ブログトップ

5つのパンと2匹の魚

fivebread.exblog.jp

キリストを除いたならば・・・

f0229700_6224192.jpg


「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。(ルカ24章5~7節)

 僧侶であり仏教学者でもあった鈴木大拙師がその著書「禅の第一義」という本の中で仏教とキリスト教を比較して紹介しています。「キリスト教はキリストをもって信仰の対象となすが、仏教は必ずしも仏陀を信仰の対象とはなさず。仏陀はただその真諦である悟りを発見したに過ぎず、この発明者ではない。仏陀はたまたまその非凡の才能によってこれを発見し、人々にこれを伝えたに過ぎない。ゆえに仏教においては仏陀がいなくても、仏教は成立する。しかるにキリストが信仰の対象であり、イエス・キリストを除いたならばキリスト教は成立しない。」これはキリスト者の言葉ではなく、仏教徒の鈴木大拙師の言葉であることに驚きを覚えます。

 私たちクリスチャンがキリスト教と仏教の違いについて明確に答えられない中で、仏教学者の鈴木大拙師がはっきりとその違いを述べています。仏教は仏陀がいなくても成立する。なぜならば仏陀はその教えを見出した発見者に過ぎず、仏陀が発見しなければ他の人が発見したからです。仏陀が発見したというのは悟りです。人間を苦しめているのは煩悩であり、煩悩を絶つことによって悟りを開くこと。仏陀はこの悟りを発見したんい過ぎないのだと鈴木大拙氏は言っています。

 しかしキリスト教はどうでしょうか。キリスト教はキリストの復活抜きには存在しません。キリストがもし仏陀のように素晴らしい教えだけを残して死んだのであれば、キリスト教はかつて存在したイエスという立派な宗教者の教えを大事に守っている宗教となってしまいます。しかし、そのような事は決してありません。実はキリストの復活にキリスト教の存在そのものが掛かっています。

 キリストの復活がなければ、私たちの集会はありません。もしあったとしても意味がありません。キリストが復活したからこそ、私たちは神様を信じることができ、神様が今も生きて働かれていることを知りました。そして人生が死で終わりではなく、その向こうに永遠の命があることを信じました。復活は希望です。たといあなたの今日が絶望に見えたとしても、あなたの明日は希望に満ち溢れます。なぜならば、イエス・キリストが死を打ち破り、よみがえられたからです。キリストにこそ私たちの希望があります。
[PR]
by carbondalle1996 | 2015-04-08 06:24 | 日記 | Comments(0)
<< 我が主よ、我が神よ 墓守りの宗教と復活の信仰 >>