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しるしを求める時代

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 すると彼らに答えて言われた、「邪悪で不義な時代は、しるしを求める。しかし、預言者ヨナのしるしの他には、なんのしるしも与えられないであろう。(マタイ12章39節)

 「邪悪で不義な時代はしるしを求める」とイエス様は言いました。しかし「しるしを求めることが邪悪で神様に背を向けることだ」とは言っていません。イエス様はしるしを求めること自体が悪いことだと言っているのではありません。実はユダヤ人にとって「しるしを求めること」は決して悪いことではなく、民族の習慣であり歴史であり当然のことなのです。

 例えば、モーセが神様からエジプトに遣わされた時、モーセは「私は話すのが苦手です」と断りました。すると神様はモーセに、「わたしあなたを通して奇跡を行うからそれが人々に対してしるしとなる」と言いました。そして、そのしるしを見て人々が信じたということが書かれています。神様から遣わされた者にはしるしが伴う。それはユダヤ人の伝統的な考え方なのです。ですから逆に言えば、どんなに有能な人物であっても、「主はこう言われる」と語り出しても、やたらに信じたりはしないのです。ユダヤ人は本当に神様から遣わされたか、しるしを見て判断します。

 しかし同じしるしを求める場合でも、「邪悪で不義な時代はしるしを求める」という場合は意味が違ってきます。イエス様はこれまで多くのしるしを行ってきました。このマタイ12章では、片手のなえた人を癒し、悪霊によって目が見えず口のきけない人から悪霊を追い出して、目が見えるように、言葉が話せるようにしました。
長い間苦しんできた人が癒され解放されました。どれほど嬉しかったことでしょうか。
 
 いいえ、彼だけではありません。その人が癒されることを願っていた人たち、イエス様のもとに彼を連れてきた人たちもどれほど嬉しかったことか。イエス様が病人を癒されたその場は喜びに包まれていたに違いありません。その喜びの出来事の中で人々は「この人はダビデの子ではないだろうか」と言ったのです。

 ところがその喜びのただ中にあってパリサイ人や律法学者は、その人が悪霊から解放されたことを一緒に喜ぶのではなく、「あれはメシヤではない。悪霊の頭であるベルゼブルの力によって悪霊を追い出したに過ぎない」と公然とイエス様を非難しました。彼らは救いを求めて神様に近づく人々の前でまるで通せんぼをしているようなものです。彼らもイエス様のしるしをその目で見て確認しました。その上で彼らが言ったのは、「先生、わたしたちはあなたから、しるしを見せていただきとうございます」と言ったのです。

 つまりしるしの求め方が違うのです。彼らはメシヤだと信じたくてイエス様にしるしを求めたのではありません。メシヤだと信じないためにしるしを求めたのです。自分は正しい、相手が間違っている、自分の立場を守りたい。そのような思いでしるしを求めたのです。そのような者だから実際にメシヤとしてのしるしを見ても、「ベルゼブルがやった」と言って認めませでした。

 あなたは救い主を求めていますか?求めるならば必ず見出します。神様に祈り求めましょう。
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by carbondalle1996 | 2015-04-20 23:03 | 日記 | Comments(0)
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