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5つのパンと2匹の魚

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魂のいのち

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 創世記2章に「神は命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」とあります。息と訳されている言葉は霊という意味も持ちます。そして生きた者と訳されている言葉は「ネフェシュ」というヘブル語で魂という意味です。ですから神様がその鼻に命の霊を吹き入れたときに、人は生きた魂となったというのが直訳です。人とは何ものなのかと問われたら、土のちりで造られた価値無き存在でありますが、そのような価値無き者に神様が命の息を吹きかけられ、生かされている尊い存在であると言えます。身体は見えますが、魂は見えません。しかし、はっきりとそれがあると聖書は書かれています。

 聖書は目に見える体も目に見えない魂もどちら大切だと教えています。これが聖書の第一の原則です。しかし、体と魂とどちらがより大切かといえばそれは魂であると教えています。これが第二の原則です。この創世記2章の記事はそれを表しています。マタイ福音書でイエス様は体と魂の命についてこう語っています。

“また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。”(マタイ10:28)

 人は体を殺すことはできます。当時のローマ帝国はクリスチャンを迫害し、大勢のキリスト者を死刑としました。しかし、イエス様はそれよりも魂を殺す権威のあるお方を畏れなさいと教えています。「からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかた」とは神様です。人には目に見えない魂を滅ぼすことはできません。しかし、神様にはその権威があります。イエス様はこの記事の中で、からだの命よりも魂の命の方がより大切であると教えておられるのです。あなたは死んだ後に天国へ行く確信はありますか?体はいつか滅びます。しかし、あなたの中にある魂は何処へ行くのでしょうか。魂は天国へ行き、永遠の命に預かります。そのためにイエス・キリストは私たちのために十字架に架かられたのです。イエス様を信じて、あなたも永遠の命をもちましょう。
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by carbondalle1996 | 2013-10-31 07:55 | 日記 | Comments(0)

陶器師がその作品を作るように

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”主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。”(創世記2章7節)

 ここで主と書かれている言葉も原典ではヤーウェという言葉です。ヤーウェなる神様は土のちりで人を造られました。創世記1章では神は自分に似せて人を創造したとヘブル語のバーラーが使われていました。バーラーは無から有を作り出す神様だけが使える言葉です。しかし、ここでは「神は土のちりで人を造り」と「ヤツァル」という「造る」という言葉が使われています。この「ヤツァル」という言葉は、陶器師が陶器を造るときに用いられる言葉です。

”主は仰せられる、イスラエルの家よ、この陶器師がしたように、わたしもあなたがたにできないのだろうか。イスラエルの家よ、陶器師の手に粘土があるように、あなたがたはわたしの手のうちにある。”(エレミヤ18:6)

 ここで陶器師という言葉がたくさん出てきますが、この陶器師という言葉は「ヤツァル」というヘブル語の名詞形です。つまり「ヤツァル」という言葉は、動詞では「形造る」という意味となり、冠詞がつくと「陶器師」という名詞の意味を持ちます。大切なことは、聖書は創世記2章で神様が人を造られらときに、陶器師がその作品である陶器を粘土から形造るように人を土のちりで形造られたということです。

 私は小学校5年生のときに図工の時間に陶器を造りました。自分の手で粘土をこねて形作り、それをかまどに入れて焼きました。出来た作品を見て私は誇らしく思いました。別に金賞を取ったわけではありませんが、それは私が自分の手で作った最初の陶器となりました。神様はこのように人を陶器師がその陶器を形作るように、愛をもって形造られました。神ご自身の手で土をこねて、顔や手や足を作ってくださったのです。ここにも神様の私たちに対する特別な愛を発見します。今日も神様はあなたを愛しています。
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by carbondalle1996 | 2013-10-30 06:59 | 日記 | Comments(0)

テトラグラマトン

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これが天地創造の由来である。主なる神が地と天とを造られた時、地にはまだ野の木もなく、また野の草もはえていなかった。(創世記2章4節)

 創世記2章4節で大切なヘブル語が登場します。それは主ということばです。主と訳されておりますこのヘブル語は、ギリシア語ではテトラグラマトンと呼ばれその意味は神聖4文字という意味です。これを現代ではヤーウェと読みますが、少し補足させていただきます。ユダヤ人にとって神様の名を口にするということは怖れ多いことでした。十戒の第三戒には「主の名をみだりにとなえてはならない」とあります。この主ということばこそヤーウェなる神様の名前です。

