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5つのパンと2匹の魚

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忠やんと7人の生徒

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しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。(Ⅰコリント1章30節)

 昭和の初期、現在の和歌山県みなべ町に、枡崎外彦という牧師がいました。そして、「労祷学園」という塾を開いて、才能ある青年たちに勉強と聖書を教えていました。

 あるとき、枡崎牧師は山本忠一という少年を引き取ります。この少年は、孤児で親戚に引き取られていたのですが、幼い頃に脳膜炎を患って知的障害者となっていたため、手がかかるということで、捨てられて乞食をしていたのです。幼い頃脳膜炎をわずらった孤児でした。大食いと寝小便のゆえに、親類も愛想をつかし、捨てられて乞食をしていたのを、升崎牧師が世話をすることにしたのでした。連れ帰ったその夜から、升崎牧師は少年を自分の寝床に寝かせたのですが、朝になるとこの少年は大きな地図を布団いっぱいに描いていました。

 この知恵遅れの少年、何の取柄もないと思われている「忠ヤン」にも人に真似のできない、ハエをとるという一つの特技がありました。ハエと見るや、知恵遅れ者特有の落ち着かない目が俄然輝きだして、ハエを見つめながら左手左足で調子をとって右手の指先でパッと打ちました。それは百発百中、神技ともいうべきものでした。

 忠一少年(枡崎牧師は、彼を「忠ヤン」と呼んでいました)が来たことで、町の人たちは労祷学園のことを「アホ学園」と揶揄し、門にそのように落書きする人も現れました。そこで、すでに塾で学んでいた7人の青年たちは、「忠ヤンを追い出して欲しい。さもなくば我々が出て行く」と枡崎牧師に詰め寄ります。枡崎牧師は悩みましたが、結局「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか」(ルカ15:4)とおっしゃったイエスさまに倣うことを選びました。その結果、7人は学園を去り、忠ヤンだけが残りました。

 ところが、しばらくして忠ヤンも学園から姿を消してしまいます。外出したままいつになっても帰ってこないのです。障がい故の放浪癖のためにどんどん歩いて行くうちに、帰り道が分からなくなってしまったのだと考えられました。枡崎牧師はあちこち捜し回りましたが、とうとう忠ヤンは戻ってきませんでした。

 忠ヤンがいなくなってしまってから数年後のこと、彼が機帆船に拾われて働いていることを升崎牧師は風の便りで知りました。ところが、昭和14年のある日のこと、一人の紳士が突然升崎牧師を訪ねて来て、言いました。「あなたは何年か前に山本忠一という子供をお世話くださった升崎先生ではありませんか?」「おお、あなたは忠ヤンの消息をご存知ですか?」「実はその忠ヤンが立派な働きをして死にました。これが忠ヤンの形見です。」

 その紳士はそう言って船の舵輪(だりん)を差し出しました。彼は忠ヤンの乗っていた機帆船の船長でした。彼は次のように語りました。「ある日、機帆船幸十丸は、荷物を満載して紀州尾鷲港を出ました。出帆後間もなく海がしけ出し、新宮沖にさしかかった時はどうしても思う方向に船を進めることができず、ついに暗礁に船底をぶっつけてしまいました。破れた船底から水が激しく浸水して、いくら排水してもどうにもなりませんでした。

 もうこれまで、と一同観念したとき、船底から『親方!親方!船を!船を!』と手を振りながら大声で叫んでいる者がいました。見ると、アホ忠でした。不思議にも水はあれから少しも増していませんでした。船員たちが再び必死になって水をかき出したところ、忠ヤンは船底の穴に自分の太ももをグッと突っ込み、必死にもがきつつ『船を、船を、早く早く陸に上げよ!』と狂おしく叫んでいました。それで船員たちはしゃにむに、船を進めて陸に近づけ、九死に一生を得ましたが、忠一はかわいそうに右大腿部をもぎ取られ、出血多量で上陸するまでに息を引き取ってしまいました。」

 船の乗組員たちは皆、非常に感動して、全員イエス・キリストを信じたということです。この少年は、いつも一つ覚えのように、「人がその友のために自分の命を捨てるという、これよりもおおきな愛は誰も持っていません」という先の御言葉を言っていたそうです。文字通り彼は、それを実行したわけです。

