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5つのパンと2匹の魚

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赦しを与えることにさらに大きな喜びがある。

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 第二次大戦中にユダヤ人をかくまったとして、強制収用所に入れられた家族がいました。お父さんとお姉さんは収容所内で亡くなりましたが、一人だけ生きて収容所から帰ってきた女性がいました。その女性の名前をコーリー・テン・ブームと言います。彼女は戦後、自身の収容所での体験から神様の愛と赦しについてこう語っています。

 コーリーがある街で集会をもったとき、会衆の中に一人の女性が目に留まりました。彼女の顔を見てハッとしました。それは収容所時代に今にも死にそうな姉に残酷な仕打ちをした看護婦でした。彼女の顔を見たときに、コーリーの内側に憎しみの心が湧いてきました。自分には決してその看護婦を赦すことはできないと思ったそうです。しかしイエス様はコーリーにマタイ6章15節のみことばを与えました。
「しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」

 その看護婦を赦さなければならないことはわかっていたけれど、コーリーにはそれができませんでした。しかし家に帰ってから、コーリーは神様にお祈りしました。「主よ、私があの人を赦すことができないのをあなたはご存知です。彼女の残忍さのゆえに姉はどんなに苦しんだことでしょう。主よ、赦さなくてはならないことはわかっています。でも、できないのです。」すると主はローマ書5章5節のみことばをコーリーに与えてくださいました。「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」コーリーはこのみ言葉を感謝して受け取りました。そして祈り終わったとき、今まであれほど憎んでいたその女性を赦すことができたのです。

 この経験をコーリーは友人に話しました。するとその友人は「私、その看護婦知っている」と言いました。そしてコーリーはその友人の紹介で、今まで憎んでいたその女性をその夜の集会に誘うことができました。その夜、集会が終わってから、コーリーはその女性に正直に自分の思いを伝えました。今まで彼女を憎んでいたこと。しかし、内におられる聖霊なる神様が、憎しみの代わりに神様の愛を注いでくださったこと。そして彼女を愛するようになったこと。このことは十字架で私たちの罪を背負ってくださったイエス・キリストによること。彼女を集会に誘うことができたのは、イエス様が罪を赦してくださっただけではなく、コーリーの心を神様の愛で満たしてくださったからだということ。

 最後にその女性はイエス・キリストを主と告白して、救い主として信じる者となりました。コーリー・テン・ブームはこう言っています。「それは奇跡です。以前は彼女を憎んでいた私を、神様は、彼女をイエス・キリストに導くものとして用いてくださいました。敵を愛する時ほど、神の愛の大海に触れることはない。赦しを受けることは喜びである。けれども、赦しを与えることにさらに大きな喜びがある。」
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by carbondalle1996 | 2014-01-31 06:40 | 日記 | Comments(0)

日々自分に死ぬこと

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 私はアメリカ留学時代にバプテスト教会で洗礼式を致しました。バプテスト教会ですから浸礼式です。聖歌隊の讃美が終わり、牧師先生に名前を呼ばれて洗礼槽に入り頭まで浸かりました。それは古い自分が死んで新しい自分として生きるという意味です。だからと言って、もう完全に古い自分が死んだというほど信仰生活は簡単ではありません。死んだと思った自分が生きて、自分を支配することがあります。自己中心な自分が生き返って、神様が喜ぶことよりも自分が喜ぶことを選んでしまうという場合があります。そのたびに私は反省し、改めて自分自身に死ぬということを学ぶのです。

 大川先生は日々自分自身を十字架につけること。自分は死んだ、今生きているのはイエス・キリストにあって生かされているという経験が大切であり、それが聖化体験だと教えてくださいました。「自分は死んだ」と考えれば、他人からの誹謗・中傷など全然気にならなくなる。他者からの言葉に傷ついて怒ったり、恨んだりするということは、自己がまだ生きている証拠だと諭してくださいました。クリスチャンとしての信仰生活で大切なことは、日々、自分自身に死ぬという経験であると教えられました。

 先日、F姉が祈祷会で「ついつい夫と口論になると止まらなくて、何処までも責め続けてしまい、後になって失敗したと反省する」というお話がありました。それはどこの夫婦でもある出来事だとと思います。しかし、クリスチャンであるからこそ、後になって反省するのだと思います。反省もまた神様の恵みかもしれません。こうした経験を通して私たちは段々と夫婦喧嘩をしなくなり、職場や近所でもトラブルを起こさないようになるのではないでしょうか。