 ですからユダヤ人はこの神聖4文字をアドナイという言葉で置き換えました。アドナイとは「主」という言葉です。旧約聖書には6859回この神聖4文字が書かれていますが、その度にユダヤ人はその箇所をアドナイと読み替えました。ところがここで一つの問題が起こりました。長い時代に神様の名前をアドナイと置き換えて読んでいたため、神聖4文字の読み方をユダヤ人自身が忘れてしまったのです。なぜそのようなことが起こるのかというと、ヘブル語には母音がないためです。ヘブル語は全て子音で書かれています。

 この神聖4文字を英語に置き換えると「YHWH」です。このように母音が無い文字は読めません。しかし昔のユダヤ人たちは母音がなくとも、ちゃんと言葉を使い分けていました。現代のヘブル語はどうかと言いますと、子音の下に母音記号を書いて表しています。新改訳聖書では一般に使用される主という言葉とこの神聖4文字を区別して、神聖4文字の場合は太字で記されています。エホバの証人はこの神聖4文字をエホバと読み間違えておりますが、ヤーウェが正しい読み方だと言われています。ヤーウェなる神様がこの世界を創造し、私たちに命を与えてくださいました。今日も神様に生かされてある喜びに感謝し、神様を讃美して歩みましょう。
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by carbondalle1996 | 2013-10-29 06:38 | 日記 | Comments(0)

ハートリーのヴァイオリン

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 1912年に北大西洋で沈没したタイタニック号の首席奏者ウォレス・ハートリーのヴァイオリンが、先週英国内でオークションにかけられ、約1億4200万円で落札されました。100年以上の昔に作られ、一度海に沈んでしまったヴァイオリン。落札者はこのヴァイオリンの価値をどのように評価したのでしょうか。

 この年の4月、ハートリーはタイタニック号の首席奏者の仕事を与えられましたが、プロポーズしたばかりだった婚約者のマリア・ロビンソンを残していくことを躊躇しました。しかし、タイタニック号が与える将来への可能性を広げようと、彼はこの仕事への参加を承諾しました。タイタニック号が氷山に衝突して沈み始めた後、ハートリーと楽団の仲間は、乗客が落ち着いて救命艇に誘導されるようにとラグタイムの曲目を演奏しました。彼らは沈没の最後まで演奏し続け、生き残ることはできませんでした。そんなハートリーと彼の仲間たちが最後に演奏した曲は、讃美歌320番「主よみもとに近づかん」だったと言われています。これはハートリーの愛唱歌でした。

 ウォレス・ハートリーの遺体は、事故の2週間後にマッケイ・ベネット号によって引き上げられ、身元が確認されました。驚いたことに遺体が引き上げられた際に彼のヴァイオリンは、彼の身体にしっかりと結びつけた状態で発見されました。ハートリーが死ぬまで離さなかったこのヴァイオリンこそ、彼の婚約者であるマリア・ロビンソンがハートリーにプレゼントしたものでした。 タイタニック号の楽団首席奏者ウォレス・ハートリーの葬儀には1000人が出席し、40000人の人々が彼の葬列を見送ったといいます。

 落札した英国の収集家にとって、このヴァイオリンはお金では計ることができない価値がありました。実は神様もこの収集家と同じ気持ちで私たちを見ておられます。私たちの価値は決してお金では計ることはできません。値段をつけられない存在です。ですから神様ご自身が十字架に架かり、ご自身の命という値段を払って私たちを買い取ってくださったのです。これ以上の値段があるでしょうか。私たちの価値は神様の命と等しいと神様が見てくださったのです。ここに神様の愛があります。神様はあなたを愛しています。

“わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。”(イザヤ書43章4節)
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by carbondalle1996 | 2013-10-28 05:49 | 日記 | Comments(0)

おでんとアップルタルト

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          秋田も寒くなってきました


          今日のランチはおでんとキムチ


          どちらも祈りの家お手製


          寒い季節はおでんを食べると


          体が温まります

    
          そして心も・・・


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         食後のデザートはコーヒーとアップルタルト


         実はこのアップルタルト


         祈りの家で初めて出された新作


         今までアップルケーキ、ショートケーキ


         チョコレートケーキなどいろいろありましたが


         アップルタルトは初めて


         味はというと


         最高に美味しかったです


         今日も豪華な昼食をみんなで楽しみました


         感謝。
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by carbondalle1996 | 2013-10-27 14:28 | 日記 | Comments(0)

