ブログトップ

5つのパンと2匹の魚

fivebread.exblog.jp

戦後70周年記念礼拝

f0229700_15231219.jpg


 横浜カルバリーチャペルのコラム「ぶどうの木」より抜粋。

 私たちの教会に三浦俊和さんという方がおられます。彼はあるとき教会の集会で、ぞっとするような体験を次のようにお証ししてくださいました。

 「1945年(昭和20年)八月六日は、私にとりまして永久に忘れることのできない日です。私の住まいは広島県呉市でした。呉市は軍港都市だったため、激しい空爆を受けて町は焼け野原でした。当時私は旧制中学の一年生でしたが、それはひどい食糧難の毎日でした。ところが幸いにも、私の両親の実家が農家でしたので、母と姉と私の三人は連れだって島根県の石見地方にある父の実家にお米をもらいに行きました。お米は何にもまして大切な宝物でした。

 八月五日、島根の父の実家からの帰り道、広島市の叔父の家に寄って、お米をおすそわけし、その夜、叔父の家に一泊しました。当時、広島市はまだ空襲も受けず、街も整然としていて、映画館も開いていました。

 八月六日の朝、私は高峰三枝子主演の「熱風」という映画を観て帰りたいと思い、叔父夫婦ももう一泊していくようにと勧めてくれました。ところがどういうわけか、姉が強引に私と母をせき立てて、広島駅午前六時十分発の呉線列車に乗り込み、呉市に帰りました。

 重いリュックサックを背負って、呉駅から焼け野原となった街の中を歩いて帰る途中のことです。ピカッと物凄い閃光がきらめきました。私たちは焼け跡の外壁だけが残っている電話局の構内に逃げ込みました。そこから西の空を見上げると、カボチャの形をした大きな雲が七色の虹のように輝いていました。その時、ドドドーンという強烈な爆音が響き渡りました。いわゆる「ピカドン」です。

 私たち三名を広島駅まで送ってくれた叔父の長男は、その足で三菱の軍需工場に動員されていたため工場に直行し、お陰で命拾いしました。叔父の家は爆心地から七百メートルの距離にあったため、長男を除いて家族全員が犠牲となり、遺骨も判別できない状況でした。

 もしあの日、半日広島を離れる時間を遅らせていたら、私はこの世におりません。みなさん、どんなことがあっても、戦争はぜったいに起こしてはなりません。一人の戦争体験者として、そう確信しています。」

 広島の八月六日、長崎の八月九日は、決して忘れてはならない、人類最悪の罪の日です。人間の愚かさが極まった日です。深く深く黙祷。

思いを一つにしなさい。平和に過ごしなさい。
そうすれば愛と平和の神があなたがたと共にいて下さるであろう。
          (Ⅱコリント13:11)


~横浜教会・武井博先生のコラム「ぶどうの木」より~

f0229700_1518498.jpg

[PR]
by carbondalle1996 | 2015-08-16 15:23 | 日記 | Comments(0)
<< 本質以外は寛容であれ 復活は事実か >>