わたしの弟子であるという名のゆえに、この小さい者のひとりに冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、決してその報いからもれることはない」。(マタイ10章42節)
イエス差は、弟子を受け入れることは、弟子を遣わしたイエス様を受け入れることと同じであり、それはイエス様を遣わした神様を受け入れること。そして預言者や義人を受け入れることは、彼らを遣わした神様を受け入れることであり、受け入れた者は必ずその報いに預かると約束されました。だからイエス様の弟子であるという名のゆえに、水一杯でも飲ませてくれる者は、その祝福からもれることはありません。水一杯というのはとても小さな行為です。しかし、そのような小さな行為であっても神様は必ず祝福で報いてくださるという約束です。
私が小学生の時の出来事です。私が学校から帰って家に入ると台所に幼稚園のS先生と母親がお茶を飲んでいました。S先生は私を見て、「小西くん、元気。大きくなったわね」と言ってくれました。そして母親が私にこう言いました。「S先生は、お前に日曜学校へ来ないかと誘ってくださっているよ。お前こんど教会の日曜学校絵へ行ったらどうだい」。
私は遊びが大好きでしたから、日曜日に教会に行って、じっとして先生のお話を聞くなんて嫌でしたので、その場で「嫌だ。日曜日は友達と遊ぶ」と言って断ったのを覚えています。しかし、今こうしてこの聖書箇所を読むと、私が今こうして伝道者とさせて頂いた恵みは、私の母親が日曜学校を誘いに来てくださった幼稚園の先生にお茶とお菓子を出した行為の祝福を受けているのだと思いました。
私が育った教会付属シャローム幼稚園の先生はみなさん献身者で、私の担任だったS先生は結婚して川越ホーリネス教会の牧師夫人となりました。年長組担当のO先生もやはり伝道者と結婚されて、ロサンゼルスにある日本人教会の牧師夫人となり、一昨年病気で天に召されました。年小組担当のK先生もクリスチャンの男性と結婚され、クリスチャンホームを作り、家族で教会に仕えているそうです。
まさに幼稚園の先生方はみなさん献身者であり、イエス様のお弟子さんたちでした。私の母親は幼稚園の先生だと思ってお茶とお菓子を出したのでしょうが、神様はその行為を「わたしを受け入れた」と喜ばれ、あのとき日曜学校を断った私を伝道者として導いてくださったのだと思います。まさに水一杯の行為の報いを、私はこの身で受けたのでした。本当に神様は真実なお方です。この方に信頼して今日も歩みましょう。