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5つのパンと2匹の魚

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美禰子の言葉の1つ1つが

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あなたがたはどう思うか。ある人に百匹の羊があり、その中の一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、その迷い出ている羊を捜しに出かけないであろうか。(マタイ18:12)

 小説「三四郎」をどう理解したら良いでしょうか。その評価や解釈は、著名な文学者がたくさん書かれています。ですから私はクリスチャンとして、私なりにこの小説をどう理解したかを書きたいと思います。間違っていたとしても、それは私なりの解釈として許してほしいと思います。

 まず作者の夏目漱石氏はクリスチャン以上に聖書を読み、求道した人物です。そして漱石自身の中にある罪に悩み、葛藤した方です。その結果、イエスを救い主として信じたのではなく、イエス・キリストの前でくるりと背を向けて絶望の淵へ降りてしまいました。

 だとしたら、今まで不可解だった小説「三四郎」の中での美禰子の言葉の1つ1つが、理解し始めました。実は、それは美禰子を通して語った夏目漱石自身の言葉だったのではないでしょうか。美禰子は、教会に通っていましたが、救い主イエス様を信じたクリスチャンとしては描かれていません。彼女の言葉や行動にキリスト者としての輝きはありません。

 そこに見えるのは、自分の罪を認め、悩み葛藤する姿です。彼女が悩んでいた問題は何か。彼女が教会から出て来た時に、詩篇51篇の聖句「われは我が咎を知る。わが罪は常に我が前にあり」と発しました。つまり彼女が思い悩んでいた問題は、人間の原罪だったのではないでしょうか。それはまさに夏目漱石自身が、悩んでいた問題だったのです。
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by carbondalle1996 | 2016-03-12 16:27 | 日記 | Comments(0)
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