 知的な障がいのために、勉強を教えるのには苦労しましたが、それでも枡崎牧師は忠ヤンに勉強と聖書を教え続けました。自分のために命を捨ててくださったイエスさまの愛、そして犠牲を払って自分を引き取り、世話してくれた枡崎牧師の愛。それが忠ヤンの心にもしっかりと引き継がれていたのでしょう。
 
しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。(Ⅰコリント1章27節)
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by carbondalle1996 | 2014-02-28 06:31 | 日記 | Comments(0)

秋田朝祷会

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それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。(Ⅰコリント12章22節)

          今日は秋田朝祷会が祈祷会合流というかたちで

          カルバリー祈りの家を会場として行なわれました。

          講師は象潟キリスト教会の佐藤先生。

          第一コリント人への手紙より弱いと思える者ほど

          教会にとって大切な存在であることを学びました

          自分にとって弱い器官はどこだろうか

          ある方は「それは心です」と答えられました。

          真実な答えだと思います。

          教会はキリストの体であり、私たち一人一人は

          無くてはならない尊い存在です

          そのことを改めて学ばせて頂いた集会となりました

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          朝祷会後は楽しいお食事の時間を持ちました

          ホテルのフルコースのような食事に

          参加者の話も盛り上がり

          みんなで最後は祈ることができました

          教団・教派を超えて祈り合うクリスチャンの姿に

          胸が熱くなりました。
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by carbondalle1996 | 2014-02-27 20:07 | 日記 | Comments(0)

主の真実

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また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。(Ⅰコリント1章28節)

 私の神学校の2つ先輩に大阪教会のS牧師がいます。S牧師は大阪市西成区にあります主にホームレスの人々に伝道してる有名な教会です。私は神学生時代にこの教会を見学に行きました。入った途端に悪臭が漂い、とてもそこで礼拝を捧げる気分にはなれませんでした。夕方の礼拝に参加し、礼拝が終わるとホームレスの人々に食事を与える奉仕をしました。私は考えました。自分がこの教会に遣わされたら、3日ともたないのではないだろうか。

 そのような教会にS先生は遣えていました。先生の私の感想を伝えると、先生自身もそのように感じて今までに3回教会から逃げ出したそうです。その度に教会に連れ戻されて、「お前はこの人たちを見捨てるのか。教会の人々を見捨てるのか」と言われたそうです。その度に、悔い改めて教会に戻り奉仕を捧げたそうです。

 S先生が40歳を過ぎて独身だったのですが、急に結婚の話が届きました。相手は私の神学校の同級生で、神学校の送辞を勤めた若いA姉です。才色兼備で信仰の篤い女性が、S先生の妻となり、今は子供も二人与えられて大阪教会で牧会をしています。神様はへりくだる者を高く引き上げ、高い者を低く致します。S先生の働きを視るとき、主はまさに真実であると思います。ハレルヤ!主の聖名を讃美します。
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by carbondalle1996 | 2014-02-26 06:17 | 日記 | Comments(0)

弱さの中に主は働かれる

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しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。(Ⅰコリント1章27節)

 神学校時代に私の隣りにHさんという50歳過ぎの男性がいました。この方は目が弱視で文字は顔をつけて見るという身体障害者でした。奥様は40歳過ぎの方で毎月、交代交代で夫婦で神学校に通っていました。この奥様が30歳のとき見合い結婚を勧められた相手がHさんでした。Hさんは40歳過ぎ。彼女はクリスチャンでしたから、こう言いました。「あなたがイエス様を信じてクリスチャンになるならば結婚してもいいです」と。Hさんは身体障害者で、いままで何度も見合い結婚しては断られていましたから、この女性と結婚できなかったら一生結婚できないと思ったそうです。それでクリスチャンになりますといって結婚しました。

 Hさんは市役所に勤める真面目なクリスチャンとなり、今度は夫婦で教会を持つというビジョンが与えられて献身しました。神学校を卒業したHさん夫妻は家のガレージを改築して家族で教会をスタートしました。子供たちが6人おりまして、いつも子供たちがお友達を教会に連れて来て、そして子供たちがピアノを弾いてワーシップして、お父さんお母さんを助けて教会の奉仕をしました。こうして昨年、家のガレージからビルのテナントに引っ越して献堂の祝福に預かりました。5年前に市役所を定年退職したH先生は、そのとき私に手紙をくださり、これからは伝道に専念できますと抱負を語ってくださいました。