幸せについての研究結果

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 アメリカのハーバード大学で両親との愛の関係がその人の幸せとどのように関係するかという研究がなされました。例えば、両親との愛の関係が築かれているハーバード大学卒業生の年収は、そうでない人に比べて1000万円以上も年収に差が生じているそうです。また幼児期に両親との愛の関係が築けなかった人は、築いた人に比べて、老年において痴呆症を発症する可能性が高いそうです。ハーバード大学はこの研究で人間の幸せとは何かというテーマで、膨大な予算と年月をかけて調べ上げたそうです。それは非常にシンプルな結論となりました。その結論とは、「人の幸せとは愛です。それ以上の何者でもありません」というものでした。

 聖書には「大切なものは、信仰と希望、愛であり、この中で最も大いなるものは愛である。愛を追い求めなさい」とあります。経済的祝福は大切です。しかし、それはあくまでも神様の下にあっての祝福。神様を否定した上での財では、人は本当の幸せを得ることはできません。神の国とその義を第一に求めなさい。そうすればこれらのものは添えて与えられます。第一のものを第一に求める人生こそ幸せな人生だと言えるでしょう。今日もイエス様を心に迎えて歩みましょう。ハレルヤ!
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by carbondalle1996 | 2013-10-25 06:24 | 日記 | Comments(0)

Image of God


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神様は「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」と言われました。他の聖書訳では「神に似せて」と訳されており、英語ではImage of God とあります。神様のイメージに、神様に似せて人は創造されました。神様に似るとは姿・形という外側だけではありません。これは神様がもっている性質に似せて人は創造されたという意味も含まれています。それでは神様の性質とは何でしょうか。神様の性質は大きく3つのことばで代表されます。それは愛と義と聖という言葉です。

 神様の本質は愛です。ですから私たちの心にも愛という性質があります。それは愛を求めるという思いであり、愛を与えたいという思いです。大川先生は、「人は愛されることによって平安を得て、愛することによって満足する」と言っています。人間の心の成長にとって、愛はなくてはならぬものです。人は愛されることによって平安を得ると言いますから、愛されないと平安が無いのです。人が最初に愛されると感じるのは誰でしょうか。それは両親ですね。お父さんとお母さんから愛されて育ったというしっかりと認識する人は、とても幸せだと思います。

 私がアメリカにいたときに教会に一人の婦人が来ていました。彼女は二人の子供がいましたが、ご主人が子供を可愛がらなくて困っていました。どうしてご主人は子供たちを可愛がらないのですかと聞くと、彼は父親から愛された経験が無いから自分が父親となってみて、子供たちにどのように接してよいかわからないのだそうです。私はその話を聞いてびっくりしました。子供を愛しているならそのように接すれば良いではないかと思いました。しかし、それは私が、父親が私を愛してくれたというイメージがあるから言えることなのだとわかりました。彼にはそのイメージが無いからわからないのだと初めて理解しました。親から愛されるという経験は、実は子供にとってとても大きな人間教育なのだとそのとき知りました。

 神様の本質は愛です。そして神に似せて創られた私たちの本質も愛です。愛なくして私たちは生きられません。愛を求め、愛を与えたいと思うのはそのためです。神様の愛を受け止めて、神様から愛されている自分に気づいたら、この愛を他者へ与える者とならせていただきましょう。ハレルヤ!
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by carbondalle1996 | 2013-10-24 06:59 | 日記 | Comments(0)

ご自身に似せての意味

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 神様がご自身に似せて人を創造されたというこの言葉に私は神様の愛を感じます。愛が無ければ、神様はご自身に似せて人を創造されなかったと思います。神様に愛がなければ、地上はライオンに支配させて、海はクジラに支配させればよかったのです。でも神様はそうはなさりませんでした。神様はご自身に似せて人を創造されました。どうしてでしょうか。人を愛の対称として創造されたのです。

ヨイド純福音教会のチョー・ヨンギ先生が父親の愛についてこのようなお話をしています。チョー先生が中学生のとき、韓国は朝鮮戦争が起こりました。たくさんの避難民が線路に止まっている貨物列車に押し寄せては、石炭を盗んで行くのを見たそうです。その中に10歳くらいの男の子を連れた40代の男性がいました。二人は親子でした。子供が上から石炭を投げると、下で父親がそれを拾いました。ところが子供が投げた石炭が列車の下に入ってしまいました。それを引っ張り出そうとしたときに軍人たちが現れました。少年は貨物車から飛び降りたのですが、逃げずに列車の下に入った石炭を探すために列車の下に入りました。そのとき列車がガターンと大きな音を立てて動き出しました。
 誰もが悲鳴を上げました。しかし、少年を救うために飛び込む人はいませんでした。そのとき少年の父親が汽車の下にもぐり込み、少年を押し出しましたが、父親は汽車に引かれてしまいました。父親は汽車に引かれながらも少年を押し出し、早く安全なところまで逃げなさいと手を振りました。汽車が走り、結局父親は亡くなりました。
 このとき、14歳だったチョー先生は、どうしてあの父親は自分の命を捨ててまで息子を助けたのかがわからなかったそうです。子供が死んでも、また子供を産めば良いではないか。そのように思ったそうです。しかし、自分が父親になってはじめてあのとき列車の下に飛び込んで息子を助けた父親の気持ちがわかったそうです。子供を愛する父親の愛に理屈は無いということです。