 あなたは自分自身に日々死んでいますか?あなたの自己中心はイエス・キリストの十字架によって滅ぼされました。今のあなたはキリストの復活の命によって生かされているのです。あなたは神様の栄光を現す器です。神様はあなたを愛しています。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2章20節)
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by carbondalle1996 | 2014-01-30 06:32 | 日記 | Comments(0)

ヨルダン川

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そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。(マタイ3章13節)

神様はイスラエルの民がエジプトへ帰ろうと言ってモーセに詰め寄ったときに、会見の幕屋に現れてこう言いました。「わたしの声に聴き従わなかった人々は、私が与えると約束した地に入ることはできない。」こうしてイスラエルの民は40年間を荒野で過ごしました。それはあのときエジプトへ帰ろうと叫んだ人々がみな死んで、次の世代が台頭するための40年でした。そして前の世代がみな死んで、全てが新しい世代に代わったときに初めて神様はカナンの地に進めと言いました。この中に唯一、前の世代が二人いました。それが斥候だったヨシュアとカレブです。彼らはその告白によって、カナンの地に入る特権に預かりました。

 このカナンの地に入るために渡らなければならなかった川。それがヨルダン川でした。先ほどヨルダン川は葬りと新生を意味すると言いました。もうおわかりかと思いますが、ヨルダン川は古い世代、古い自己が葬り去られる場所です。それと同時に新しく生まれる場所でもあります。イスラエルの民は新しい民の世代となり、ヨルダン川を渡ることが許されました。

 これが、イエス様がガリラヤからヨルダンへ出て来られた意味です。イエス様は古い自己中心を葬る必要も、新しく新生する必要もありません。しかし、洗礼を受けられたのは全ての良いことを成就するためであり、それは私たちへの模範を示す意味がありました。するとイエス様が出てこられたガリラヤこそ、私たちのかつての地、神のいない、希望のない暗闇の地ガリラヤだと言えます。私たちはその場から出て来て、ヨルダン川に出てきました。ヨルダン川で私たちの古い自己は葬り去られ、キリストの新しい命に生きる者とされました。これがガリラヤでありヨルダン川です。

 あなたは新しいキリストという王様を迎えたいと願いますか。そのためにはあなたもガリラヤから出て、ヨルダン川に来なければなりません。そこであなたの古い自己中心は葬られ、あなたは新しいキリストの命で生きる者となります。
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by carbondalle1996 | 2014-01-29 05:56 | 日記 | Comments(0)

12人の斥候

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 それではヨルダン川とはどのような地でしょうか。そこは葬りの場所であり、新生の場所でした。出エジプト記によると、エジプトを出たイスラエルの民はシナイの荒野を旅しました。そしてカナンの地、今のイスラエルへ侵攻しようとして12人の斥候を派遣しました。帰ってきた斥候の中でヨシュアとカレブは、「そこは乳と蜜の流れる地です。その地に住む人々は大きく、強く、町々は堅固です。しかし、すぐに上って行ってこれを攻め取りましょう。私たちは必ず勝ちます」と報告しました。

 しかし残りの10人は、これと反対の報告をしました。「あの地に住んでいる人々は巨人のように大きく、私たちは彼らに比べればいなごのように小さい。ゆえに私たちはカナンの地を攻めてもこれを奪うことができない」。民はこの報告を聞いて声を上げて泣いて叫び、エジプトへ帰ろうと言ってモーセに詰め寄りました。

 12人の斥候は同じものを見ました。大きなアナクの人々は強い巨人に見え、彼等の住んでいた町々は堅固な城のように見えました。10人はこれを見て「ダメだ」と思い、エジプトへ帰ろうと言い始めました。ヨシュアとカレブは同じ光景を視て、敵は強く町は堅固だが、私たちは勝てるから攻め上ろうと主張しました。ヨシュアとカレブの主張の根拠は神様でした。神様が私たちと共におられるから、私たちは勝利することができると考えました。

