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5つのパンと2匹の魚

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神様の足音

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彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。(創世記3章8節)

 聖書の中でこの「歩む」という言葉「ハーラフ」が最初に登場するのが創世記3章8節です。神様はいつものように園の中を歩んでいました。罪を犯す前のアダムとエバならば、「神様が来たー」と言って喜んで神様のもとに駆け寄ったと思います。

 ところがこのときのアダムとエバは昨日までのアダムとエバではありません。神様が食べてはいけないと命じた「善悪の知る木の実」を食べてしまいました。自分が犯した罪のため、神様の前に出て行けません。昨日までは神様の歩く音は喜びの音であったのが、今日は自分たちが犯した罪のために恐ろしい音に聴こえました。

 A牧師が高校生だったときのお話です。放課後に男子トイレでタバコを吸っていたときトイレが開く音がして、先生が近づいてきた足音を聞いたそうです。彼は急いでタバコをトイレに捨てて煙をかき消したそうです。それでも煙が消えるはずありません。トイレのドアが開いて「先生に見つかった」と思ったそのとき、ドアの向こうにいたのは友人のB君だったそうです。

 A牧師がこう言っています。普段、先生の足音というのは恐ろしいものではありません。でも、自分が悪いことをしていると知っているときに、その足音は恐ろしい足音に変わるのです。罪を犯す前のアダムとエバにとって、神様の足音は麗しい足音だったでしょう。足音を聞いて神様の胸に飛び込んでいったでしょう。しかし、罪を犯したために同じ足音が恐怖と裁きの足音に変わってしまったのです。

 神様はどうして園の中を歩まれたのでしょうか。父親が子供を迎えに来たように、子供たちと一緒に園の中を歩くためだったと思います。神様はアダムとエバと一緒に歩きたいと望まれました。神様が今も私たちに望まれていることは共に歩むことだと思います。ミカ書にこうあります。

“主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。”(ミカ書 6章8節)

 神様と共に歩むとはどのような信仰生活でしょうか。私は、「神様と共に歩む」とは、神様を主人として生きることだと思います。全てを神様にゆだね、「私」ではなく、「神様」が主語となって歩む人生こそ神様と共に歩む生活だと思います。今日も神様が私たちにすばらしい一日を与えてくださいます。
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by carbondalle1996 | 2015-05-09 07:59 | 日記 | Comments(0)
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