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5つのパンと2匹の魚

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憩いのみぎわへ

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主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。(詩篇23:2)

 羊は目が弱く、前の羊に着いて行くという習性があります。また自分で牧草地や水のみ場を探して行くことができません。そのまま放っておくと、羊たちは自分で牧草地や水のみ場を探すことができずに飢えて死んでしまう動物です。

 また羊には帰巣本能(キソウホンノウ)がありませんので、何処かで迷ったとしても家に帰ることができません。例えば、犬やネコでしたら帰巣本能がありますから、隣町ではぐれても家に着くことができます。イザヤ書には「牛はその飼い主を、ロバはその飼い葉おけを知っている」とありますが、このように動物には帰巣本能がありますが、羊にはこの大切な本能が無いのです。ですからイエス様は言いました。良い羊飼いは囲いの中にいる99匹の羊を置いて、迷い出た一匹の羊を探して歩き、見つけるまで探し続けます。それは羊が迷ったら自分で家に帰ることができないからです。

 ダビデはこの詩篇23篇で自分もまたこのような弱く愚かな羊と同じであると告白しています。群れから迷い出たならば、戻ることができない愚かな迷える羊。しかし、そのような愚かな羊にもすばらしい羊飼いがおられる。主という最高の羊飼いは、私が迷い出たならば、何処までも探し出して見つけて、そして連れ戻してくださるお方。ゆえに私はこの羊飼いにまったき信頼を置いて歩むことができるのだと。あなたは誰に信頼を置いていますか。あなたの羊飼いである主に信頼して歩んでみてはいかがですか。主はあなたを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。
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by carbondalle1996 | 2013-12-31 06:16 | 日記 | Comments(0)

主はわたしの羊飼い

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”主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。”(詩篇23:1)

 この詩篇23篇でダビデは「主はわたしの牧者」と詠っています。新改訳聖書では、「主はわたしの羊飼い」と訳されています。ダビデが「主はわたしの羊飼い」と言うとき、それは私たちが同じ言葉を発する以上に深い意味が込められています。なぜならば、ダビデ自身がイスラエルの王となる以前に羊飼いとしてその職業にあったからです。私たちは21世紀に生きる者であり、日本という農耕民族の歴史がありますから、羊飼いという職業が実際どのような職業であるのかを知りません。

 私は鉄工所の息子として生まれて育ちましたから、鉄工業のいろはならばわかるつもりです。ものごころついた頃には、ペンキ塗りをしており、現場に連れて行かれて作業を手伝っておりました。鉄骨を切断し、溶接して加工するという作業をしておりました。また販売を通して鉄工業者仲間との関わりももちました。ですから私が鉄の加工について語るならば、みなさんが語る以上に説得力があると思います。

 同じようにダビデはものごころついた頃から羊飼いをしておりました。羊飼いの第一の仕事は、羊の群れを猛獣から守ることです。なぜならば羊は猛獣から身を守るための手段をもっていません。象のように大きな体もなく、サイのような頑丈な体もなく、鹿のような立派な角もなく、馬のような速い足もありません。ですから猛獣に襲われたら逃げるしかありませんが、逃げるといっても遅い足です。ですから羊が逃げてもすぐに猛獣に捕まって食べられてしまいます。そのため羊は全面的に羊飼いに頼るしかありません。羊飼いの声を聞いて、羊飼いに従い、羊飼いに自分自身を守ってもらうしかありません。

 このように羊飼いは猛獣から羊を守るという大きな使命があります。少年ダビデがゴリアテと戦うことをサウル王に進言したときにこう言いました。「獅子やクマが群れの羊を襲ったとき、私は猛獣の後を追って石で猛獣を撃ち倒し、その口から羊を取り返しました」と。今だったらライフルでしょうが、今から3千年ほど昔です。ダビデが持っていたのは、小さな石と石投器と呼ばれた紐でした。石投げ器でライオンやクマに立ち向かうのですから、ダビデがいかに勇敢な羊飼いであったかがわかります。私などはライフルを持つ手が震えてしまうと思います。イエス様は言いました。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と。ダビデは羊のために命を捨てて猛獣に向かって行き、その口から羊を取り返しました。それが良い羊飼いなのです。

