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5つのパンと2匹の魚

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律法学者の献身

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するとひとりの律法学者が近づいてきて言った、「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」。 イエスはその人に言われた、「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」。(マタイ8:19~20)

 ここで一人の律法学者が登場します。この律法学者はイエス様が語った山上のメッセージや、大勢の病人が癒されたのを見て、イエス様に従いたいという思いが与えられたのでしょう。感動したその人は「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。イエス様はこの律法学者の言葉を喜んで、「よく言いました、わたしに従って来なさい」と言ったのかというとそうではありません。「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」と答えました。これはどういう意味なのでしょうか。

 イエス様はこの律法学者に何を見ていたのでしょうか。律法学者はこのときイエス様のことを「先生」と呼びました。それは教師という意味です。あのらい病人はイエス様の下に来てメシヤと信じてひれ伏して礼拝しました。百卒長はイエス様のことを「主」と呼びました。呼び方が問題なのではなく、それを告白した心が問題です。
 
 この律法学者はイエス様を一人の優秀な教師と考えたようです。それではイエス様に従うことはできません。イエス様に従うとはまず悔い改めが必要です。悔い改めとはギリシア語でメタノイアと言います。それは180度方向を転換すること。今までは自分の正しさで歩んできたその方向を180度変えて、神様の方向に歩むこと。

 この律法学者は聖書については十分学んできた。衣食住にも困っていない。人々の賞賛も得た。そこへナザレ人イエスという若者に出会った。この青年は病人を癒し、悪霊を追い出すこともできる。この人についてゆけば、自分はもっと立派な学者になれる。そう考えたかもしれません。彼は今までの律法学者としての生活や歩みの延長戦上で、イエス様に従おうと考えました。

 間違えてはいけないのは、私たちの人生の延長戦上にはイエス様はいないということ。私たちが自己中心で歩んできた道を悔い改め、180度方向を転換したその延長戦上に主が立っておられるのです。イエス様は律法学者の心にあった誤った献身の姿勢を見抜いて、このように答えたのだと思います。わたしに従う道に宿も枕も無いと聞いたこの律法学者は、きっと自分の家に帰ったと思います。
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by carbondalle1996 | 2014-09-03 06:20 | 日記 | Comments(0)
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