 H先生もまた世の中から見れば、弱視という身体障害者、結婚も40歳を過ぎてされ、子供も40代後半から与えられたという弱い器です。しかしそのような弱い器を主が選んで栄光の器として用いてくださっております。こうした主のみわざを見させていただくとき、主は真実なお方であると告白せざるをえません。

 あなたは自分は強いと思っていますか?それとも弱いと思っていますか?あなたのまわりの人々はあなたを強い人だと思っているでしょうか?それとも弱い人だと見ているでしょうか?あなたが強いと考えるなら悔い改めましょう。主は傲慢なままではあなたを用いることはできません。もし弱いと認めるならば、どうぞあなたの弱さを誇りましょう。神様はあなたの弱さの中に働いてくださるから。ハレルヤ!主の聖名を讃美します。
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by carbondalle1996 | 2014-02-25 06:37 | 日記 | Comments(0)

主はへりくだる者に恵みを注がれる

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兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。(Ⅰコリント1章26節)

 「何があっても動じない強さ、義理と人情の人、気さくな上司、わが道を行く、俺は無敵だという感じ。」

 これは私がリバイバル神学校を卒業した時に、その卒業文集に書かれた同期や後輩からの私を紹介するメッセージです。私は同級生や後輩たちから動じない強さがあるとか、上司、わが道を行くタイプ、俺は無敵だといったようなイメージを持たれていたことを知り、今でも恥ずかしく思います。しかし、神学校時代を思い返すと、そのように思われても仕方が無い部分がたくさんありました。我が強くよく神学生時代も仲間と争いも起こしておりました。神学校を卒業して今年で10年が経ちますが、私は自分自身と同級生たちのこの10年の歩みを比べたときに、今日読みましたコリント人への手紙が真実だと思い、改めて神様の真実さに心が迫る思いです。
 
 私はどこかで自分の人間的な強さを誇っていた者でした。自分はカルバリーチャペルで指導を受けて、奉仕もして、朝から晩まで教会スタッフとして忙しく働いて、神学生として訓練を受けている。神学生としてこんなに訓練された神学生はいないのではないかと思えるほど自信がありました。ところがリバイバル神学校に通っている同級生たちはそのような訓練は普段受けておらず、普段は会社で働いている者がほとんどでした。ですから週に一度、教会で祈祷会と礼拝を守り、日曜学校の奉仕をするのが精一杯な人々でした。

 私と同じ歳でKさんという女性がいました。あるとき私が彼女に「卒業したらどうするの?」と聴きました。彼女は信徒に戻って教会の奉仕をするといいました。「伝道者にならないの?」と聞くと、「説教もしたことがないし、説教の勉強もしたことがないし、無理無理」と言っていました。そのような彼女が神学校を卒業して、熊本の母教会に戻り、伝道師として教会を助けなさいという命を受けまいした。母教会は引退した女性牧師が奉仕をしており、彼女はその後継者となりました。神学校の先生方は反対しました。あんな田舎でしっかりとした訓練も受けてない雅子が、教会で牧会なんてできるはずがない。しかし、本人はそれが神のみこころと信じて熊本に帰りました。

 彼女がリバイバル神学校で学んだことは1つだけでした。それはとりなしの祈りです。彼女はこの1つを持って熊本に帰りました。彼女は牧会とか説教ができませんから、いつも教会の近くの神社に行っては、「この地域を支配している悪霊よ出て行け。イエス様、この町を祝福してください」と祈ったそうです。地域の霊的地図を作り、何処に何神社があり、そのご神体は何で、それが縛っている闇の力が何でというように調べていつも悪霊追い出しの祈りをしました。当然、地元の神社の神主さんやお寺のお坊さんから目をつけられて、いつも追い払われたそうです。母教会の女性牧師もKさんがいつもとりなしの祈りと言って、神社で祈っているのを快く思っていませんでした。当然、非難されましたが、Kさんはとりなしの祈りをやめませんでした。

 しかし、そのような祈りを続けている中で、一人また一人と人々が教会を訪れるようになり、死にたいと自殺願望の者が救われたりと奇跡が起こったそうです。そしてそのような彼女の働きを支えたいという男性が与えられ、結婚し、子供も与えられたということです。私たちは彼女が熊本に帰って伝道すると聞いたとき、無理だと思いました。神学校の先生方も「止めておけ」と言いましたが、それは間違いでした。神様はそのような弱い器を通して神様の栄光を現してくださいました。主の御名は褒むべきかな。ハレルヤ!
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by carbondalle1996 | 2014-02-24 06:41 | 日記 | Comments(0)

