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5つのパンと2匹の魚

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カテゴリ:日記( 1361 )

沈黙

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 遠藤周作の「沈黙」という小説があります。この小説の中で主人公の宣教師が拷問に遭い、殉教を決意します。そのとき遠くから聞こえるいびきの声を止めてくれと叫びます。しかしそれはいびきではなく、拷問されている信者の苦しみの声であり、彼らはキリスト教を捨てることを誓ったが、主人公の宣教師がキリスト教を捨てるまでは拷問が続くと教えられ、主人公は愕然とします。主人公の宣教師は、殉教の死を選ぶか、キリスト教を捨てて信者たちの命を助けるのかと苦悩します。

 そしてついに主人公のロドリゴはキリストを捨てて、踏み絵を踏む決意をします。ロドリゴが踏み絵を踏んだとき、激しい痛みを感じました。そのとき踏絵のなかのイエスが「踏むがよい。お前のその足の痛みを、私がいちばんよく知っている。その痛みを分かつために私はこの世に生まれ、十字架を背負ったのだから。私は沈黙していたのではない。おまえたちと共に苦しんでいたのだ」と語りかける。
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by carbondalle1996 | 2016-07-07 03:57 | 日記 | Comments(0)

沈黙の神

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イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。(マタイ20:34)

 バルテマイはきっと自分の人生をなげいたでしょう。どうして俺は生まれながら目が見えないんだ。なぜ神はこんな人生を俺に与えたんだ。恐らく考えても、考えても解決できない疑問が次から次へと魂の奥底から湧いてきたことでしょう。そして、叫んでも、叫んでも沈黙される神に彼はどうすればよいのかわからなかったことでしょう。聖書には神の沈黙を経験しない人はいません。アブラハムはイサクが与えられるまで30年待ちました。ヨセフは奴隷として売られました。ハンナもヨブも神の沈黙の前に葛藤をおぼえました。

 では、なぜ神は沈黙されるのでしょうか?それは人に探求させるためではないかと思います。初めから答えが分かっていては、答えの真髄にまで到達することはできません。「神の沈黙」の中で、もだえ苦しみながら、時間を掛けて探し求めることによって、神様が沈黙した意味を理解できるようになるのだと私は思います。神は最初から答えを与えずに、人が自分で答えを探すように放置されることがあります。そして、人が体験を通して、神の啓示を理解できる段階に来たそのタイミングに、神は答えを下さるのです。
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by carbondalle1996 | 2016-07-06 03:37 | 日記 | Comments(0)

あなたの信仰があなたを救った

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 マルコ福音書には、このときのイエス様の言葉が載っています。「行け、あなたの信仰があなたを救った。」あなたの信仰が目を癒したとは言いませんでした。あなたの信仰。イエスを救い主と告白した信仰。その信仰があなたを滅びから命へと救ったのだとイエス様はおっしゃったのです。そしてバルテマイに対して「行け」と命じました。何処へ行けというのでしょうか。目が見えるようになったバルテマイはイエスに従って行ったとあります。霊の目が開かれたならば、誰でもこのお方について行きます。
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by carbondalle1996 | 2016-07-05 20:36 | 日記 | Comments(0)

二人の弟子と二人の盲人

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イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。(マタイ20:34)

 ヤコブとヨハネがイエス様に右と左の座を求めたとき、イエス様は二人に対して「あなたがたは自分が何を求めているのかわかっていない」と言いました。目が見えていてもヤコブとヨハネの二人の霊の目は盲目だったのです。ところがどうでしょう。この盲人の二人は目が見えませんでしたが、霊の目は開かれていました。だから力一杯叫んだのです。「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんでください」と言ったのです。

 マタイがヤコブとヨハネの出来事の後にこの二人の盲人の出来事を入れたのは、意図があったからだと思います。マルコ福音書にもルカ福音書にも盲人はバルテマイ一人しか書かれておりません。マタイだけが二人の盲人だと記しました。目が見える者が見えず、目の見えない者が見える世界。マタイはこの2つの記事を通して、私たちに霊の目が開かれることの大切さをおしえているのだと思います。
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by carbondalle1996 | 2016-07-04 20:32 | 日記 | Comments(0)

スプランクニゾマイ

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イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた。すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った。(マタイ20:34)