 私たちの人生においても巨人が私たちの前を塞いでしまっていると思える時があります。そのときあなたの内なる声はこう言うかもしれません。「ダメだ。絶対に無理だ。引き返そう。元の場所へ帰ろう。」その一方でこういう声も聞くでしょう。「大丈夫だ。必ず勝利する。神様が共におられるから大丈夫だ。」あなたはどちらの声に聴き従うでしょうか。もしあなたが信仰によって神様にのみより頼み進むなら必ず勝利します。主の声に聴き従う人生は必ず勝利します。
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by carbondalle1996 | 2014-01-28 06:38 | 日記 | Comments(0)

ガリラヤからヨルダンへ

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そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、バプテスマを受けようとされた。(マタイ3章13節)

 バプテスマのヨハネがヨルダン川で悔い改めのバプテスマを人々に与えているという噂がイスラエル中に広まり、イスラエルの国中から人々がヨルダン川に集まり、ヨハネからバプテスマを受けました。悔い改めとは180度方向を転換するという意味があり、自分中心という方向から神様中心という方向へ転換します。そして罪を告白するという告白の意味は、神様が視ているように自分も見るという意味です。

 さてそのようにバプテスマのヨハネに向かって来る群衆の中にイエス様の姿がありました。イエス様は何処から来たのでしょうか。ガリラヤから出てこられ、ヨルダン川へ来られたとあります。それではガリラヤとはどのような地でしょうか。ガリラヤとは苦しみと辱めの地の代名詞です。イザヤ書9章にガリラヤについての預言があります。

“しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。”(イザヤ書9章1節)

 イエス様は王の都エルサレムから出てきたのではありません。アブラハムが居を構えたヘブロンから出てきたのでもありません。ダビデの家ベツレヘムから出てきたのでもありません。そしてナザレから出たとも書かれていません。イエス様はガリラヤから出たとあります。苦しみの地、辱めの地、全く光を失った地ガリラヤ。イエス様はそのような地から出て来られたのです。

 あなたは今、辱められていますか。苦しみの只中におられますか?希望という光を失った状態におられますか。イエス様はそのようなあなたの今ある地から光となって出て来られました。このお方こそ私たちの光です。あなたもイエス様を迎えてください。あなたの人生は希望へと変えられます。
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by carbondalle1996 | 2014-01-27 06:44 | 日記 | Comments(0)

おもてなしはしつけから

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 私は小さいときから落語が大好きで、特に、古今亭志ん生さんが好きでした。今の落語では、柳家小三治という人の芸は名人級だと思っています。その小三治師匠が「ま・く・ら」(講談社)という本を出しています。その中にまさにこれぞ≪おもてなし≫という話を披露しています。小三治師匠が日本航空のスーパーシートというのに乗ったそうです。お昼時だったので、幕の内弁当が出ました。それをぜんぶ食べ終わってから、ふっと気がついてみたら、お醤油がついていました。あのビニールの小さな入れ物に入った醤油です。ふたを開けてその醤油をなめてみると、悪い味ではなかった。隣の人も、醤油に手つけずに残している。

 小三治さんの言葉です。『それください』って言いたかったんですけど、それを言う勇気がありませんでした。すると、片づけて持ってかれちゃうんです。捨てられちゃうんだろうな、あれ、もったいねえな、って思いました。それからあたしのを片づけに来たスチュワーデスさんに、『ちょっと、ちょっと』って、耳に口を近づけて、『アノー、こういうお醤油は、使わない人多いようですね、悪いですけど、もったいないから、集めてきてもらえません?』そうしたらね、こっちを決してはずかしめない、救いの言葉がありました。『外国旅行なさるんですか?』って、こう言うんですよ。こっちの自尊心をスッと上げといて、そいでホッとさせてくれる。さすがだな、って思いました。」

 そうしたら、その女性は、いそいそと小さなビニール袋に六つの醤油を詰めて持ってきてくれたそうです。彼の言葉です。「そういう心遣いがほんとに嬉しかったです。」ところが、その女性が、師匠の前にしゃがみ込んで、こう小声で言ったんですって。「師匠、私、郡山先生に、お習字を習ったのです。」何と、その先生というのは小三治師匠のお父さんだったのです。師匠のお父さんは自宅で書道塾を開いて習字を教えていたそうです。お父さんは、塾に来る子どもたちに、フスマを開けて、両手でちゃんと手をついて、「先生、どうぞ教えていただきとうございます」とあいさつをするようにしつけたのです。中には、言えなくて泣き出す子どもがいる。すると、「言えなければ帰んなさい。お母さんを連れてきなさい」と言いました。その日航のスチュアデスさんも、そのしつけの中で育ったお子さんだったのです。

 この話を読んで、「おもてなし」には普段の「しつけ」が必要だと気がつきました。箴言にも、こんな御言葉があります。「子どもらよ,今私の言うことを聞け、わたしの道を守る者はさいわいである。教訓を聞いて、知恵を得よ。」(箴言8:32~33) ハレルヤ!

