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5つのパンと2匹の魚

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罪の中で死んでいた者が

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さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。       (エペソ2:1~3)

 罪によって死んでいたとはどういう意味でしょうか。ルカ15章に放蕩息子のお話があります。「ある人に息子がいました。息子は父親に言いました。『父よ、あなたの財産のうちでわたしが頂く分をください。』そこで父は財産を息子に分けてあげました。息子は自分のものを全部取りまとめて遠い国へ行き、財産を使い尽くし、放蕩の限りを尽くしました。その結果、自分が食べるにも窮してしまい、豚の世話をする仕事に就きました。息子は豚の食べるいなご豆でお腹を満たしたいと思うほどでしたが、何も食べ物がありませんでした。
 そのとき息子は本心に立ち返って、父のもとへ帰ろうと心しました。そして父にこう言おう。『父よ、私は天に対してもあなたに向かっても罪を犯しました。もうあなたの息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父は息子に走り寄り、その首を抱いてこう言いました。『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。
 
 この放蕩息子のお話の中でイエス様は、息子が神様に背を向けて歩んでいた人生を「死んでいた」と表現しました。そして息子が本心に立ち返って父の下に帰ってきたことを「生き返った」と言いました。つまりここで言う「死ぬ」「生きる」とは、肉体の生死ではなく、目に見えない霊の生死なのです。これがパウロの言う「罪に死んでいた者であった」という意味です。

 罪とは何でしょうか。それはこの放蕩息子のように、創造主なる神様を神として信じないで、神以外のものを神として歩む生活。これは霊的な罪を犯しています。聖書は十戒の中で厳しく、「神以外のものを神としてはならない」と戒めています。パウロはこのエペソ人への手紙を通して、私たちすべての者がかつては罪人であったと言っています。当然、今も罪人でありますが、今はキリストにあって罪赦された者、キリストにあって義とされた者です。これはなんとすばらしい恵みでしょうか。キリストを信じ、罪赦された者として、私たちは今日も神様に感謝して歩みましょう。
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by carbondalle1996 | 2013-07-31 05:49 | 日記 | Comments(0)

Blind but now I see.

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あるユダヤ人の子供がある町の小学校へ転校しました。ある日その学校の先生が生徒たちを外に出して質問しました。「みんな、あのリンゴが見えるかい?」子供たちは元気よく答えた。「はーい、先生」
「なら、それは確実に存在するということだ。では、そのリンゴの木は見えるかい?」
「はーい、先生、見えます」「なら、それも確実に存在するということだね。ではもう1つ質問だ。みんなは神様が見えるかい?」生徒たちは答えた。「いいえ、見えません。」先生は言いました。「なら、それは存在しないということだ。」
するとそれまで黙っていたユダヤ人の子供が突然生徒達に質問しました。
「みんなは先生の知性が見えるかい?」すると生徒達は答えた。「見えないよ。」
「なら、それは存在しないということだね。」

 これはユダヤの金言ですが、どこか似たような話を私たちも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。「神様がいるなら見せてみろ」と誰もが言われた経験があるのではないでしょうか。見えるものが存在し、見えないものは存在しないと考えるのは間違いです。目に見えないものが私たちの生活にどう影響しているのでしょうか。目に見えない世界を正しく理解することは大切なことです。聖書は私たちの心の目を開かせ、見えない世界が見えるように変えてくださいます。

Amazing grace how sweet the sound
That saved a wretch like me.
I once was lost but now am found,
Was blind but now I see.