 ダビデの「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」という告白には、神様がダビデという羊の羊飼いであるから、わたしの人生には乏しいことはなく、むしろ祝福に充たされていると告白しているのです。あなたの人生はいかがでしょうか。あなたの人生を導いてくださる方はおられますか?主があなたの羊飼いです。このお方に聴き従うならば、必ずあなたの人生は祝福で充たされます。
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by carbondalle1996 | 2013-12-30 05:57 | 日記 | Comments(0)

キリスト者として

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 今年もいろいろな事件がありましたが、安部首相の靖国神社参拝は私たち国民を驚かせました。キリスト者としてこの問題をどう考えたらよいだろうかと正直悩みました。もし彼がクリスチャンであったならば、真の神様を知っていたならば、「英霊に手を合わせなければならない」といった束縛から解放されたのではないでしょうか。 そのように考えていたときに、自分が実は上から目線であることに気づきました。

 安部首相は第1次安部内閣時代に靖国神社に参拝できなかったことを記者に聞かれ、「痛恨の極み」と心の内を吐露しました。私たちキリスト者には、参拝しないことがどうして「痛恨の極み」なのか理解に苦しむところです。しかし、「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」というイエス様のみ言葉に従うならば、その人が「痛恨の極み」であったという心の痛みを、自分の痛みとして理解しなければならないのだと思います。間違っているから批判するのではなく、理解できないから理解しないのではなく、その人の心の痛みを自分自身の痛みとして受け止め、理解し、涙したときに初めて、私たちキリスト者のメッセージが相手に届くのではないでしょうか。日本国のリーダーのために祈らなければなりません。どうぞお祈りください。

 今年も最後となりましたが、今年頂いた神様の恵みを1つ1つ数えて、祝福多き1年であったことを神様に感謝いたしましょう。S兄の恵みの証をご紹介します。
 
「自分が『守られている』、『支えられている』、『助けられている』、『導かれている』、『救われている』とハッと気づかされ、心の中で『主が共におられる』と実感できたとき喜びに変わります。それは自分の望みであった事が起こされたときだけでなく、それが自分の望みでなかった事が起こされたときでさえも、主はわたしの心を喜びに変えてくださいます。主はわたしに教え諭します、『上を見上げなさい、喜びはわたしの御手の中にあるのだ』と。」

 来年も神様の祝福が豊かに注がれますようにお祈り致します。           栄光在主
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by carbondalle1996 | 2013-12-29 10:28 | 日記 | Comments(0)

真実と和解委員会

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マンデラ大統領は、南アフリカの新しい建国の第一歩として驚くべき政策を発表しました。それは「真実と和解委員会」です。そしてカトリック教会の司教で、ノーベル平和賞受賞者のデズモンド・ツツ主教を、「真実と和解委員会」の委員長に指名したのです。普通は、今まで抑圧してきた者たちに報復する。厳罰を加える。それがよく行われる勝者が敗者を扱う手法です。マンデラは、そんな『復讐劇』を何とか和らげたいとその方法を模索した結果、この政策を採用したのです

 その政府委員会のルールは簡単でした。白人警官や軍の仕官が自発的に、自分を告発する者に面と向かい、自らが犯した罪を告白するのです。それで、完全に罪を認めた者は、裁判にかけられることもなく、その犯罪で罰せられることもないというルールです。強硬論者たちは、このやり方に文句を言いました。しかし、マンデラ大統領は主張しました。「この国は、【正義】よりも【癒し】を必要としているのだ」と。それから2年半にわたって、南アフリカ人は、この「真実と和解委員会」の聴聞で明らかにされる残虐行為の真相を知らされていくのです。

 ある聴聞会に、バンデ・ブロイクという警官が出席しました。彼は、他の警官たちと一緒に起こした事件について詳しく告白しました。彼らは18歳の少年を銃で撃ち、その遺体を燃やしたのです。証拠を消すために、少年の遺体をバーベキューの肉のように炎の上で転がしたというのです。更に、その8年後、バンデ・ブロイクは、その少年の家に戻り、今度は少年の父親を捕まえました。バンデ・ブロイクは、少年の父親を材木の山に載せて、その上にガソリンをかけました。それに火を放つ瞬間を、何と、その妻に無理矢理に見せたのです!とんでもない暴挙ですね。

