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5つのパンと2匹の魚

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祈りの生活

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 最後にパウロは祈り続けなさいと勧めています。11節から17節までにおいてパウロは悪の霊との戦いのために神の武具を身につけなさいと書きました。これは霊の戦いの比喩であり、これを実際の生活の中で実行するならば、それは「祈り」の生活だということです。ですから10節の御言葉を読みますと。

最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。(エペソ6:10) 

 強くなるためにどうすれば良いのかとういう答えとして18節となります。

絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。(エペソ6:18)


 それは絶えず祈り続けるという生活。祈りの生活の中で私たちは、真理の帯、正義の胸当、福音の備えを履き、信仰の盾を取り、救いのかぶとを身につけることができるのです。祈りの生活の中で私たちは日々、真理の帯を締め、正義の胸当てをつけ、平和の福音の備えを足に履き、信仰の大盾をもち、救いの兜をかぶり、みことばの剣をもつのです。こうして私たちは祈りの生活を通して悪霊との霊の戦いの備えをします。祈り以外に備えはありません。日々祈り、神の武具を身につけ戦いの備えをしましょう。栄光在主。
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by carbondalle1996 | 2013-08-31 08:21 | 日記 | Comments(0)

みことばの剣

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マタイ福音書4章には、イエス様が荒野でサタンから誘惑を受けたことが記されています。サタンの最初の攻撃は、「あなたが神の子であるなら石がパンになるように命じてごらんなさい」というものでした。これに対してイエス様は申命記8章3節のみことばで応答しています。「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである。」

 2つ目にサタンはイエス様を聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせてこう言いました。「もしあなたが神の子なら、下へ飛び降りてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから。」こうしてサタンは、今度は聖書の御言葉を使ってイエス様を誘惑しました。するとイエス様は「主なるあなたの神を試みてはならない」と書いてあると申命記6章16節の御言葉をもってサタンに応戦しました。

 最後にサタンは、イエス様を非情に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて言いました。「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むならこれらのものをみなあなたにあげましょう。」するとイエス様は、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、神にのみ仕えよ』と書いてある」と申命記6章13節の御言葉をもってサタンを退けました。サタンは霊ですから、サタンから誘惑を受けたときにはこのように御言葉の剣で相手を打つことが効果的です。そのためには聖書にどんな御言葉があるか知らなければなりません。ですからいつも聖書を読み、御言葉を暗唱することは大切です。みことばの剣を備えましょう。
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by carbondalle1996 | 2013-08-29 14:02 | 日記 | Comments(0)

神の武具

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それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。(エペソ6:13)

 敵と戦うために武具を身につけることは当然です。私は大学時代に剣道部に所属しておりました。必ず防具を身につけます。面・籠手・胴・垂です。こうした防具がなく竹刀で叩かれたら大怪我をします。私の剣道場の隣が空手道場となっていました。空手は防具がありません。ですからよく救急車が来ては部員が搬送されていた記憶があります。
 ある日私は空手部員にどうして怪我ばかりするのか聞きました。そのときの答えは、ルール上は寸止めなのですが、相手が打ってくることによって寸止めのはずが相手の急所に入ってしまうからだとのことでした。その結果、いつも怪我をして救急車に運ばれるということになるそうです。防具の必要性を思わされた出来事です。

 聖書は戦いに当たって武具を身につけなさいと命じています。武具とは真理の帯、正義の胸当、福音の備えを履き、信仰の盾を取り、救いのかぶとをかぶりなさいと書いています。これはすべて防御です。サタンが攻撃してきたら、こうした武具によって身を守りなさいということです。そうした中で唯一攻撃の武器として書かれているのが、御霊の剣である神の言です。これはみことばの剣です。サタンを攻撃する唯一の武器は聖書のみことばです。そのため聖書をよく読み、みことばを食べましょう。剣がサビつかないように、みことばの暗唱が大切です。今日も聖書を読み、みことばの剣を腰に指し、サタンの誘惑を退けましょう。
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by carbondalle1996 | 2013-08-28 06:11 | 旅行 | Comments(0)

想像力の欠如

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悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。(エペソ6:11)

 普通戦いというのは目に見える敵がいてその敵と戦うのですが、信仰の戦いというのはそのような目に見える相手が敵ではなく、この世を支配しようとする悪霊との戦いであるとパウロは言っています。神学者の渡辺善太先生は、「結局のところ信仰生活は悪しき霊との戦いを意識するかしないかによって決まる」と言っておられます。というのは、悪の霊を意識しないクリスチャンが多いということです。聖書ははっきりと「私たちの戦いは悪の霊に対する戦いです」とありますから、私たちはこのことをしっかりと意識しなければなりません。

