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5つのパンと2匹の魚

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黒田官兵衛

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 黒田官兵衛はキリシタン大名として有名ですが、彼が信仰をもつきっかけとなったと思われるのが有岡城投獄事件です。官兵衛はそこで土牢に約1年投獄されました。土牢は畳一畳程の広さですから足を伸ばすこともできません。また牢内はじめじめとした湿気で衛生面では決して良い処ではありません。有岡城が落城し土牢から官兵衛が救い出されたときには、歩くことができず担がれて出ました。この1年間の投獄によって官兵衛は額に醜い疱瘡の跡が残り、足は不自由となりこれ以降は杖を欠かさなかったそうです。

 黒田官兵衛を題材にした小説はたくさんあります。有名なところでは吉川英治や司馬遼太郎も書いておりますが、官兵衛が信仰をもつ下りについては、やはり西南学院大学を卒業した原田種正氏が書いた「黒田如水」が良いだろうと言われております。原田さんはその著書の中でこう記しています。
「誰かはわからない。しかし官兵衛は感じていた。目に見えぬ何者かがじっと官兵衛を見ている。いや、今までずっと見つめてくれたのだ。わしは気付かなかった。涙がとめどなく流れる。ここちよい涙。自分は生かされている。生き抜くのだ。」流れる涙をぬぐいもせず、官兵衛は春の陽射しの中、何事かを語りかけるように小さく震えている花を見つめている。生き抜いてみせる。どんな状況であろうと見えざる手、自分の命に差しのべられているみ手を感じることができた。」

 同じく西南学院大学を卒業した葉室麟という小説家は「風渡る」という小説の中で、「官兵衛は藤の花のツルを見たときに何かを感じた。このまま死ぬであろうと思われていた官兵衛に、藤の花は「生きよ」という言葉を運んで来ているように思えた。藤のツルはやがて紫のきれいな花を咲かせた。

 土牢の中は暗闇です。それは白黒のモノクロの世界。しかし格子の外に見える藤の花だけは紫という美しいカラーを映している。光輝くその花は官兵衛に生きることの素晴らしさと希望を与え、官兵衛の人生を見る視点を変えただろうと言われています。官兵衛はきっと獄中で神様の御手を見たのだと思います。生まれてきたときからずっと自分を見ておられた神様の御手を感じたことでしょう。

 黒田官兵衛が洗礼を受けたのがいつであったかは記録にありません。しかし、おそらく37歳前後だろうと言われています。その年、官兵衛は大阪城築城のため大阪におりました。大阪はそのころキリスト教の教会が建てられ、クリスチャンであった高山右近や蒲生氏郷に導かれて洗礼を受けたどろうと考えられます。高山右近は死ぬまで信仰を守ったクリスチャンとして有名です。最後は徳川家康によってフィリピンのマニラまで島流しの刑となりました。蒲生氏郷は会津地方に移されそこを福島という地名に改めました。会津若松城を築城したのは蒲生氏郷で、氏郷の死後は上杉景勝がその地を治め、関ヶ原後は松平家が治めました。

 官兵衛が洗礼を受けたであろう大阪築城時代から4年ほど前に姫路城を築城しています。日本で最も美しいと呼ばれる姫路城は官兵衛が築城しました。その瓦には鬼瓦に十文字が掲げられています。これは官兵衛がキリスト信仰を掲げていた証拠だと言われています。明治時代になって多くの城が明治政府によって取り壊されましたが、十字が刻まれた瓦を頂いた姫路城が今日まで残されているという奇跡も神様のみわざだと私は思います。

 官兵衛の洗礼名はジョシュアです。そして彼は若くして家督を息子の長政に譲り、隠居して名前を如水と改めました。如水とは水の如しという意味でもあり、洗礼名ジョシュアにちなんだとも言われています。官兵衛は1604年に京都で亡くなりましたが、そのとき息子の長政に遺言を残しました。1つは自分の遺体を地元福岡に運び、博多で宣教している神父に委ねること。2つめはキリスト教の神父たちを厚く処すること。3つ目はイエズス会に320石、現在のお金にして3200万円相当を捧げること。イエズス会はこの官兵衛の献金を用いて2年後に会堂を献堂し、その献堂式は官兵衛を記念した追悼ミサであったそうです。
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by carbondalle1996 | 2014-06-07 06:46 | 日記 | Comments(0)
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