後悔せえへん

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先週は横浜教会より柴田先生をお招きし恵まれた時間を過ごすことができました。羽生選手の軸のブレない4回転ジャンプから、クリスチャンも神様という軸が大事。神様軸さえブレなければ、信仰生活の多少のブレは問題なし。方位磁石のブレが大きくても最後は必ず北を指すように、クリスチャンの信仰生活もブレは次第に小さくなり、最後はイエス・キリストを指すから大丈夫。先週はそんな柴田先生のメッセージに、「こんな私でもいいんだ」と「ホッ」としました。

 礼拝後に柴田先生は伊藤兄の病床を訪ね、油を注ぎ、癒しの祈りをしてくださいました。そして先日、検査の結果、悪性の白血球はゼロとなり、12000以上あった白血球の数が通常値である4500ほどに減少しているとのことでした。驚くべき検査結果にお医者さんは信じられず、21日に再検査しました。神様の癒しを信じて祈ってきた私たちにとって、この奇跡は祈りの応答であると信じます。どうぞ引き続き伊藤兄の癒しのためにお祈りをお願い致します。
 
 NHKの朝ドラ「ごちそうさん」を観ました。出征する青年の子供を産みたいという娘とそれを叱る父親との会話です。

父:「おまえは一人で子供を育てられるのか?」
娘:「子供は親の見えない力で育つ。うちもそうするつもりや。」
父:「後悔はしないな。」
娘:「自分で決めたことや。後悔はせえへん。」

 「子供は親の見えない力で育つ」というセリフに「ハッ」とさせられました。確かに赤ん坊の間は全てを親に助けてもらわなければ生きて行けませんが、成長し子供となると自分の力で生きようとします。イエス様は神の国についてその譬えの中でこう話しました。「夜昼、寝起きしている間に、種は芽を出して育って行くが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。」

また「なおりたいのか」と問われた主は相手の告白を促します。告白するとは自分自身の決断を意味します。誰かに言わされるのではありません。主は私たちの自由意志を尊重されるお方です。イエス様に従うことを決心した29歳の春、「自分で決めたことや、後悔はせえへん」という思いで私も告白したことを思い出しました。ハレルヤ!
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by carbondalle1996 | 2014-02-23 21:28 | 日記 | Comments(0)

イエス様についてゆきます

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"すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った。"(ヨハネ5章9節)

 キリストの言葉を聴き、これに信頼し、これに掛けて、自分の足で立ち上がり歩き出した。これが救い。 これが彼の決断。 これが彼の意思。このような救い、この歩みは、例えこの人生、どんな穴が開いても、泥塗られても、かき回されても、その道のゴールである天まで、この足で立、この足で歩ける。

 月曜日に一人の教会員の葬儀がありました。一人暮らしのY姉74歳。その一週間前の月曜に召された。礼拝後に笑顔でお茶をいつも入れてくださる姉妹。「先生、私はもう先生にどこまでもついて行く事にしたので、よろしくお願いします。」 ジーンと来て感動してた。Y姉の心の信頼の重さに「はい…」と笑顔で応えるのが一杯。何もしてあげられなかった。もっと時間を取って、話しして、優しくしてあげれば。。。

 葬儀の写真、昨年の誕生日に教会で二人で撮ったツーショット写真。葬儀屋さんが、この写真が一番いいので、使わせてください。告別式の写真。本当は、その横に私がいる。この半身が裂かれた様な気が。自分は牧師として足りない、愛がたりない。「Yさん、何もできなくて、本当に…ごめんね」って

 人生、短い。 チャンスはそんなにないはず。あなたの人生は大丈夫?」貴方はこの人生誰について、そしてこの人生終えてどこへ行こうとしているのか?「先生。私は、何があっても、先生にどこまでもついて行くことにしました。」 あなたもそう言えますか。

 「イエス様、私も、例えこの人生、どんな穴が開き、泥塗られ、かき回されても、私はどこまでも、この足で、貴方について行くことにしました。」とYさんの様な満面の笑みで。ハレルヤ!


