長崎の平戸市出身の了斎は、目が不自由であったため、琵琶法師として生計を立てていた。彼の人生に転機が訪れるのは、1551年のことである。彼は山口の街角でたどたどしい日本語を話す男の声を聞いた。その声の主こそはフランシスコ・ザビエルであった。ザビエルの話を聞いていくうちに了斎は話の内容に不思議な魅力を感じるようになっていった。キリスト教についてのさらに深い説明を聞いた了斎はザビエルの手によって洗礼を授けられ、ここにロレンソという洗礼名を受けた。以後、ロレンソと呼ばれることになる彼はキリスト教布教に生涯を捧げることになる。
この琵琶法師であったロレンソは、学問は耳学問だけです。文字も読めません。しかし、ロレンソは、記憶力抜群、説得力に富み、言葉の操り方は、元琵琶法師ですから、プロフェッショナルでした。おまけに、あっちのお寺、こっちのお寺を巡り歩いていましたので、あらゆる仏教宗派の教えに通じていました。当時、キリシタンの宣教師に論争を仕掛けてくる者といえば、何と言っても、僧侶でした。ところが、ロレンソ了斎は、どんな仏教の論客をも説得してしまうのでした。それどころか、説得された僧侶が洗礼を受けることになるケースも、珍しくありませんでした。
ザビエルが日本を離れた後も、ロレンソはイエズス会の宣教師たちを助けて働きました。1559年、ロレンソは京都に入り、苦労の末に将軍足利義輝に謁見し、キリスト教布教許可を受けました。
すると、キリスト教に対し敵対意識を持っていた大和国、奈良の松永弾正という戦国大名が、家臣の結城山城守らにキリスト教の宣教師を論破させ、ギャフンと言わせようとして、ロレンソを城に招かせたのです。早速、ロレンソは、奈良に赴き、結城山城守ともう一人、清原外記(げき)という人物と論争をしました。この男は、中国と日本の漢字の専門家で、天皇に教える教師でもあったのです。
その松永弾正の前で、数日間、激しい論争が続けられました。ロレンソは理路整然と結城山城守と清原外記の攻撃を論破して、その疑問にことごとく明快に答え切りました。すると、二人は、ロレンソ了斎に完全に降参して、ついに、二人は洗礼を受け、キリシタンになってしまったのです!
議論を審査するために、その場に居合わせた高山飛騨守友照も、ロレンソの話にすっかり感心して、自分の城に秘かにロレンソを招き、12歳の息子右近や家臣たちと一緒に、さらに詳しく教えを乞いました。そうして、何と、高山友照は息子右近や家臣などと一緒に洗礼を受けてしまったのです。 皆さん、このように、高山右近をキリストに導いたのは、乞食同然の、盲目の琵琶法師、ロレンソ了斎であったのです。そしてこ高山右近によって黒田官兵衛が導かれて救われました。