「ほっ」と。キャンペーン
ブログトップ

5つのパンと2匹の魚

fivebread.exblog.jp

<   2013年 11月 ( 30 )   > この月の画像一覧

神の前に立つ二人

f0229700_6353412.jpg



すなわち、ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされるのである。(ローマ書5章19節)

 アダムの罪によって全人類が罪人とされました。なぜなら先ほども言ったようにアダムの中に私たち全人類が入っていたからです。これと同じ原理がイエス・キリストにもあてはまるのです。つまり一人の従順によってとは、イエス・キリストが十字架の死に至るまで神様に従順でありました。その結果、イエス・キリストを信じる全ての人が義とみなされるということです。

 17世紀の有名な神学者でトーマス・グッドウインという人がこのように言っています。神様の前では二人の人しかいない。一人はアダムであり、もう一人はイエス・キリスト。それでは他の人々はどこにいるのかというと、みなアダムの後ろか、イエス・キリストの後ろに列を作って並んでいるというものです。先ほどお話したロシア人形を思い出してください。アダムという一番大きな人形の後ろに、たくさんの小さな人形が列を作っています。アダムは罪人の代表です。

 人はみな最初、このアダムの列に並んでいます。しかし、イエス・キリストが私の罪を全て十字架の上で負ってくださったと信じることによって、私の罪は赦されました。その結果、私はアダムの列からイエス・キリストの列に移し変えられました。すると私というロシア人形は、以前はアダムという大きな人形の中に入っていたものが、イエス・キリストの中にすっぽりと入る者となりました。これがIn Christつまり、「キリストにある」という意味です。

 私は以前と同じ罪人です。罪を犯し続けます。しかし、神様が私をアダムの列からイエス・キリストの列に移し変えてくださった結果、罪赦された者と神様が見てくださったということです。それだけではありません。神様は私を義人としてくださったのです。私は義人ではありません。罪人です。死ぬまで多くの罪を犯し続ける罪人です。イエス・キリストだけが神様の前で罪を一つも犯すことのない義人でした。神様は、私がイエス・キリストを信じた結果、イエス・キリストの義を私に転嫁してくださったのです。

 アダムの罪が全ての人間に転嫁されたと同じように、イエス・キリストを信じることによって、キリストの義が信じる全ての人々に転嫁されたのです。これが「ひとりの従順によって、多くの人が義人とされる」という意味です。イエス様を信じることによって、私は神様より義人とされました。主の御名を褒め称えます。
[PR]
by carbondalle1996 | 2013-11-30 06:39 | 日記 | Comments(0)

ロシア人形

f0229700_6122828.jpg



このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。(ローマ5章12節)

 一人の人とはアダムです。神様が食べてはいけないと言われた善悪の知識の実を、アダムが食べてしまったゆえに罪がこの世に入りました。その結果、死も入りました。聖書は「こうして全ての人が罪を犯したので」とあります。ここで書かれている「罪を犯した」という言葉は1回だけ犯したという言葉です。1回とはアダムが犯した1回です。つまり聖書は、アダムが犯した1回の罪はあなたが犯した1回だと書いています。当然、私たちはアダムなど知りません。アダムと私たちは全然関係ありません。しかし、聖書はアダムから全ての人類が生まれた以上、アダムの中に私たち一人一人が入っていると考えます。

 ロシア人形をご存知でしょうか。人形の中に少し小さい同じ形をした人形が入っており、だんだんと人形が小さくなるという人形です。つまりあれと同じです。アダムが罪を犯したときに私たちは生まれていませんでしたが、アダムの子孫である以上アダムの中にいて、私たちも罪を犯したと聖書は言います。

 よく教会は人を勝手に罪人扱いするから嫌いだという声を聴きます。その通り、聖書は全ての人は罪人だと書いてあります。この誤解は罪の定義の違いから起こります。もし罪という定義が、「警察に捕まって牢屋に入れられること」だとしたら、ここにいるみなさんは罪人ではありません。しかし、聖書が定義する罪はもっと厳しいと考えてください。イエス様はあるとき、「人をバカ者とか能無しと呼んだ者は地獄へ投げ込まれる罪だ」と言いました。つまり人を傷つける言葉を言った人は罪人だということです。そうなると誰も罪人ではないと言えなくなります。