 真実と和解委員会には、そのバンデ・ブロイク警官と、長男と夫を失った老婦人が呼ばれていました。そして、その老婦人に発言の機会が与えられました。すると、法廷はシーンと静まり返りました。判事が夫人に尋ねました。『バンデ・ブロイク被告にどうしてもらいたいですか?』 すると、老婦人は、こう答えました。『私は、バンデ・ブロイクさんに、夫の体を焼いた場所へ行って灰を集めていただきたいです。そうすれば、夫をきちんと埋葬してやることが出来ますから。』

 バンデ・ブロイク警官は頭を垂れて、うなずきました。それから彼女は、こうつけ加えました。『私はバンデ・ブロイクさんに、家族全員を奪われました。でも、私にはまだ愛がたくさん残っています。彼には、月に2回、私の住んでいるゲットーに来て、私と一日を過ごしてもらいたいのです。そうすれば、私は、ブロイクさんの母親のようになれますから。そして、バンデ・ブロイクさんが神に赦されていること、そして私も彼を赦していることを知ってほしいのです。ブロイクさんを抱き締めていいでしょうか。そうすれば、私の赦しが本物だということがわかるでしょうから。』 

 この老婦人が法廷の証人台に向かって歩き始めると、誰かが『アメイジング・グレイス』を歌い始めました。愛は赦すこと。私たちの神様は私たちの罪を赦すために御子イエス・キリストをこの地上に遣わし、私たちの罪の身代わりに十字架に架けられました。誰でもイエス・キリストを罪からの救い主と信じるならば、罪赦され神の子とされるのです。あなたもイエス・キリストを救い主として信じませんか。神は愛なり。
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by carbondalle1996 | 2013-12-28 07:00 | 日記 | Comments(0)

もし私が今もそう思っているならば・・・

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 1990年に、27年ぶりに、71歳で釈放されたマンデラ氏は、記者会見で白人に向けたメッセージを発しました。『白人も同じ南アフリカ人。この国の発展に尽くしてきた白人層の功績を、私たちは高く評価している。』この発言によって、報復におびえる白人社会もマンデラ氏は信用できると思うようになりました。

 マンデラ氏が釈放された時、新聞記者が「ひどい27年間でしたね。あなたは仕返ししますか?」と聞きました。そのとき彼はこう答えました。「もし、私が今もそう思っているならば、私は今も監獄の中にいるのです。」

 私たちが誰かを赦さないでいるとき、私たちの心は憎しみや恨みという監獄の中に自分の心を閉じ込めているのです。その監獄から自分の心を開放する唯一の道は、赦せないあなたの隣り人を赦すことです。赦すことは相手のためではなく、自分の心を解放するためなのです。ネルソン・マンデラ氏は、その平和革命の推進者として、1993年、ノーベル平和賞を授けられました。

 イエス・キリストは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と言いました。あなたの隣人とは決して親友や恋人ではありません。私たちがどんなことがあっても赦すことができない、憎くて、憎くて仕方が無い、そのような人です。イエス様はそのようなあなたの隣り人を愛しなさいと言いました。私たちが隣人を赦し、愛するとき天国の祝福は私たちのものとなるのです。あなたもこの祝福に預かる者となりますように。
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by carbondalle1996 | 2013-12-27 06:58 | 日記 | Comments(0)

不可能は可能に

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 南アフリカ共和国の元大統領、ネルソン・マンデラ氏が亡くなられました。その葬儀には世界中の国家元首が参列し、日本からは皇太子が参列しました。マンデラ氏は素晴らしいクリスチャン政治家でありました。南アフリカ共和国は、ごく最近までアパルトヘイトと言って、人種差別政策を採っていた国でした。少数の白人が、多数の黒人を徹底的に差別して、抑圧していた国です。

 その人種差別政策に反対して戦ったのが、黒人の弁護士、ネルソン・マンデラでした。そのために、彼は1962年に逮捕され、64年には国家反逆罪で終身刑を宣告され、27年間の監獄生活を送りました。その27年のうち、18年間をロベン島という島の独房で過ごしました。収監中、マンデラ氏は、しばしば石灰岩採掘場で労働を強制されました。マンデラ氏の目は、強烈な光と石灰岩の微粒子で弱り、一生回復することはありませんでした。

