くために来られたのではありません。罪赦すために来られました。ですから私たちが裁くとき、イエス様は私たちの反対側である裁かれる者と共にそこにおられるのです。

 するとそこに悲劇が起こります。私たちはイエス・キリストを愛している。イエス様を多くの人々に知ってもらいたいと望んでいるのに、キリストは私たちの反対側に立っているという悲劇が起こるのです。家庭で家族を裁くとき、教会が裁き合うとき、会社で裁き合うとき、イエス様は裁かれているその相手の傍らに立っておられるのです。クリスチャンが他人を裁くとき、教会はイエス様を追い出し、聖霊様を教会から追い出してしまうという悲劇を生んでしまうのです。

 私たちは相手の罪が梁のように大きく見えて、自分の罪は塵のように小さく見える者です。しかし私たちが神様を本当に信じているならば、他人の失敗や欠けが見えたならば、それをもってそのまま神様にぶつかって行けば良いのです。人にぶつかってゆけばその梁はいよいよ大きくなるばかりで、自分の欠点はますます見えなくなります。しかし他人を裁くその心をそのまま神様にぶつけて行くならば、その比較は逆になります。ちりほどにしか思わなかった自分の側の欠点が、主の光に照らされ、主の愛に接して行くときにだんだんと梁のように大きくなり、相手の欠点はだんだんと小さく塵のようになってゆきます。神様は真実な方ですから、私たちが本当に主に向かってそのようにぶつかってゆくときに本当にそのような体験をします。

 私は昔、クリスチャンになって地元の教会に通っていた頃は、そのように他人の欠点が梁のように大きく見えてばかりいました。ですから牧師を裁き、教会員を裁き、青年会を裁いていました。私の親友のNくんが当時の私の状況をこう言っています。「小西さんはあの頃、バッタ、バッタと人を裁きまくって、返り血がすごかった」。恥ずかしい限りです。当時は自分の罪など見えず、相手の悪い所しか見えませんでした。クリスチャンなのに聖書もろくに読まない、クリスチャンなのに祈りもしない、クリスチャンなのに祈祷会にも来ない。クリスチャンが未信者と結婚ばかりしている。もう裁いてばかりいました。

 あるとき車を運転しているとき、自分が裁いてばかりいたことが神様から示されました。そして私が一番裁いていた青年会の友人が、私のために祈っているということを知ったときに私は本当に自分が高慢で目の中に梁があったことを知りました。イエス様が言ったとおり、私は自分が裁いたため神様に裁かれ、自分が測ったその計りで自分も秤り返されていたことを知りました。

 韓国釜山で牧会されているジョン・ビルド先生はこの神様の真理についてこう解き明かしています。「私たちが醜いアヒルの子と決めつけた人でも、神様が用いてくだされば一晩で美しい白鳥に生まれ変わることができる」と。

 みなさんの周りにみにくいアヒルの子はいませんか。私の周りにたくさんいます。そのようなアヒルの子が生き生きと働いている姿を見てその理由を見て納得しました。その人の隣に座っている人が、その人を信じているからでした。人から信じられている。信頼されているということが、この人を白鳥にしているのかなと思いました。私たちが醜いアヒルの子と決めつけた人でも、神様が用いてくだされば一晩で美しい白鳥に生まれ変わることができるのです。隣人をアヒルの子とするか、白鳥とするかはあなた次第です。
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by carbondalle1996 | 2014-05-23 05:56 | 日記 | Comments(0)
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