 例えば、人のお金を盗むことと人の悪口を言うことと、どちらがより重い罪かと聞かれたらみなさんはどちらだと答えますか。たぶん人のお金を盗むことの方がはるかに大きな罪だと言うと思います。しかしちょっと考えてみてください。新聞やニュースで私はお金を盗まれて自殺したという人はあまり聞きません。その一方で悪口を友人や知人に言われて自殺したという人はたくさんいます。つまり被害者の立場に立つならば、悪口を言われる方が大きな罪なのです。そのように考えると、私たちは本当に人殺しに値するような罪を犯して生きてきたと言えます。ただ、言われた相手が自殺をしなかっただけかもしれません。ですから私たちもアダムと同罪であり、全ての人々はみな罪人なのです。

 このような罪人を救うためにイエス・キリストはこの地上に来られました。救い主イエス・キリストを私たちの心に迎え入れ、永遠のいのちに預かる者となりましょう。
[PR]
by carbondalle1996 | 2013-11-29 06:17 | 日記 | Comments(0)

怒りを治める方法

f0229700_8373463.jpg


そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。(創世記4章6節)

 人は誰にでも怒ります。嬉しい事があれば喜びます。悲しいことがあれば悲しみます。しかし、聖書は怒りをそのまま持ち続けてはいけないとあります。「罪が門口に待ち伏せている」とは、怒りを持ち続けることによってサタンがあなたの怒りを足場としてあなたの心に侵入し、怒りは恨みや妬みとなり、それは殺人という罪にまで発展する危険があるからです。「それはあなたを慕い求めます」とあります。サタンは怒りという足場を使ってあなたを滅ぼそうとあなたに近づきます。ですから聖書は、「あなたは怒りを治めなければならない」と戒めているのです。怒りをコントロールすることが大切です。

“怒ることがあっても、罪を犯してはならない。憤ったままで、日が暮れるようであってはならない。” (エペソ4:26)

 私を含めてですが、怒り易い人は注意しましょう。怒りの火がつくとなかなか人はそれを止められません。コントロールできずに悪い言葉がどんどん口から出るという経験があると思います。聖書にあるように怒っても、それを翌日まで持ち越さないようにしましょう。怒りを翌日まで持ち越すと、それは罪となりサタンの罠にあなた自身が落ちてしまいます。この後カインは弟のアベルを殺してしまいました。それはまさにカインを罪が門口で待ち伏せし、カインを恋い慕いました。カインが怒りを治められなかった結、カインは弟アベルを殺すという罪を犯しました。人間が最初に犯した殺人は兄弟の間で起こりました。その原因は怒りでした。聖書にはこうあります。「怒ったり争ったりしないで、どんな場所でもきよい手をあげて祈りなさい」と。

 怒ることがあれば、その人を赦し、その人のために祝福を祈りましょう。それこそ私たちが神様からいただいた「怒りを治める方法」です。今日も隣人のために祈りましょう。

 
[PR]
by carbondalle1996 | 2013-11-28 08:42 | 日記 | Comments(0)

大きなスイカと小さなスイカ

f0229700_632970.jpg



 例えば、あなたの右隣に住んでいる大きな農場の主人があなたに向かって、「スイカがたくさんできたから1つあげるよ」と言って甘くて大きいスイカをあなたにプレゼントしたとします。そのスイカは大きくて甘くてとても美味しかったとします。こんどはあなたの左隣に住んでいる小さな畑の主人があなたに向かって、「今年の初物のスイカの中からとびっきり良い物を持ってきたよ」とあなたにプレゼントしたとします。そのスイカは小さくてあまり甘くありませんでした。さてあなたはどちらのスイカをより嬉しかったと思うでしょうか。実は、私たちは、美味しいスイカを喜んで、美味しくなかったスイカを喜ばないことがあるのではないでしょうか。聖書はこの質問に対する答えをマルコ12章にこのように書いています。

 「イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。

 神様はまずアベルを顧みて、その後にアベルが捧げた捧げ物を顧みられたのです。神様にとってその捧げ物が甘いか、酸っぱいか、高価か、高価でないかは問題ではありません。神様はそれを捧げる人の心を見られるのです。

 ですから私は神様は公平な方だと思いました。どれだけ神様を愛しているか、神様はそうした私たちの心を見ておられるのです。どれだけ献金したとか、どれだけ奉仕をしたとか、どれだけ善行を積んだという基準ではありません。もし捧げ物に目を留める神様でしたら、裕福なお金持ちを神様は顧みられるでしょう。もしたくさんの奉仕に目を留めるならば、健康な人を顧みられるでしょう。