 神様も同じです。もし誰かが神様に、「神様はどうして人を神様に似せて造られたのですか」と尋ねたら、神様はきっとこう答えると思います。「それはあなたがわたしの子であり、あなたはわたしの愛の対象だからですよ」と。私たちは神様の愛の対象として神様に似せて造られたのです。私たちは神様に愛されてこの世に生まれてきました。あなたは神様に愛されています。
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by carbondalle1996 | 2013-10-23 06:38 | 日記 | Comments(0)

立ち止まって、話し合われた神様

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神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。(創世記1:26)


 さて、神様が人を創造するときに父なる神様、子なる神様、聖霊なる神様の三者の間でこのような会話がなされました。「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神様が人を創造することについて話し合われたということを見るときに、これは神様にとっていかに重大なことであったかがわかります。神様は天地万物の創造において父なる神と、子なるイエス様、聖霊なる神様の共同作業だとお話しました。しかし、光を創造されたときも、空や海、植物や動物を創造されたときも、神様は話し合いをされませんでした。ただ言葉によって宣言し創造されました。

 しかし人の創造は違います。神様は全てを創造された後に一旦立ち止まり、話し合われました。そして自分達に似せて人を創造することを決めました。つまり人間は特別な存在だということがここでわかります。私たち人間は神様に似せて造られた特別な存在であるということです。聖書学者の榊原康夫先生は、人間は神様が創造された被造物の中で創造の冠であると言っています。私たちは神様にとって特別な存在なのです。他の動物とは違います。神様にとって特別な存在であるから、どんな人も尊い存在なのです。自分が特別であり、私たちの隣人も特別です。あなたは隣人をそのような神様の愛の対象として、尊い存在として見ていますか。あなたが尊い存在であるように、あなたの隣人も尊い存在なのです。隣人を自分自身のように愛しましょう。
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by carbondalle1996 | 2013-10-22 06:25 | 日記 | Comments(0)

三位一体論

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神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。(創世記1:26)


 「神はまた言われた」とありますが、創世記1章でもお話しましたが、ここで書かれている神という言葉はエロヒームというヘブル語で複数形です。そして「言われた」という言葉は単数形です。主語が複数形で動詞が単数形といのは、本来文法的に間違いでありますが、ここに聖書が示す三位一体の神の真理が表されています。

 聖書の神様が三位一体なる神様であることをお話するのは、異端が間違った教えを説いているので注意して頂きたいからです。有名なものとしてはエホバの証人があります。エホバの証人は、神様は父なる神だけであり、イエス・キリストは神の子であるが神ではないと言います。そして聖霊は神ではなく、神の活動する力だと教えています。このようにエホバの証人は三位一体なる神様を認めません。これが異端と呼ばれている理由です。聖書の本質からずれて、間違った教えを述べ伝えています。世界中のキリスト教会であるカトリック、オーソドックス、プロテスタントはみな三位一体なる神を信じるという立場にあります。神様は唯一なる神でありますが、同時に3つの人格をもっています。父なる神、子なる神キリスト、聖霊なる神です。ですから三位一体というこの神学は、キリスト教にとってとっても大切な教えなのです。

 ウオッチマン・ニーという先生は、創世記から天地万物の創造は三位一体なる神様の業であることを表していると言います。創世記1章には、「神」という言葉と、「神は言われた」という言葉と、「神の霊」という言葉が書かれています。これは父なる神と、子なるキリストと、聖霊なる神様を表していると言っています。ヨハネ福音書には、「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。すべてのものはこれによってできた」とあります。

 今日も私たちの心が誤った教えにふるわれず、まっすぐにイエス様を見上げて歩んで行きましょう。ハレルヤ!
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by carbondalle1996 | 2013-10-21 06:51 | 日記 | Comments(0)