そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。(マタイ8章8節)
ところがこの百卒長は、せっかくイエス様が「わたしが行ってなおしてあげよう」とおっしゃったにもかかわらず、それを断りました。それは自分にはイエス様を自分の家に入れる資格が無いというものでした。
使徒行伝10章では、神様を敬い、ユダヤ人から敬われていたコルネリオという百卒長が登場します。コルネリオは御使いからヨッパへ人を送り、ペテロを招くように促されます。このときペテロはその場にいた人々に「あなたがたが知っている通り、ユダヤ人が他国の人と交際したり、その家を出入りすることは禁じられています。ところが神様はどんな人間もきよくないと言ってはならないと示された」と言って、コルネリオに洗礼を授けました。このようにユダヤ人は異邦人である外国人と交際することや、その家に入ることは固く禁じられていたのです。
百卒長はこうしたユダヤ人の習慣を知っていましたから、イエス様を自分の家に迎え入れる資格が自分には無いと言ったのです。しかし、彼の願いは僕の癒しです。そのためにイエス様にお言葉をくださいと願いました。百卒長が見ていたのは権威でした。それは彼自身が権威の下にあるから良く知っていました。軍隊の中で上官が部下に対して発する命令は絶対です。「行け」と命じれば行き、「留まれ」と命じればいつまでも留まります。それが権威でした。百卒長は軍隊という権威の下にいましたので、このことがよくわかっていました。
ですからイエス様に「ただ御言葉をください」と願い出たのです。彼はイエス様が大勢の人々の病を癒したことを知っていました。そしてイエス様が癒すそうした力というのは、神様という権威から出ていると考えました。神様の権威ならば、たとい物理的に距離がそこにあったとしても、神様が命じたとおりになる。それが百早長の信仰でした。百卒長もまた癒されたらい病人のようにイエスをメシヤとして信じていました。信じたゆえにみ言葉を願い求めたのです。
あなたは何を求めていますか?癒しですか?奇跡ですか?それを行う方はイエス様です。イエス様を救い主として信じてください。ただお言葉をくださいとイエス様に向かってゆくならば、聖書を通して主はあなたの心に語ってくださいます。今日も主のみことばに聴き従う者となりましょう。