 しかし、神様はそのような物や行為に目を留めるお方ではなく、捧げるその人の心に目を留めるお方なのです。ですから神様は真実で公平なお方です。お金持ちも貧乏人も、健康な人も病人も、等しく捧げられるものがあります。それが心です。心は全ての人が等しい条件で捧げることができます。ですから捧げ物について他人と比較する必要はありません。神様の前で隠せる心はありません。自分自身の心を見て、自分がどれくらい神様を愛しているかが問われるのです。あなたはどれくらい神様を愛していますか。これくらいですか?それともこーれくらいですか?神様はあなたの心を求めています。
[PR]
by carbondalle1996 | 2013-11-27 06:43 | 日記 | Comments(0)

アベルの捧げ物

f0229700_614423.jpg


アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。(創世記4章4節)

 カインの記事は淡々と書かれていましたが、アベルが捧げた記事については少し詳しく書かれています。それはアベルが飼っていた羊の群れの中で、ういごでした。ういごとはその羊から最初に生まれた羊です。ういごというのはとても貴重なものです。10頭羊がいたら5頭のういご、100頭いたら50頭のういごがいたのかもしれません。そうしたういごの羊だけを集めてその中から肥えた羊、つまりその年の最高の羊をアベルは神様に捧げました。神様はアベルとその捧げ物を顧みられました。しかし、神様はカインとその捧げ物を顧みられなかったとあります。

 神様は野菜や果物という地の産物よりも羊などの動物を好まれなかったのでしょうか。いいえ、そうではありません。大切なことは、神様はまずアベルを顧み、しかるのちにその供え物を顧みられたということです。逆に神様は、カインを顧みず、したがってその供え物を顧みなかったという事実です。供え物について言えば、二人の供え物は供え物として問題はありませんでした。しかし神様が捧げ物を捧げた二人の心を見られたときに、問題がありました。一人の心は神様が喜ぶものであり、一人の心はそうではありませんでした。神様はその結果、一人を顧み、一人を顧みなかったのです。

 例えば、私があなたにたくさんある収穫物の中から余り物を持ってきたらどうでしょうか。私が、「今年はゴーヤがたくさん採れて食べきれないからこのゴーヤをもってきた」と言うのと、「今年のゴーヤの初物の中から一番美味しそうなゴーヤをもってきたよ」と言うのと、あなただったらどちらが嬉しいでしょうか。当然、後者だと思います。見掛けは同じゴーヤでも、その人の心が違います。神様も同じです。それが野菜であっても、お肉であって、それが問題ではありません。それを捧げる人の心を測られるのです。あなたは今日、どのような心で神様の前に立とうとしていますか。神様はあなたの心を見ておられます。あなたの心の全てを神様の御前に差し出しましょう。必ず神様はあなたを顧みてくださいます。
[PR]
by carbondalle1996 | 2013-11-26 06:22 | 日記 | Comments(0)

主によってひとりの人を得た

f0229700_6171887.jpg



人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。(創世記4章1節)

 アダムとエバは罪を犯し、エデンの園を追放された後に一人の子供が与えられました。エバはこのとき初めて一人の女性から母となりました。エバという名前の意味は「命」です。エバが人類全ての命の母となりました。子供が与えられたときエバは、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」と喜びを表現しました。エバは「主によって」と子供が神様から与えられたと喜んだのです。神様からエデンの園を追われたアダムとエバにとって、子供が与えられたとは神様が自分たち夫婦を見放していないことを意味し、神様の祝福を意味するため大きな喜びだったのです。

 日本人は新しい命が与えられると、「子供ができた」と言います。この言葉からは何か自分達の努力によって得たようなニュアンスがあるように思えます。聖書は子供が与えられるとは神様の祝福だと教えています。夫婦の営みによって子供ができたと捉えるのと、「神様によって子供が与えられた」と捉えるのでは大きな違いです。エバは、神様がこの命を自分たち夫婦に与えてくださったと受け取り、それは神様の祝福だと受け取り、大いに喜んだのです。

