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5つのパンと2匹の魚

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賀川豊彦

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 1865年に大浦天主堂で隠れキリシタンだった杉本ゆりと15名が信仰を告白しました。その後、3000名を超える隠れキリシタンが捕まり、526名が金沢の前田藩に流罪となりました。前田藩は彼らを山の開墾に従事させました。このとき流罪となったクリスチャンたちの監督をしていたのが、長尾八衛門という奉行でした。八衛門はキリシタンたちの働き振りを見て、深く心が打たれました。それはキリシタンたちが、貧しさと屈辱の中でも持ち続けた、神様に対する信仰心と生活態度でした。

 それから4年後の明治6年、26年続いたキリスト教禁止が廃止され、明治13年に長尾八衛門はアメリカ人宣教師トマス・ウインから洗礼を受けました。八衛門57歳でした。そしてこのとき心から父親を尊敬していた息子の長尾巻もまた28歳で洗礼を受けました。

 息子の長尾巻は伝道者となり、明治9年、北陸の大聖寺という町で伝道を始めました。しかしそこは、北陸で昔からの慣習の強い地方です。キリスト教に対する迫害の激しい町でもありました。キリスト教の伝道者と知った町の人々が、家をはさんで両方の辻に竹やりを組み、道をふさいでしまいました。それは篭城攻めのようでした。そして今度は、町内で長尾家に対して不売運動をお越し、米をはじめ日用品に至るまでお店は売ってくれませんでした。そのため長尾先生は、18キロ離れた町まで行き、食料や日用品を仕入れました。

 迫害は子供達にも及び、丁郎氏は学校で弁当に唾を吐き掛けられたり、丙留さんは帰りに土手から川へ突き落とされたりした。日曜日の夜の集会では、一人の聴衆者もいないことが度々あったが、柱に向かって一生懸命説教をしたという。そのような迫害と貧乏生活の中に一人の神学生が、長尾先生のもと転がり込んできました。その神学生こそ後の賀川豊彦先生です。

 当時、賀川豊彦神学生は肺病を患っていました。そうした病人を長尾先生夫妻は、実に親切に看病し、世話をしました。そして賀川豊彦はやがて健康を取り戻し、長尾先生から受けた信仰を引き継いで、自分もまた神戸のスラム街に出て行き、そこに移り住んで伝道を進めました。そして賀川豊彦先生から、多くの人々が信仰に導かれ、その中から大勢の伝道者も生まれました。
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by carbondalle1996 | 2015-04-11 21:45 | 日記 | Comments(0)
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