 マンデラ氏は当初、白人の政権を倒すためには、武装闘争も辞さない人でした。ところが、このロベン島の監獄で彼は変えられました。彼は聖書を読みました。そして監獄の中で白人の看守と交わるようになり、いつしか白人の看守との間に友情が生まれました。マンデラ氏は、この経験を通して黒人と白人は和解できる、共に手を携えて国を作り上げることができると確信しました。

 1994年、彼は、南アフリカ共和国大統領に選ばれたのです。マンデラ大統領は、その大統領就任式の演壇に、ある無名の人物を招きました。ある人物に、一緒に演壇に登ってほしいと頼んだのです。皆さん、その相手とは、何と刑務所の看守でした。しかも、白人です!刑務所の番人を大統領就任式に招待する大統領が今までいたでしょうか。しかし、マンデラ氏に、人種を超えて赦し合うことの大切さを確信させてくれたのは、刑務所の看守でした。彼こそは、大統領の恩人、親友であったのです。

 私たちはイエス・キリストを通して希望の光を見ます。決して不可能と思える現実であっても、キリストを通して見るならば、それは可能となり希望となり、夢となります。そして神様がくださった夢であるならば、それは実現します。ネルソン・マンデラ氏は神様の夢を実現した一人のクリスチャンでした。
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by carbondalle1996 | 2013-12-26 22:46 | 日記 | Comments(0)

愛は無条件

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御使たちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼たちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか」と、互に語り合った。そして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。(ルカ2章15)

神様の愛は私たち人の愛とは全く異なります。私たちが普段経験した愛はすべて条件付きの愛です。親は子供を自分の子供だから愛します。ある親は良いことをしたら愛し、悪い事をしたら愛さないという親もいるかもしれません。あれだけ仲の良かった兄弟が、遺産相続によって仲たがいするというケースもあります。友情はどうでしょうか。相手が自分と同じ価値観をもっているから、相手が自分を裏切らないから友情が続く。夫婦や恋人もどうでしょうか。昨日まで愛していると言っていた夫婦が、相手が自分を裏切ったとして離婚してしまいます。すべてこれは条件付きの愛です。

 しかし神様の愛は無条件の愛です。私が何か優秀だから、何か人よりも勝っているから、神様は私を愛しているのではありません。その逆です。私は何も人より勝っていません。それどころか神様を何度も裏切って、神様を悲しませ、神様なんて知らないと何度神様に背を向けて離れたかもしれません。しかし、そのような私を神様はいつも赦し、変わらない愛で私を愛してくださる。それが神様の愛です。

 イエス様は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」と言いました。あなたの隣人とは決して親友や恋人ではありません。私たちがどんなことがあっても赦すことができない、憎くて、憎くて仕方が無い、そのような人です。イエス様はそのようなあなたの隣り人を愛しなさいと言いました。

 あなたの中でこの人は赦せないという人はいますか。アガペーの愛とは赦せない人を赦すことです。私たちがどれだけ親から愛され、夫や妻から愛され、兄弟や友人から愛されたとしても、その愛では赦す力は生まれません。赦すという言葉は、本来どんなことがあっても赦すことができない相手を赦すという意味です。しかし、私たちが神様から愛されていることを心に受け止めるとき、私たちの中で神様の愛は他者を赦す愛へと変わり、私たちは人を赦すことができるのです。これが神様の愛です。
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by carbondalle1996 | 2013-12-25 06:42 | 日記 | Comments(0)

なお一つ足りない愛

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あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを見るであろう。それが、あなたがたに与えられるしるしである」。するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。(ルカ2章12~14節)

私は結婚式の司式をいたします。結婚式場には新郎・新婦とその家族、親戚、友人が二人の結婚の証人として参列します。私はいつも司式をしながらこう思います。結婚式は愛で満ち溢れている。新郎・新婦の両親、親戚、友人など、二人を愛し支えて来た人々がこの場にこんなに多く集まっている。ここは愛で満ちていると。
新郎・新婦のご両親を見て思います。親子の間に愛がある。バージンロードを緊張した顔で新婦と歩くお父さんの姿を見ると、花嫁がどれほどこのお父さんから愛されて育てられたのかと想像します。