アメージング・グレース
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる
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by carbondalle1996 | 2013-07-30 06:20 | 日記 | Comments(0)

最高の人生

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 7月25日の秋田魁新報コラムに興味深い記事がありましたのでご紹介します。「秋田市内で知人の葬儀が厳かに行われた。享年39。病魔と1年間闘った末の最期だった。葬儀の終盤、亡くなる前日に録画したというビデオが流された。病床で声を振り絞りながら参列者に感謝の気持ちを伝えた後、『最高の人生でした』と笑顔で話す彼の姿。愛妻と一人娘を残しての旅立ちである。胸が詰まった。死に直面した時に、果たして自分は『最高の人生だった』と言えるだろうか。」

 友人の死に直面して、人生について自問自答する記者の苦悩が伝わってきます。実はこのコラムには結論がありません。記者は「何度も自分に問う」というかたちで筆を止めています。死に対する答えが無い以上、自分に問うという形でしかコラムを終えられなかったのでしょう。それはそのまま読者への問いかけとなります。「あなたは今死ぬとしたら、『最高の人生だった』といえますか。」

 2001年3月26日に若くして一人のクリスチャンが天に召されました。小学生の二人の息子を残しての旅立ちでした。兄は葬儀の間ずっと泣きじゃくり、弟は泣いている兄を懸命になぐさめていました。あのとき泣いていた少年は、今は神学生となりました。彼は母親が自分に伝えたかった神様の愛を、今度は自分が人々に伝えたいと願い献身しました。彼は天国で再び愛する母と再会できると信じています。

 人は何処から来て、何処へ行くのか。私たちにとって最も大切なこの問いに対して、聖書は明確に答えています。人は神から生まれ、神に帰る。私たちは神様によって造られ、この世の使命を終えると神様のもとへ帰ります。イエス・キリストは十字架に架かり、死んで三日目に復活され、弟子たちの見ている前で天国へ挙げられました。それは人生が死で終わらず、死の向こうに天国があることを証明しました。ですからキリストを信じる私たちは、いつその日が訪れても「最高の人生だった」と言えるのです。神様がくださった最高の人生に感謝して今日を歩みましょう。

“イエスは彼に言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。」” (ヨハネ14章6節)
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by carbondalle1996 | 2013-07-29 04:59 | キリスト教集会 | Comments(0)

Lunch Time

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          今日の祈りの家のランチは冷やし中華


          蒸し暑い夏はこれが一番


          冷やし中華も祈りの家特製で


          たくさんの具がのって


          おかわりも自由


          食後のデザートは


          能代のK兄から美味しいおだんごと


          Tさん手作りの甘くて美味しいお菓子


          そして酒田のU姉から庄内メロンの差し入れでした。


          いつもながら食事とデザートが豪華で感謝


          そして、そしてこの日は


          初めて教会に来てくださったKさんのお誕生日


          みんなでHappy Birthdayを歌い


          Birthday Cake を食べました


          今日も霊肉共にお腹いっぱいになりました。


          感謝
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by carbondalle1996 | 2013-07-28 17:41 | 日記 | Comments(0)

聖霊の証印

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あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。(エペソ1:13~14)

 パウロは、クリスチャンはみんな、イエス・キリストを信じた結果、聖霊の証印を押された存在だと言いました。証印というのは、昔、羊飼いが羊に焼印を押しましたが、それはこの羊は誰々の所有であるという意味です。私たちも目には見えませんが、イエス・キリストを主と信じた結果、私たちの主人はイエス・キリストです。ですから私たちの心には、イエス・キリストが所有者だという焼印が押されているのです。
 そしてこの聖霊の証印は神の国をつぐときの保証だとパウロは言っています。保証というギリシア語(アラボーン)は「手付金」という意味です。当時のローマ帝国内では、商売上この手付金が物品の売買でなされました。逆に手付金が無いといくらほしくても、その商品を購入することはできませんでした。

 私たちの生活の中で手付金を払うということはなかなか無いと思います。なぜならば手付金というのは、唯一の物に対して払われるからです。街の電器屋さんに行って、あなたがほしいテレビを見つけたとします。「おじさん、これ気に入ったから今は1000円払うからこのテレビを誰にも売らないでね」とはなりません。なぜならばそのテレビと全く同じ物がたくさん倉庫にあるからです。
 しかし、あなたが中古車売り場に行ったとします。あなたがほしかった車が破格の値段で売っていました。店の人に聞くと、車の後ろに小さな傷があり、そのために破格の値段になったと説明されました。小さな傷を気にしないあなたはきっとこう言うでしょう。「おじさん、この1000円を手付金として払うから、他の人には売らないでください。残りは後から払います。」 