 悪霊の一番の働きは、私たちに「神様はいない」と信じ込ませることです。特に日本人は悪霊によって神様について考えることを麻痺させられているように思います。大川先生がメッセージの中でこのようにお話されました。

 日本人はちょっとおかしなところがあり、クリスマスはメリークリスマスとお祝いし、大晦日はお寺に行って除夜の鐘を聞き、元旦は神社に行って初詣をする。お盆には地獄の釜の蓋が開いて、お先祖様が帰ってくると信じ、そればかりかご先祖様が自分の家を間違えないように迎え火をたいたりする。そしてご先祖さまが地獄に帰るにあたって送り火を灯す。どうして自分の先祖が、地獄の釜の蓋が開いて帰ってくることにクレームをつけないのでしょうか。こうした行事が文化や習慣となって日本人の生活の中にはいっています。大川先生はこれを、「想像力の欠如」だと言っています。サタンは私たちに神様について想像させないように働きます。神様について想像して、神様を探されたら困る。神様に出会ったら困る。だから考えさせないのが一番良い。それは悪霊が一番喜んでいる状況だと思います。私たちの信仰生活は悪霊との戦いであるという面をもっていることを覚え、今日も主を見上げて歩んで行きましょう。
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by carbondalle1996 | 2013-08-27 07:24 | 日記 | Comments(0)

強くされ続けなさい

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最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。(エペソ6:10) 


 このエペソ書というのは、獄中にいるパウロからエペソをはじめとした諸教会へ送られた励ましの書簡であることは以前お話しました。それらの教会に特別な問題があったからパウロはこの手紙を書いたのではありません。人は信仰生活を続ける中で幾多の困難や問題に直面します。それは21世紀となった現在も変わりません。エペソ人への手紙は、このようにキリスト者が信仰によって歩むときに直面する問題にどう対処するか、獄中にいるパウロから届けられた深遠なメッセージです。

 このメッセージを終えるに当たって、パウロが最後の最後に私たちに語るメッセージ。それは「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい」というものでした。主にあってとは、英語ではIn Christ です。主の中にいてとも訳され、キリストの内に留まってという意味です。また「強くなりなさい」は原文は受身形で書かれており、「強くされ続けなさい」という意味です。

 パウロは自分の力で強くなりなさいと言ったのではありません。偉大なる主の力によって強くされ続けなさいと言いました。私たちが自分の努力や力で強くなろうとしても失敗するばかりです。むしろ聖書は弱さを認める方向を勧め、パウロはコリント書では「自分の弱さを誇る」とあります。私たちがもし強くなるならば、それは他者の力によって強くされること。パウロはキリストに留まり続けることによって、神様の偉大な力によって強くされなさいと書きました。自分自身の弱さを認め、今日も主に留まり、主によって強くされましょう。
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by carbondalle1996 | 2013-08-26 06:46 | 日記 | Comments(0)

祈りの家ランチ

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          今日の祈りの家ランチです



          この夏は冷やしうどんに助けられました



          夏バテで食欲がなくても



          冷やしうどんは胃の中にツルツルと


          
          押し流すことができました



          今日の祈りの家特製冷やしうどんも



          たくさんの具材がのって豪華ですね



          


     
          H姉の紫蘇の葉ジュースもプラスされ




          こちらも最高に美味しかったです。


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          食後のデザートです



          美味しいコーヒーも頂きました。
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by carbondalle1996 | 2013-08-25 18:25 | 日記 | Comments(0)

光の子らしく歩みなさい

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あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい。(エペソ5:8)

 聖書は人間の滅びの状態を闇とし、救われて真の神様と交わる状態を光として例えています。またイエス様ご自身もヨハネ福音書8章12節で「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」と言われました。ですからパウロは光の子らしく歩きなさいと命じているのです。私たちがイエス・キリストに留まり続けるならば、私たちを通してイエス様の光が輝きます。間違えてはいけないのは、私たちは良い行いによってキリストの光で輝かせるという事ではありません。それは善行によって救いを得ようとする行為と変わりません。聖書は徹頭徹尾、私たちができることはキリストに留まり続けることだと教えています。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。(ヨハネ15:5)