 今週の「5つのパンと2匹の魚」は16日の特別礼拝、横浜カルバリーチャペルの柴田牧師のメッセージより引用致しました。
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by carbondalle1996 | 2014-02-22 09:01 | 日記 | Comments(0)

立ちて歩め

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 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。(ヨハネ5章8節)

 「そうか、そうか、それはかわいそうだ。では、私がしてあげよう。」と同情して、助けてくれると思っていた。 イエス様もう少し私の気持ちわかってくれても・・・。「自分で起き、自分の床を上げ、自分で歩きなさい」 何となくイエス様は冷たい? それは、癒しも救いも罪の赦しも、自分で立ちあがると決断し、覚悟し努力しなければ、本当に立って、歩く事ができないという事。

イエス様が来られても、いつも人のせいや、過去のせい、周りのせいにし、人の同情を乞い、自己憐憫に浸っていては、誰も、この現実の中を、歩いて行く事ができません。だから主は 「貴方はよくなりたいのか?」 「それとも今のままでいいのか?」と問われたのです。

 救いも同じです。神は、救いの99%を十字架で備えられました。しかし99%では人は、罪赦される事も、救われる事も、命に与る事もできない。残りの1%は、神にも、誰かほかの人がする事もできない、貴方しか、貴方自らが、自分の意思でそれを選ばない限り、そして、神でも人でもなく貴方の足で自ら立て歩む決断と覚悟がなければ、決してキリストの前に立ち、この現実の中を、倒れず滅びずに歩いて行く事はできないから。

 イエス様はその人に向かって「立ちて歩め」と命じられました。 この人は38年間も、それができなかった。
しかし、そんな彼が、自らの意思で、自ら立ち、自ら歩く、覚悟を持って、神の言葉を選んだ時、彼は立ち上がって歩むことができたのです。ハレルヤ!


 今週の「5つのパンと2匹の魚」は16日の特別礼拝、横浜カルバリーチャペルの柴田牧師のメッセージより引用致しました。
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by carbondalle1996 | 2014-02-21 09:19 | 日記 | Comments(0)

神様が掻き回される時

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彼は、キリストに「治りたいのか?」と聞かれて、何と答えたか?

この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。(ヨハネ5章7節)

 自分の意思があるのか?ないのか?癒されたいのか?今のままでいいのか?ただ、他人のせいにして言い訳をしている。彼は、癒されて自分の足で立ち、自分の足で歩くより、ただ、過去を恨み、人のせいにして生きる方が、今のままの方が楽であった。決断して覚悟して立ち上がる事、即ち、変わる事を選ぶのは、簡単ではありません。でも、私達は、だからと言って、今までのままでいいのでしょうか?

 スヌーピー もこう言っています。「昨日、僕は犬だった。今日僕は犬である。明日もきっと僕は犬であろう。
でも僕は本当にこれでいいんだろうか?」教会の犬ドルチェに聞いてもいいかと思います。「お前はそのままでいいのか?」 ドルチェは何と答えるでしょうか。実はそのままでいることが、昨日も今日も明日も変わらずにそのまま横たわっているのが一番簡単なのです。

 I兄も病気との闘いで、長く苦しい治療に耐えている。変わろうとすれば、癒され様とすれば、立ち上がろうとすれば、そこには痛みと戦いが待っている。癒され、立ち上がり、歩きだしたら、もう誰かのせいにする事も、自己憐憫に浸る事もできない。自分で、仕事を探し、学校に生き、生活を立てなければならない。ただ、引きこもっている事はできなくなります。

 キリストに出会い、癒されて終わりではない。この「ベテスダ」を去るなら、彼を厳しい現実が待っている。その現実を歩むには、単なるキリストとの出会いや癒しだけではなく、彼の、彼自身の、癒された者として、この足で立ち、この足で歩むという強い意志が必要だから。彼自身が、癒しを、救いを、覚悟して自らの意思で選ぶ必要があった。

 ひとつ、不思議な事が書いてある。そこには御使いが降りて来て静かな池の水をかき回す 「水がかき回されると」誰かが癒されるという。私達は、人にかき回されるのがきらい。「先生、これ以上、私の家庭を、夫婦関係をかき回せないでほしい!」池の水も、普段は穏やかで綺麗に見えるが、かき回すと底に貯まった泥が、全体を真っ黒にする。

 しかし、人ではなく、時々、神が、御使いが、池の水をかき回すと言う。私達は、時々、神によってかき回される事が必要な存在。神が、その水を底から、汚いもの、見られたくないもの、触られたくないものをぐわっとかき回して下さって初めて奇跡が、癒しが、救いが起こるのではないか?聖書には、キリストに癒される時、目に泥塗られ、即ち顔に泥塗られ、目が見る様になった人や家の屋根に穴開けて、キリストに近づき癒された人がある。

