私達が人々にイエス様を伝えるとき、私達はイエス様に遣わされた者となります。そして私達は相手に祝福を届ける者なのです。相手が私たちに水一杯ほどの親切をもって迎えてくれるならば、その人は私たちを遣わしてくださったイエス様に親切をしたのであり、その家庭に必ず祝福されます。私達は祝福を届ける者なのです。
どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。(マタイ10章11~14節)
ここでイエス様が平安と言った言葉を祝福に置き換えるとこの御言葉の理解が深まると思います。私たちは祝福を他者のために祈ります。その祝福を相手が迎え入れるならばその家に祝福は訪れます。しかし拒絶するならば、あなたが祈った祝福はあなたに帰ってきます。私達は神様の祝福を届ける者なのです。
大川先生が祈祷会で大和教会の歴史についてお話してくださいました。最初は八百屋の裏にあった座間キリスト教会。それから駅の反対側の天台に土地を購入して会堂を建てられたこと。新会堂を当時アメリカで急成長したカルバリーチャペルから名付けた事。そして大和市に266坪が与えられて、1992年に移転した事。そうした歴史を振り返りながら、大和教会が元々はホーリネスという聖め派の流れにあり、それから第三の波というカリスマの恵みという聖霊の恵みに預かったこと。
大川先生があえて祈祷会で教会の歴史を語られた背景には、大和教会は聖めを否定してカリスマに移ったのではなく、聖め(ホーリネス)を土台として、カリスマの恵みに預かったという事実です。大和教会は元々ホーリネスという福音派におりましたから、聖書信仰と福音主義に立脚した教会であること。聖書信仰とは聖書は誤り無き神のことばですという告白です。福音主義とは、イエス・キリストを信じるだけで人は救われるという告白です。
私は大和教会に移る前は志木キリスト教会という聖め派(ホーリネス)におりました。ですから私の信仰の土台もまた聖め派(ホーリネス)の教えです。この教えの上に聖霊の恵みを頂きました。私がホーリネスの群れにいたときに、牧師先生から繰り返し、繰り返し学んだ教えは「自分に死んで、キリストによって生きる」という教えです。
“私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。”(ガラテヤ書2章20節)
この御言葉から牧師先生はいつも、「自己中心という肉に己は死んで、イエス・キリストいよって聖霊の力で生きるのがクリスチャンです」と教えてくださいました。私達はみな、以前は福音派と呼ばれる教会に属しておりました。そこから神様によってカルバリーチャペルの流れに導かれました。ですから、以前属した教会から教えて頂いた聖書信仰、福音主義という土台を大切にしましょう。聖日を守ること。礼拝と祈祷会を大切にすること。聖書を読んで御言葉に聴き従う生活。毎日祈る生活。その上で聖霊の恵みの中を歩む者となりましょう。
あなたは毎日聖書を読み、お祈りしていますか。クリスチャンとして聖められた生活を心掛けましょう。