 私たちが良い行いをもって光輝こうとする行為は、自分の力で花を咲かせるようなものです。そのような行為は、必ず疲れて倒れてしまいます。そうではなく、私たちがすべきことは自分の意思によってキリストに繋がり続けることです。後はすべて神様がなさる世界です。花ではなく実を結びます。キリストの実を結ばせてくださるのは神様です。私たちではありません。「光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせる」とあります。光はキリストです。キリストに留まり続けるならば、善意と正義と真実という実を結ばせてくださるのです。今日もイエス・キリストに留まり続けましょう。そのときに私たちは光の子らしく歩む者とされるのです。
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by carbondalle1996 | 2013-08-24 08:54 | 日記 | Comments(0)

主のみこころを第一とする

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あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。(エペソ5:5)

 「不品行」や「汚れた」言葉を口にしてはいけないと聖書はおしえています。なぜならば、口から出すことによってそうした罪を行為によって犯す方向へ誘われてしまう恐れがあるからです。パウロはこうした性的不品行を行い、汚れた行為をするならば、そうした人々は偶像礼拝者だと断じています。それはどのような偶像でしょうか。それは自分の欲望を主とする偶像礼拝者という意味です。神様を第一とせず、自分の欲望を満足することを第一とします。聖書はこのような人は神の国に入ることはできないとあります。あなたの心は神様を喜ばせることを第一としていますか。それとも自分自身を喜ばせることを第一としていますか。神様を第一としているならば、あなたは神の国を継ぐことができます。今日も主の喜ばれることが何であるかを認め、主の喜ばれることを選び取って歩みましょう。栄光在主
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by carbondalle1996 | 2013-08-23 06:33 | 日記 | Comments(0)

むしろ感謝を捧げなさい。

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また、卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさい。これらは、よろしくない事である。それよりは、むしろ感謝をささげなさい。(エペソ5:4)

 パウロは卑しい言葉と愚かな話やみだらな冗談を避けなさいと戒めました。私たちが自分の口から汚れた言葉を出すことを禁じたとしても、私たちがそういった会話の中に身を置いてしまう場合があります。パウロはそのような会話の中に身を置くことを避けなさいと命じていますから、その場から離れることが重要です。もっと言えば逃げ出すこと。そこに身を置けば悪い言葉を聞いてしまいます。誰かの悪口、陰口、うわさ話。聞いて「嬉しい」「幸せ」と感じる人は誰もいません。「嫌な気持ち」が残るだけです。私たちは神様の作品ですから、良い行いをするように作られています。悪い行いをするようには作られていません。パウロはそうした会話をする人々と戦いなさいとは言っていません。その場から避けて離れること。こうして私たちは自分で自分の心を守ります。

 聖書は「むしろ感謝を捧げなさい」とあります。ゴシップなどを話している仲間の中で、「私はあの人のこんな良い面を知っています。すばらしいです。感謝しています。」と言ってみてはいかがでしょうか。あなたの言葉を聞いた仲間はきっとこう思うでしょう。「恥ずかしい。もう二度とゴシップはやめよう。」人は他人の欠点を見てしまいがちです。しかし、それよりも相手の長所を発見し、それを感謝する体質を持ちましょう。するとあなたのまわりもきっと変わります。今日も聖霊様が喜ばれることばを用いましょう。
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by carbondalle1996 | 2013-08-22 09:57 | 日記 | Comments(0)

ならぬものはならぬ

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また、不品行といろいろな汚れや貪欲などを、聖徒にふさわしく、あなたがたの間では、口にすることさえしてはならない。(エペソ5:3)


 「不品行」と訳された言葉は、「ポルネイア」というギリシア語でポルノの語源となった言葉で、性的罪を表す言葉で姦淫とも訳される言葉です。パウロはこういった不品行な言葉や汚れ、貪欲は聖徒にふさわしくなく、口に出すことも禁じています。大河ドラマ「八重の桜」では会津藩の教えの中で、「ならぬものはならぬ」がありました。理由はない。ならぬからならぬのだ。聖書も同じですね。理由はありません。聖書にそう書かれているから、ダメなものはダメ。そのように自分の行動を聖書の基準に合わせることが大切です。道徳を自分の行動に合わせるのではなく、私たちの行動を聖書の基準に合わせて生きる。今日も「ならぬものはならぬ」という神様の戒めに従う者となりましょう。
 
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by carbondalle1996 | 2013-08-21 06:36 | 日記 | Comments(0)