 渡辺和子シスターの著書 「置かれた場所で咲きなさい」と「面倒だから、しなさい」があります。NHK「こころの時代」 「人生には穴が開く事がある・・・」 渡辺シスターは、226事件、彼女が10歳の時、陸軍大将の父が、自宅の部屋で襲われ、目の前で機関銃掃射で、肉片が壁一面に飛び散ったと彼女が証言しています。こんな大きな穴はないはず、これほど人生ズダズダに切り裂かれた人などない。

 しかし、「人生には穴が開いてしまう事があるが、その穴を通して、穴が開いたからこそ、今まで見えなかったものが見るようになる。 昼間、深い井戸の底にある水には星が写っている。昼間肉眼では決して見えないはずのものが、そんな暗く深い穴の中から見える。

 だから、かき回されても恐れる事はありません。その深く暗い穴からしか見えない神の愛と恵みに出会うからです。ハレルヤ!


今週の「5つのパンと2匹の魚」は16日の特別礼拝、横浜カルバリーチャペルの柴田牧師のメッセージより引用致しました。
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by carbondalle1996 | 2014-02-20 23:59 | 日記 | Comments(0)

なおりたいのか?

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さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。(ヨハネ5章5~6節)

 この時イエス様はおよそ31~32歳。この人は、イエス様がお生まれになる前からずっと病んでいて、ここで自分の番を待っていました。6節で「イエスは彼を見られた」とあります。 「見た」とは原典のギリシア語ではeidon という語。これは「出会う」、「知る」、「感じる」、「経験する」、「身に受け止める」という意味です。神様があなたを見られるとは、そういう意味でもあります。その長い痛みと苦しみを主はその身に感じ、体も、心も痛んで立つ事できない彼の所に来られた。 「祭り」の最中。 多くの人・お祝い・大騒ぎ!そんな中で、キリストは誰も行かない様な人の所に行かれた。 忘れられ更に苦しむ人達の所へ。

 NHK福祉ネットワークという番組で、現在日本には「引きこもり」が 163万人。自殺者毎年3万人以上いるそうです。政府も、テレビも アベノミクスだ、オリンピックだと、この国には、まるで問題がないかの様に放送されています。この国には「ベテスダの池」がないかの様にふるまっています。どうしていいかわからないから。しかし実際、私達の周りには、多くの「ベテスダの池」があり、多くの忘れられた人々がいます。「祭り」の華やかさ とベテスダの池 。 対照的な社会の縮図がここにあります。「祭り」に来られたはずのキリストは、祭りではなく、誰も行かない「ベテスダの池」に行かれました。

 6節でイエス様は 「なおりたいのか」 その人に言葉を掛けました。これは不思議な質問です。彼は、治りたいからそこに来ていたはず。 なのになぜ?この「なおりたいのか?」というキリストの言葉には、彼の覚悟を、彼の決断を、彼の強い意志を 問う神の問いかけ。単なるフィーリングや感情、一時的な癒し・解決だけでは、その場限りであって、彼の生涯を力強く変えて行く力となはならない。

 勿論、神はどんな人をも救う事ができます。しかし、救われたいと思わない人、救われたくない人を救う事は、神にもできない。神はどんな病をも癒す事ができる。でも癒されたくない人を癒す事は神にもできない。いいえ、神はあえて癒さないのです。神はどんな罪をも赦し、魂を解き放つ事ができる。しかし、罪赦されたくない人を、即ち、私には罪がないと言い張る人を、赦す事は、神にもできない。だだから、キリストは彼の意思と決断と覚悟を尋ねて 「なおりたいのか?」 と聞かれたのです。

 イエス様は、聖書の中で幾た度も 「私に何をしてほしいのか?」 と聞かれた。そして、「貴方の信仰のとおり、貴方の信じた通りに、貴方の身になるように」 と言われた。大切なことは神様の問いかけに対して、意思をもって口で告白すること。「癒されたいです」、「なおりたいです」、「赦されたいです」。あなたの告白を神様は待っておられるのです。


 今週の「5つのパンと2匹の魚」は16日の特別礼拝、横浜カルバリーチャペルの柴田牧師のメッセージより引用致しました。
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by carbondalle1996 | 2014-02-19 11:22 | 日記 | Comments(0)