 エバはまた「子供が与えられた」とは言わずに、「ひとりの人を得た」と言いました。なぜならばアダムとエバにとってこの子供こそ、神様がサタンの頭を砕くと約束された人ではないかと考えたからです。アダムとエバが罪を犯したときに神様は、女の末から生まれる者がサタンの頭を砕くと約束されました。エバは主によって与えられたこの子供こそ、神様の約束の人になると思い、「主によってひとりの人を得た」と喜んだのです。カインとは「得る」という意味です。エバは神様の祝福をカインを通して「得た」と受け止めたのでしょう。

 あなたは子供を、「主によって」与えられた子供だと受け止めていますか。どんなに科学が発達しても人は命を作り出すことはできません。ましてその中にある魂を造り出すことは不可能です。命は神様だけが創りだすことができます。子供とは、その夫婦へ預けてくださった大切な預かりもの。愛を注ぎ大切に育てましょう。子供は宝物ですから。
[PR]
by carbondalle1996 | 2013-11-25 06:30 | 日記 | Comments(0)

収穫感謝礼拝

f0229700_16521182.jpg


 今日は収穫感謝礼拝。アメリカでは毎年11月の第4木曜日を収穫感謝祭(Thanksgiving Day)としています。私は今年も畑作業をさせていただきましたが、ナスもキュウリもゴーヤも9月初旬には収穫が終わり、どうして11月の第4聖日が収穫感謝礼拝なのかと疑問をもっておりました。しかし、その起源はなんと宗教的自由を求めてアメリカ大陸に渡ったクリスチャン入植者にありました。

 1620年にイギリスから宗教的自由を求めて人々は、マサチューセッツ州のプリマスに入植しました。その年の冬は大変厳しく、人々は飢饉により大勢の死者を出しましたが、翌年、近隣に住むインディアンからトウモロコシその他新大陸での作物の栽培知識の教授を得て生き延びることができました。その年の秋は、とりわけ収穫が多かったため、人々はインディアンを招待して、神の恵みに感謝して共にご馳走をいただいたことが始まりだとされています。

 今年の収穫物を神様に感謝することは大切です。しかし収穫はなにも野菜や果物だけとは限りません。聖書は、「御霊の実(フルーツ)を結びなさい」とあります。それは、「愛・喜び・平和・寛容・慈愛・善意・忠実・柔和・自制」という実です。考えてみると私たちはみな苦い実を結ぶしかないぶどうの木です。イエス様というぶどうの木だけが、甘く美味しい実を結ぶことができます。このぶどうの木は2000年前に幹からばっさりと切られてしまいました。これが十字架の死です。しかしその結果、私たちという枝が、このイエス様の幹に接木されました。

 するとどうでしょうか。どんなに努力しても苦い実しか結べなかった「私たち」という枝は、何の努力も無しに甘く美味しい実を結ぶ枝とされたのです。これがキリストに留まるということ。キリストが木の幹であるならば、その樹液は聖霊様です。聖霊様という樹液が私達という枝に流れるとき、私たちは初めて御霊の実を結ぶことができるのです。みなさんは今年御霊の実をいくつ結びましたか。イエス様に留まったみなさんはちゃんと御霊の実を結んでおります。どうぞ自信をもって数えて下さい。今年1年を振り返り、神様が私たちを通して結ばせてくださった御霊の実を数え、神様に感謝を捧げましょう。それこそ私たちが捧げる収穫感謝礼拝です。

“わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。”   (ヨハネ15章5節)

f0229700_16533134.jpg

[PR]
by carbondalle1996 | 2013-11-24 16:53 | 日記 | Comments(0)

マシュマロテスト

f0229700_702751.jpg



スタンフォード大学がマシュマロテストという実験結果を発表しました。マシュマロテストとは、4歳児の子供に一人ずつマシュマロをプレゼントします。先生は子供たちに「食べても良いけど、先生が帰ってくるまで待てた子供には、ご褒美にマシュマロを2つあげます」と言って部屋を出ます。子供たちの反応は多様です。ある子供は先生がドアから出た途端にマシュマロを口に入れ、ある子供はマシュマロの前で腕組みをしてマシュマロをにらみつけて我慢します。またある子供は、マシュマロを自分の視線から外そうとテーブルに背を向けて遊び出します。

 マシュマロテストはこうした子供たちが、その後どのような人生を歩むのかを20年追跡調査しました。その結果先生の言うことを聞いて我慢できた子供の多くは、ストレスやプレッシャーに上手に対処し、社会的に貢献できる職業に就き、良い夫また妻となるケースが多く見られました。我慢できなかった子供の多くは、衝動的で忍耐力に欠け、優柔不断で物事を簡単にあきらめることが多く、すぐに憤り、非行に走るケースが多いという結果が表れました。

