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5つのパンと2匹の魚

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水を汲む女性

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 聖書を読むと女性が水を汲みに井戸に来る場面によく出会います。我が家では、水を汲むのは私の担当です。毎週、日曜日と木曜日に近所のスーパーへ行き、純水を汲んで帰ります。我が家も二千年前に生まれていれば、水を汲む仕事は妻の担当になっていたのかな?と考えたりもします。どうしてイスラエルでは「か弱い」女性が水を汲みに行き、「力強い」男性が水を汲みに行かなかったのでしょうか。 本当に強いのは女性だということを神様が知っていたからでしょうか?

 その理由は男女の身体の違いにあるそうです。女性はヒップを中心にバランスを取るため、重い水を頭の上に乗せても上手にバランスをとって歩くことができ、両手もフリーとなります。しかし男性はヒップが小さいためバランスを取れず、頭の上に水を置いても、手で押さえないと歩けません。何キロもの道のりを、重たい水を両手で支えながら歩くことは並大抵のことではありません。そのため、昔からイスラエルでは水汲みは「か弱い」女性の仕事だったようです。

 イスラエルを旅行すると、エルサレムの北と南では水事情も大きく違うことに気づきます。イスラエル北部のガリラヤ地方やエリコなどは比較的水が豊かで作物がたくさん実っているのを見ます。ところがエルサレムから南に下るとネゲブ砂漠が広がり、植物を目にする機会もずっと減ります。そのようなネゲブ砂漠の中を車で走っていると、突然エンゲディという看板が目に飛び込んできます。この場所は、ダビデが詩篇42篇の中で「神よ、鹿が谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」と歌った場所です。

 なぜ「慕いあえぐ」という言葉が使われているのか。それほどに水がなく、緑のない土地だからです。水がない所で、渇ききった喉を潤すために、あえぐ思いで水を探すことは、水の豊富な日本では想像できないことです。ダビデは水を慕いあえぐように神御自身を慕いあえぎました。それはダビデ自身がサウル王に追われ、命の危険に迫られた状況下で、神御自身を慕いあえぐものだったのです。

 人生には多くの困難や問題があります。しかし「荒野で主の恵みを得た」とあるように、私たちは荒野を通ったからこそ主に出会うという経験をします。なぜなら私たちは、荒野を通らなければ主に依り頼むことをしないからです。そのように考えると、今の苦難や問題も主に出会うための試練として、私たちは感謝して受け止めることもできるのではないでしょうか。マイナスは必ずプラスになります。ハレルヤ!
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by carbondalle1996 | 2015-07-26 07:23 | 日記 | Comments(0)
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