 横浜カルバリーチャペル週報コラム「ぶどうの木」より。
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by carbondalle1996 | 2014-01-26 15:58 | 日記 | Comments(0)

聖霊のバプテスマ

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わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。(マタイ3章11節)

 バプテスマのヨハネは旧約聖書最後の預言者であり、祭司でした。祭司の使命は罪人と神様との間に立ち、罪人を神様の前に導き、罪人をとりなすこと。バプテスマのヨハネはそのために人々に悔い改めのバプテスマを施しました。これは新しい王様を心に迎え入れるために、今まで自分を支配していた自分自身という王様に死んで頂く儀式です。水に浸かると人は息ができずに死んでしまいます。そのように自己に死んでいただき、今までの自己中心という方向から神様の方向へ180度変わるという意味をもちます。これが水のバプテスマの意味です。

 しかし、イエス様のくださるバプテスマは聖霊と火によるバプテスマです。これはペンテコステの日に成就しました。イエス・キリストを告白する者はみな聖霊を持っています。古い自分という王が死に、イエス・キリストという王様を迎えるとき、私たちは聖霊をいただきます。チョー・ヨンギ先生はクリスチャン生活の秘訣は、日々聖霊に充たされ続けることだと教えています。ともすると私たちは古い自分という王様が頭をもたげて自分を支配しようとします。それでは神の王国の支配にありません。日々、神の王国の支配に自分を置くことは、聖霊に充たされ続けることです。それは聖霊様の内なる声に聴き続けることです。そして天国へ行くその日まで、イエス様に従う人生でありたいと思います。
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by carbondalle1996 | 2014-01-25 07:48 | 日記 | Comments(0)

悔い改めの実

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だから、悔改めにふさわしい実を結べ。自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。(マタイ3章8~10節)

 ヨハネは悔い改めにふさわしい実を結ぶことを命じました。パリサイ人やサドカイ人の内心は、自分達に悔い改めが必要だとは考えていませんでした。なぜならば自分達はアブラハムの子孫だからです。アバラハムの子孫はその血統のゆえに裁かれることなく神の王国に入れると考えられていました。しかし、バプテスマのヨハネはここで衝撃的な言葉を彼らに向けました。それは「神はこの石ころからでもアブラハムの子を起すことができる」というものでした。

 このバプテスマのヨハネの言葉がイエス・キリストの十字架によって成就しました。救いから遠い存在であり、救いに関しては石ころに過ぎなかった私たち異邦人がキリストの十字架の贖いによって、イエス・キリストを信じることによってみなアブラハムの子とされたのです

 それではヨハネが言った悔い改めにふさわしい実を結ぶとは、どのような実なのでしょうか。それは決して善行を積み上げるような修行ではありません。イエス様言いました。「わたしはぶどうの木。あなたがたは枝です。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人につながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」とおっしゃいました。私たちができることはキリストのという幹につながり続けることです。 

 キリストに繋がるとはどういうことでしょうか。それは礼拝や祈祷会に出ることです。聖書を毎日読むこと。毎日祈ること。そうして私たちは霊的にイエス様と繋がることができます。よくクリスチャンの方で、「私は礼拝に出れませんが、神様に繋がっています」という方がいますが、それは間違いだと思います。なぜならば、キリストにある豊かな実を結んでいないからです。

 キリストに繋がっていれば、その人の生活が変わります。笑顔でいつも全てのことを感謝します。不平不満は口から出ず、いつも神様を褒め称える言葉が口から出ます。そのような人を神様はもっと祝福したいと考え、人々を送ったり、新しい門が開かれたり祝福で満たし続けます。
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by carbondalle1996 | 2014-01-24 05:24 | 日記 | Comments(0)

神様が視ているように見る

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ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。(マタイ3章7節)