 もちろん、マシュマロテストが全ての子供の姿を証明しているわけではありません。しかしマシュマロテストから私たちが学ぶべき点があります。私はこのテストが4歳児だけではなく、24歳の青年にも、44歳の婦人にも、そして64歳の壮年にもあてはまるテストだと思います。神様は私たちに試練を通して忍耐を学ばせ、忍耐から希望を生み出し、そして信仰の成長を促します。試練の中で神様により頼み、忍耐し続け、約束の時を待つことができるか。神様の約束を待つことができた者に、神様は祝福を与えてくださるのです。神様の約束を待ち望み、祝福に預かる者となりましょう。
[PR]
by carbondalle1996 | 2013-11-23 07:03 | 日記 | Comments(0)

ごめんなさいと言えますか?

f0229700_77862.jpg



人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。(創世記3章12~13節)

 人が罪を犯した後に、最初に犯した罪は責任転嫁の罪でした。アダムは「神様ごめんなさい」とは言わず、「あの女がくれたので」と責任を転嫁しています。読み方によっては「神様、あなたがわたしと一緒にしたあの女がしたのです」と責任を神様に転嫁しているようにも聞こえます。事実はそのとおりかもしれませんが、神様が食べてはいけないと言った実を食べたのもまた事実です。責任転嫁せずに自分がしましたと認め「ごめんなさい」と謝ることが大切です。

 エバもアダムと全く同じです。責任をヘビに転嫁しました。やはりエバも「神様ごめんなさい」とは言えませんでした。誰かに罪を犯したら、「ごめんなさい」という事が大切です。たとい自分が悪くなくても、その責任は自分にある。

 芸能人のみのもんたさんが息子さんが窃盗を起した為に報道番組の出演を辞退しました。レポーターが質問の中でこう聞きました。「息子さんが事件を起したときに、すぐに『どうもすみません』と言えたら、結果はもっと違っていたのではあいませんか。」このレポーターの質問に対して、みのもんたさんは少し時間を置いて、「今思えばそうだったと思いますが、あのときはごめんなさいが言えませんでした」と。

 人はなかなかごめんなさいが言えない者です。特に親子関係や兄弟姉妹などの近い関係となると難しいです。しかし聖書は責任転嫁の罪を堕落後の最初の罪として記しています。私たちは罪を犯してしまったならば、素直に「ごめんなさい」と言える者でありたいと思います。
[PR]
by carbondalle1996 | 2013-11-22 07:09 | 旅行 | Comments(0)

白い衣を買いなさい

f0229700_645098.jpg


彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。(創世記3章10節)

 アダムもエバも最初から裸でした。しかし同じ裸でもそれは全く違った裸です。罪を犯す前の裸は「アローマ」という状態で、これは神の栄光が裸を被うという言葉です。それに対して罪を犯した後の「エローマ」という状態は、何かをもって覆わなければ隠すことのできない裸の状態です。人は罪を犯した結果、アローマという裸の状態からエローマという裸の状態に変わってしまいました。それはとても惨めな姿です。神様の栄光を身にまとっていた姿から、栄光の衣が奪われてしまったのですから。黙示録3章にこのような御言葉があります。

あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。(黙示録3章17~18節)

 イエス様は、私たちが裸であることに気がついていないと戒めています。人がどれほど高価な衣装をまとったとしても、神様の目にはそれは、いちじくの葉で裸を隠している姿と同じです。人はみな神様の前ではエローマという裸の状態です。イエス様はその裸を覆うために白い衣をわたしから買いなさいと言いました。イエス・キリストの義の衣こそ栄光の衣であり、それはアダムとエバが当初着ていた神様の栄光であり、アローマなる姿だったのです。

 人は罪の状態では神様の前に立つことは許されません。罪許され、義の衣を着て初めて私たちは神様の目に立つことが許されるのです。私たちがイエス・キリストを信じるならば、私たちは再びアローマという栄光の衣を着た姿で神様の御前に立つことが許されるのです。イエス様を信じて、栄光の衣を着る者とさせていただきましょう。
[PR]
by carbondalle1996 | 2013-11-21 06:54 | 日記 | Comments(0)