 このようにたったこれしかない、1つの物に対して手付金は存在します。これと同じように、私たちに聖霊という手付金が払われたならば、私たちはそれを払った方にとって唯一の存在なのです。そう支払ってくださったのは神様です。神様は私たちを、どうしてもほしいと思い、聖霊の証印という手付金をすでに払ってくださっているのです。これは来るべき神の国を受け継ぐ保証だとパウロは断言しているのです。神様のよって贖われた私たちはなんと幸せな者ではないでしょうか。私たちは神の国を受け継ぐ者とされたのです。
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by carbondalle1996 | 2013-07-27 05:59 | 日記 | Comments(0)

あらゆる知恵と悟り

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”わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。”(エペソ1:7~9)

 久遠キリスト教会の丹羽先生は、聖霊に満たされれば満たされるほどへりくだる者とされるとおっしゃっておられました。私たちは聖霊に満たされて、なんだか力を与えられて、クリスチャンとしてパワーアップするようなイメージがありますが、そうではなく、どこまでもへりくだる方向に働かれるのだそうです。私たちが何かできないとすれば、それはプライドが邪魔しているからではないでしょうか。私たちが他者を許せないとしたら、まだ自分に死んでいないからではないでしょうか。聖霊の知恵と悟りとは、自分が何の誇るものも無いという場に立つ心。自分がもっとへりくだる者になりたい、もっとへりくだる心を持ちたいと願うならば、聖霊様を求めることです。聖霊様に満たされるとき、私たちは自分に死に、へりくだる者とされるのです。聖霊に満たされる生活を送りましょう。
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by carbondalle1996 | 2013-07-26 06:13 | 日記 | Comments(0)

あなたも選ばれた存在です

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ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。                (エペソ1:3~5)


 クリスチャンの中には、たまに自分がいろいろな宗教の中からこのキリスト教が一番良いと思って、自分が選んだと考える人がいます。またある人は自分がクリスチャンになったのは、素直な性格だからだと自慢する人もいますが、それも間違いです。神様は、「天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選んで」くださったtあります。私たちはもう既に天地が造られる前から、神様によって選ばれた存在だということです。信じられますか。生まれる何千年も前から神様は、キリストにあって、選んでくださったのです。ヨハネ15章16節にあります。あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを立てた。それはあなたがたが行って実を結び、その実がいつまでも残るためであるとあります。

 自分が神様によって選ばれた存在であるならば、私たちが祈っている「あの人」も、「この人」も必ず神様によって選ばれているに違いありません。6月に伊藤ハナさんが救われました。みんな神様によって選ばれた存在なのです。だから私たちはあきらめずに祈り続けます。私たちが救われたのですから、私たちが祈っている「あの人」も必ず救われます。私達クリスチャンは美しい花を咲かせるのが目的ではありません。豊かなキリストの実を結ぶことが目的です。祈りの実を結びましょう。
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by carbondalle1996 | 2013-07-25 06:56 | 日記 | Comments(0)

収穫

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          庭に植えたプチトマト


          収穫の時を迎えました


          トマトってこういうふうにできるんだ


          今年はトマトの栽培初体験しました


          熟したトマトをどうやって採るのかな?