 隣人となったイエス様はどうしたでしょうか。イエス様は深くあわれんだとあります。これは聖書に何度も出てくる言葉で、スプランクニゾマイというギリシア語。「はらわたがゆすぶられる」というのが直訳ですが、そのように痛みをもって相手をあわれんだイエス様。その人の隣人になるということは、その人の痛みを自分のものとすること。イエス様は彼らの痛みを自分の痛みとしました。そしてイエス様が彼らにさわられると、二人の盲人の目は見えるようになりました。
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by carbondalle1996 | 2016-07-03 20:30 | 日記 | Comments(0)

隣人になること

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彼らは言った、「主よ、目をあけていただくことです」。(マタイ20:33)

 私たちは上手に伝道をできないかもしれません。上手に証しをすることはできないかもしれません。でも一人でいる人のところに行って隣に座ることはできると思います。

 私が神学生時代に1つ先輩に女性の神学生がいました。私はこの女性が苦手でした。そのようなときに一人の神学生が彼女の隣に座って話かけたのです。彼女は少しずつその神学生に心を開くようになりました。私はこの苦手だった女性と最後まで仲良くなれませんでした。

 今思えば、自分は隣人になろうとしなかったのだと反省しています。先日、彼女は今どうしているだろうかと思いました。すると驚いたことに北陸の田舎町で女性牧師として、ご主人と子供三人と一緒に開拓伝道をしていました。びっくりしたと同時に主の御名を褒め称えました。
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by carbondalle1996 | 2016-07-02 20:25 | 日記 | Comments(0)

わたしに何をしてほしいのか

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イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた、「わたしに何をしてほしいのか」。(マタイ20:32)


 誰もが邪魔だと思ってだまらせようとした盲人の叫びがイエス様に届きました。私はこの箇所を読みながら隣り人になることを考えました。人々は二人の盲人の叫びを「邪魔だ、うるさい」と言って黙らせようとしました。誰もこの二人の盲人に近づいて彼らの隣人になろうとはしませんでした。

 ルカ福音書10章に良きサマリヤ人のお話が書かれてあります。エルサレムからエリコに行く途中である人が強盗に遭いました。ひとりの祭司はそれを見て向こう側を通って行きました。ひとりのレビ人も彼を見て向こう側を通って行きました。しかし、ユダヤ人から嫌われていたサマリヤ人は彼を見て気の毒に思い、近寄ってその人の側に行き介抱したとあります。

 このとき叫び続ける盲人に近寄って、盲人の側に立つ者は誰もいませんでした。いいえ、一人だけいました。イエス様です。イエス様はこの盲人に近づいて「わたしに何をしてほしいのか」と声をかけました。
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by carbondalle1996 | 2016-07-01 20:23 | 日記 | Comments(0)

邪魔者扱い

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 群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。(マタイ20:31)

 叫び続ける二人に向かって群衆は叱って彼らを黙らせようとしました。なぜでしょうか?群衆にとって二人の盲人の叫びは邪魔だったからです。そこには盲人の側に立って寄り添うという姿勢はありません。しかし盲人の二人も叱られたからと言って叫ぶのをやめませんでした。さらに大きな声で「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」と叫び続けました。
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by carbondalle1996 | 2016-06-30 20:21 | 日記 | Comments(0)

邪魔者扱い

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 群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。(マタイ20:31)

 叫び続ける二人に向かって群衆は叱って彼らを黙らせようとしました。なぜでしょうか?群衆にとって二人の盲人の叫びは邪魔だったからです。そこには盲人の側に立って寄り添うという姿勢はありません。しかし盲人の二人も叱られたからと言って叫ぶのをやめませんでした。さらに大きな声で「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」と叫び続けました。
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by carbondalle1996 | 2016-06-30 20:21 | 日記 | Comments(0)

邪魔者扱い

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 群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」。(マタイ20:31)

 叫び続ける二人に向かって群衆は叱って彼らを黙らせようとしました。なぜでしょうか?群衆にとって二人の盲人の叫びは邪魔だったからです。そこには盲人の側に立って寄り添うという姿勢はありません。しかし盲人の二人も叱られたからと言って叫ぶのをやめませんでした。さらに大きな声で「ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい」と叫び続けました。
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by carbondalle1996 | 2016-06-30 20:21 | 日記 | Comments(0)