 両親の隣りには新郎・新婦の兄弟姉妹が座ります。そこには兄として、姉として、弟、妹として兄弟愛を見ることができます。2列目3列目4列目は親族の席です。そこには新郎・新婦のおじさんやおばさんが座ります。きっと新郎新婦が生まれたときからずっと見守って来られたのだと思います。親族としての愛があります。

 5列目からは友人席となります。そこには新郎新婦の同級生や会社の同僚、先輩、上司などが座ります。この席に座る仲間達が結婚式を盛り上げてくださいます。司式中に大声をかけたり、笑わしたり、忙しい人々です。私は彼らを通して新郎新婦がどのような人であるかを想像します。そこには温かい友情があります。

 中にはヤクザではないかと思えるような恐い外見の方々もいます。新郎の上司かもしれません。そこには師弟愛を見ることができます。そして新郎新婦が司式の間中仲良く笑い合い、支え合っている姿を見て恋人同士の愛からこれから二人は夫婦という愛を育んでゆくのだと想像します。このように私たちの生きている世界は愛で満ちています。

 しかし、私たちは普段このように親子の愛、兄弟愛、友情、師弟愛、恋人同士の愛、夫婦の愛で溢れていても、尚ひとつ足りない愛があります。聖書はそれをアガペーの愛、神様の愛とおしえています。
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by carbondalle1996 | 2013-12-24 06:22 | 日記 | Comments(0)

アガペーの愛

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きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生れになった。このかたこそ主なるキリストである。(ルカ2章11節)

私の大好きな言葉に、「人は愛されることによって平安を得、愛することによって満足する」というものがあります。これは私の尊敬する牧師先生が教えてくださった言葉です。私たちの人生に愛はなくてはならぬものです。それではどうやってその愛を言葉や態度で表し、相手に伝えれば良いでしょうか。そのためにはまず私たち自身が愛を知り、愛を体験しなければなりません。聖書は神様について書かれた書物です。そして聖書は、神は愛なりと教えています。今日はみなさんに神様の愛についてお話したいと思います。

 クリスマスはイエス・キリストの誕生日です。キリスト教の言葉ではこれを降誕と言います。よくイエス様の誕生劇のことを降誕劇と言いますが、その意味は神様が人となって地上に降りて誕生したという意味です。それではどうして神様は人となってこの地に来られたのでしょうか。それは私たち人間を愛しているからです。神様が私たち一人一人を心から愛していると知ってほしくて、神様は一人子なるイエス様をこの地上に送られました。

 よく人は、「神がいるなら今すぐ見せてみろ。見たら信じてやる」と言います。そうです。人はその目で見ないと信じない者です。ですから神様は二千年前に人となって、この地上に降りて来られたのです。そして神様がどれほど私たち人間を愛しているかをイエス様はご自身の行動によって示しました。罵られても罵り返さず、ムチ打たれ、釘を打たれ、十字架に架けられても、人々を赦し、愛してくださいました。神様の愛は私たちの愛と全く質が違いました。それは無償の愛です。これをアガペーの愛と言います。
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by carbondalle1996 | 2013-12-23 12:35 | 日記 | Comments(0)

クリスマス礼拝

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          今日はクリスマス礼拝


          礼拝後は豪華な昼食パーティー


          今年もたくさんのお料理が並びました


          串カツ、ローストビーフ


          クロワッサンにハンバーグ

 
          タコのマリネや散らし寿司


          etc・・・・・

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          食後のデザートは


          フルーツいろいろや


          姉妹方お手製のケーキ


          ラフランスのパイや


          和菓子やチョコレート


          ここに書き込めないたくさんの


          料理とデザートがいっぱい並びました


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          そして今年の祝会では


          フルートの先生をしておられるSさんが


          妻のピアノに合わせて


          Oh Holy Night を奏でてくださいました



          とっても豪華なクリスマス礼拝&祝会となりました



          今年のクリスマス礼拝は


          雪も溶けて、みなさんの足も守られ


          
          すばらしいクリスマス礼拝となりました



          神様に感謝!



          


  
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by carbondalle1996 | 2013-12-22 14:07 | 日記 | Comments(0)