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5つのパンと2匹の魚

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傷んだ葦

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これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。(マタイ12章17~21節)

 これはイザヤ書42章の預言の成就だとマタイは言いました。どうしてこの安息日に人々を癒した出来事がイザヤ書42章の預言の成就なのでしょうか。例えば、イザヤ書35章にはこのようなメシヤ預言があります。

その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。(イザヤ書35章5~6節)

 イエス様は大勢の人々の病を癒されたのですから、このイザヤ書35章の預言が成就したというのならば理解できます。しかしマタイは、イザヤ書42章の預言「いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない」の成就だと言いました。傷められた葦、煙っている燈心とは何でしょうか。

 私が小学生の頃、荒川沿いのグランドで野球をしました。バッターがホームランを打つと、ボールは荒川沿いに茂った葦の中に落ちます。するとみんなで野球を一時中断して葦の茂みに入り、ボール探しをしました。一旦、葦の茂みにボールが入るとなかなか見つかりません。私は何度、葦の茂みにボールを無くしたか知れません。私たちは何度、ここに葦の茂みが無かったらと思いました。

 当時、イスラエルでは、パピルスの茎で籠を作っていました。虫が食ったものや傷の付いた材料は使い物になりませんから、パピルス職人はそのようなものを見つけると折って捨てていました。折るのは、良いものと混ざらないように区別するためでした。

 私たちの社会は使いものにならない、生産性のないものは役に立たないと捨ててしまいます。傷んだ葦が籠を作る材料に適さないと捨てられるように、役に立たない人を社会は捨ててしまいます。そのような傷んだ葦をイエス様は折ることもせず、大切なものとして触れてくださいます。傷んだ葦とは私であり、あなたです。神様の目にはあなたは高価で尊い存在です。神様の愛を今日も受け止めて行きましょう。

 
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by carbondalle1996 | 2015-03-25 06:06 | 日記 | Comments(0)
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