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5つのパンと2匹の魚

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正義と愛の狭間で

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 バプテスマのヨハネが考えていたメシヤとイエス様のそれとは大きな隔たりがあったようです。ヨハネのメシヤ象に対する隔たりは、イエス様に対する躓きへと変わりました。それではバプテスマのヨハネが考えたメシヤとは、いったいどんなメシヤだったのでしょうか。ヨハネ自身の言葉からそれを想像することができます。

さてヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出てきた群衆にむかって言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りからのがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ」。(ルカ3章7~9節)

そこでヨハネはみんなの者にむかって言った、「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。(ルカ3章16~17節)

 バプテスマのヨハネのこれらの言葉から想像するメシヤとは、公儀を行い正しい裁きをするメシヤです。ですからヨハネ自身もヘロデの姦淫という罪を身過ごすことができず、はっきりと罪と公衆の前で指摘しました。その結果、ヨハネは投獄されました。投獄から1年以上が経過しましたが、弟子たちから聞くイエス様の話は、公儀を行い、悪を裁くのではなく、ガリラヤ湖の片隅で人々を癒したり、神の国を宣べ伝えるというものでした。

 獄中にていつ殺されるかもわからないヨハネにとって、自分の想像していたメシヤと、イエス様とのギャップがいつしかヨハネの躓きとなったのだと考えられます。ヨハネは、メシヤに裁いてほしかったのです。この悪い時代に公儀をもって悪を裁き、正義を現してほしかった。そこにヨハネ自身の釈放もあったでしょう。しかし、イエス様は御自身を公に現そうとはなさいませんでした。ですから「メシヤはあなたなのですか。それとも違うのですか」とイエス様に直接問いただしたのです。

 あなたの理想とする救い主の姿と、イエス・キリストとの間にギャップはありますか?イエス様を見つめてください。そこに真の正義と至高の愛の姿があります。正義と愛は反したもの。正義は何処までも裁きを求め、愛はどこまでも赦しを求めます。しかしイエス・キリストは、神の正義と神の愛を十字架上で成就しました。ここに私たちの救いの道があります。この方に今日も従ってまいりましょう。
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by carbondalle1996 | 2015-02-18 06:25 | 日記 | Comments(0)
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