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5つのパンと2匹の魚

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神様の配慮と愛

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 私がアメリカで聖書研究会をしていたときに宣教師先生に「何を求めるのですか」と尋ねたら、宣教師先生は聖霊を求めなさいと言われました。神様は必ず聖霊を与えてくださいます。聖霊を求め祈り続けたときに、私は自分が捜し続けたお方が救い主イエス・キリストであったことを知りました。私が生まれてからすっと捜し続けていたお方は救い主イエスであり、真理であり、神の存在でした。捜した結果、私はその方を見出し、真理を見つけることができました。そして自分がずっと天国の門を叩き続けていたことを知りました。イエス様を知らなかった私がどれだけ叩いても開かなかったその門は、今は私の前で開かれていることを確信しています。イエス様を信じることによって天国の門が開かれ、永遠の命が与えられていることがまさに恵みです。そのことを知ると続く12節の御言葉も理解できます。

だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。(マタイ7:12)

 私たちは罪人であった者が罪赦され、神様によって聖霊が与えられ、救い主を見出し、永遠の命という天国の門が開かれた者です。神様は私たちの願いを聞き、永遠の命を与えてくださいました。だからです。だから私たちも自分が与えられたように、自分が隣人からしてほしいと願うことを、隣人にしてあげること。それが聖書の教えです。

 イエス様は聖霊を求め続けなさいと言いました。聖霊を求め続けることは、神様の御心を求め続けることです。そのように祈るときには、私たちはこの求めは神様の御心に添っているだろうかと考えます。神様は必要であれば必ず与えてくださいます。なぜなら神の国とその義を第一とするならば、必要なものはすべて与えられるというのが神様の約束だからです。

しかし願ったものが与えられた方もいれば、そうでない方もおられます。私たちは祈祷会で創世記から学んでいます。アバラハムは神様から子を与えると約束して30年待ち続けました。途中待ち続けられずハガルというそばめからイシュマエルという子が与えられましたが、イシュマエルは約束の子ではありませんでした。約束の子はイサクで、イシュマエル誕生からさらに14年待ち続けました。

 約束の子イサクも成人して妻リベカが与えられました。しかしリベカも子供が与えられず20年苦しみました。イサクは妻のために神様に祈り、神様はイサクの祈りを聞き届けリベカに子供を与えたとあります。私の友人でやはりアブラハムやイサクのように子供がほしいと神様に祈り続けている夫婦がおります。もう何年も奥様は不妊治療を行いながら、神様が子供を与えてくださるように祈っています。そのようなときに祈祷会で、ある牧師先生ご夫妻が結婚して10年経つがずっと子供が与えられず、不妊治療をしてきて、もうこれで駄目ならあきらめようと決心したところ妊娠がわかったという証を伺いました。

 私たちは自分が願ったものが与えられた方、願ったが与えられなかった方、願ったものと違ったものが与えられた。そのような経験があるかと思います。しかしたとえ、自分が願ったものではなく、それが不服であったとしても、それは自分にとって必要なものであり、そこに神様の配慮と愛があることを受けとめる心が大切なのだと思います。

 
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by carbondalle1996 | 2014-06-05 08:36 | 日記 | Comments(0)
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