 パリサイ人もサドカイ人もイスラエルを宗教面でリードしていた人々です。パリサイ人は、ヘブル語でペルシームと言って分離を意味します。英語で言う“Separate”です。彼らは生活の優れた聖さ、神に対する信仰深さ、聖書の知識を誇りとしていました。そのため熱心だった彼らは、自分たちこそ選ばれた民とし、律法に熱心でない人々を蔑んでいました。そのため人々は彼らを、「分離主義者・ペルシームだ」と呼びました。これがパリサイ人です。サドカイ人は祭司階級のエリートで、復活もみ使いも霊も信じない人々でした。

 こうした宗教指導者たちもまたバプテスマのヨハネの下に洗礼を受けにやってきました。しかしヨハネは彼らに対して優しく「ようこそおいでくださいました」などとは言いませんでした。ヨハネは彼等のことを「まむしの子らよ」と呼びました。どういうことでしょうか。それは彼等の動機が神を畏れる心から起こったものではなく、群集がヨハネを預言者と認めているので、その民衆運動によって自分たちの地位が脅かされることを恐れての行為だったからでした。

 自分の罪を告白するとは、洗礼を受けていた方が群集の受けが良いとか、今の自分にとって都合が良いとかそういうものではありません。告白するとは本来、「神様が視ているように自分も見る」という意味です。神様がそれを罪として視るならば、自分もまた罪として見ます。神様が善として視るならば、自分もまた善として見なければなりません。それが告白です。

 あなたは自分の罪を告白しましたか。それは単なる口から罪を言うという行為ではなく、神様が視ているように自分も視るという霊的な行為です。自分の視点が神様の視点といかに違っていたか。そこに悔い改めというものが生じるのです。この朝、あなたの罪を告白し、神様が視ているようにあなたの周りを視てください。そこにあなたが愛を示す人々がいます。「あなたの隣人を愛せよ」と主は今日もあなたに語られます。
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by carbondalle1996 | 2014-01-23 04:16 | 日記 | Comments(0)

砂鉄が磁石に吸い付けられるように

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すると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。(マタイ3章5節)

 ここでバプテスマについて少し説明致します。全身を水に浸すというバプテスマはヨハネの登場以前の紀元前2~3世紀から、イスラエルの宗教行為として成立していました。例えば、正統派のユダヤ教徒が律法を書き写すという仕事に取り掛かる前に、まず自分の体を水に浸してきよめたりしました。また不敬虔な生き方から真実な礼拝者となるためにユダヤ人は自発的に全身を水できよめるという行為を行ないました。しかし、これらはみなユダヤ人の自発的意思によってなされた行為であり、ユダヤ人が神の国に入るために強制されるものではありませんでした。

 当時、神の国に入るために洗礼を受けなければならないとされていたのは、異邦人でした。ユダヤ人以外の異邦人がユダヤ教に改宗する際に、こうした洗礼を行なわなければならないとされていました。異邦人はそのままでは天国に入れませんから、こうした清めの儀式が必要でした。しかしユダヤ人は、アブラハムの子孫であるという理由で神の国に入れると考えられていたので、こうした洗礼を強要されることはありませんでした。このようにユダヤ人以外の異邦人が天国に入るために、バプテスマは必要不可欠な行為だったのです。

 ここでバプテスマのヨハネが「悔い改めよ、天国は近づいた」というメッセージを語ったときに驚くべきことが起こりました。本来洗礼を必要としないユダヤ人たちがユダヤ全土とヨルダン川付近からぞくぞくとヨハネのもとへ来て洗礼を求めました。まるで砂鉄が磁石に吸い寄せられるように、ユダヤ全土からユダヤ人がヨハネの下に集まってきました。当時の時代背景の中で群集がメシヤを求めたいたこともあるかと思います。また長く預言者が起こされなかったことから、バプテスマのヨハネを預言者として信じて群衆が集まってきたとも考えられます。まだヨハネがメシヤなのか、預言者なのかわからなかったと思いますが、どちらにしても人々は霊的な人物を心から求めていたことがわかります。

 あなたは霊的な渇きを感じていますか。あなたの渇きを充たすためにあなたは何処へ出て行こうとしていますか?あなたの渇きを充たすことができるのは、唯一イエス・キリストだけです。今日、イエス様のもとへ出ましょう。イエス様があなたの心の渇きを充たしてくださいます。
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by carbondalle1996 | 2014-01-22 06:06 | 日記 | Comments(0)