          そのような疑問もありましたが


          熟したトマトに手を置くと


          トマトの方から手の中に落ちてきました


          熟するってこういうことなんだと知りました



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          熟していないトマトは、トマトをひねって採る



          するとヘタも一緒に採れました



          人の魂もこのように



          熟していると自然と神様の手に落ちるのかな



          人の目には見えませんが



          神様の目には真っ赤に熟したその輝きが



          きっと見えるのでしょう。
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by carbondalle1996 | 2013-07-24 05:44 | 日記 | Comments(0)

囚人からの励まし

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神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。(エペソ1:1~2)

 パウロがこの手紙を書いた相手はエペソの教会の信徒たちだと言われていますが、当時の手紙は回覧されましたから、パウロはローマの獄中からアジアの諸教会の信徒たちへこの手紙を書いたとも考えられます。事実、1節にある「エペソの」という言葉は、古い写本ほど書かれていないそうです。回覧ですからそこに自分の教会の名前を書いたのではないかとも言われています。ですから私たちがこのエペソ人への手紙を読むときに、大胆にこれを「秋田にいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ」と読むことができるのです。

 これは未信者へ向けて書かれた手紙ではありません。パウロが書いたように教会の忠実な信徒へ書かれた手紙です。つまりクリスチャンへ向けて書かれました。それでは書かれた目的は何でしょうか?手紙ですからそこに書き手の目的があります。パウロの手紙というのは、ローマ書やコリント書、ガラテヤ書など、すべてその宛先である教会に問題が起こりました。その問題解決のためにパウロは手紙を書きました。しかし、このエペソ人への手紙は、エペソの教会に問題があったから書かれたのではなく、当時のクリスチャンに向けて書かれた聖会メッセージなのです。

 パウロは獄中からクリスチャンに何を求めたのか。それは励ましであり、信仰の成長であり、信仰のリバイバルです。普通ならば、獄中にいる囚人にこちらが会いに行って励ますのですが、獄中の囚人から教会は励ましを頂いております。パウロが建てた教会がこの世の勢力によってくじけそうになっているクリスチャンを憂い、パウロは獄中から彼らを励ますためにこの手紙を書きました。だから私もこの手紙を読むと不思議と励まされるのです。なぜでしょうか。パウロが励ますという目的でこの手紙を書いたからです。
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by carbondalle1996 | 2013-07-23 06:52 | 日記 | Comments(0)

パウロ

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神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロから、エペソにいる、キリスト・イエスにあって忠実な聖徒たちへ。(エペソ書1章1節)

 この手紙の著者はパウロです。パウロとはギリシア名です。ヘブル名はサウロ。サウロはベニヤミン族の出身です。サウロと聴くと、イスラエル初代の王様と同じ名前です。同じベニヤミン族ですから、初代王のサウロはベニヤミン族にとっては、誇り高い王様なのでしょう。サウロという名前は、「求められた者、捧げられた者」という意味です。サウロは小アジアのタルソで生まれ、13までタルソで育ちました。

 タルソとは当時どのような街であったかというと、ローマ帝国において3大学問都市の1つでありました。1つはギリシアのアテネ。1つはエジプトのアレキサンドリア。そしてもう1つがこのアジアのタルソです。ユダヤ人は13歳で成人となりますから、サウロは成人式(バルミツバ)を迎えるまで、ローマ帝国で最も学問が盛んな都市タルソで聖書の知識をしっかりと学びました。パウロは厳格なパリサイ派でありましたから、その後エルサレムに上り、エルサレムで最も有名なラビであるガマリエルに師事しました。こうしてパウロは成人するまではタルソという最高の環境で学問を修め、成人後はガマリエルという最高のラビの下で聖書を体系的に学びました。

 これはモーセ五書を記したモーセと重なります。モーセもまたエジプトの王子として、当時の世界で最高の教育を受け、その後荒野において訓練を受けました。すべてが神様のご計画。パウロの人生も同じように、旧約聖書と新約聖書を1つにし、キリスト教を世界的宗教にするため、神様があらかじめ選ばれた器だと言えます。ここに主のご計画のすばらしさをみることができます。

 
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by carbondalle1996 | 2013-07-22 05:22 | 日記 | Comments(0)