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村田若狭守政矩

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 東京新聞の記事に、「キリスト教家老」と題して、佐賀・鍋島藩の村田若狭守政矩(わかさのかみまさのり)の記事が結構大きく取り上げられました。キリスト教禁制の幕末に、キリスト教徒を取り締まる側の家老が、何とキリスト教徒になってしまった、という記事でした。

 1854年イギリスの黒船が長崎港に入りました。その長崎の警備を担当する佐賀藩の家老が若狭守政矩でした。当時、イギリス人の上陸はできなかったので、政矩は佐賀藩士古川礼之助に軍艦の訪問を命じた。古川は軍艦に訪問した帰りに海に浮かぶ油紙に包まれた小さな書物を見つけました。古川がそれを拾い上げて政矩に届けました。この本を研究しようとした政矩が、長崎奉行所属のオランダ通訳官に内容を確認したところ、英語訳聖書であることが判明した。

 政矩は、早速中国で発行された漢訳聖書を取り寄せて、禁制だったキリスト教の研究を始めたのです。政矩は独学で漢訳聖書を研究しますが、なかなか理解できず、自らは家老職のため自由に動くことができませんでした。そこで政矩は、1862年に長崎にいたプロテスタント宣教師フルベッキの所に弟・村田綾部や家臣の江口梅亭(エグチバイテイ)を送って聖書の教えを乞いました。こうして若狭守政矩は聖書の学びを3年ほど続けました。

 こうして初めて聖書を手にした12年後の1866年5月14日に、政矩は息子たちとフルベッキのもとをたずねて、目を輝かせながら、こう切り出すのです。「久しく心の中で、あなたを知り、あなたと相語ることを願っていました」。面談も終わりに近づいた頃、政矩は「洗礼を受けたい」と申し出てフルベッキを驚かせました。洗礼を受ければ、地位も財産も失い、近親者にも過酷な迫害が及ぶこと、必定であったからです。

 フルベッキは、政矩の置かれている立場に配慮して再考を促しました。ところが政矩は、必死に食い下がり、翌週5月20日ペンテコステの日に、弟の村田綾部と共にフルベッキの自宅で洗礼を受けました。明治維新より2年前のことです。ちなみに日本初のプロテスタント受洗者は、政矩が受洗する前年、慶応元年11月に横浜で洗礼を受けたヘボンの日本語教師矢野元隆だそうです。矢野元隆は死期が迫った病床で洗礼を受け、受洗後1カ月で亡くなったそうです。

 さて、政矩は洗礼を受けたあと、大きな処分を受けていないというのです。また、長男に家督を譲りたいと申し出ても、藩主は隠居を許さず、政矩を手放さなかったそうです。人格高潔で、有能だったために手放せなかったのでしょう。

 政矩は、晩年、長崎街道沿いにある領地の久保田村で、農家の納屋を借りて集会を開き、キリスト教の布教に励んだと言われています。政矩は、フルベッキとの面会でこう言ったそうです。「私が初めてイエス・キリストの品性と働きとを聖書で学んだ時の感動は、言葉にすることができません。このようなお方に今までお会いしたことも、聞いたことも、想像したこともありません」と。政矩は、キリスト教禁制の高札が撤去された明治5年(1873年)に、天に召されました。

 イエス様は言われました。「天国は、良い真珠を捜している商人のようなものである。高価な真珠一個を見いだすと、行って持ち物をみな売りはらい、そしてこれを買うのである。」(「マタイ」13・45~46)

 村田若狭守政矩は「高価な真珠一個」のために、すべてを捨てる覚悟で洗礼を受け、キリストに生きたのです。あなたは自分の持てる全てを捨てても手にしたいと思うものを持っていますか?神はあなたを愛しています。

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by carbondalle1996 | 2015-02-14 06:35 | 日記 | Comments(0)
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