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5つのパンと2匹の魚

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地の塩

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あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味が取りもどされようか。もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。(マタイ5章13節) 

 塩の働きで有名なものは腐敗を防止する働きと清めるという働きがあります。ガリラヤ湖で捕れた魚はそのままでは運べません。塩漬けにして腐敗を防止して運んだそうです。5000人の人々の食事を満たした5つのパンと2匹の魚は、ガリラヤ湖で取れた魚の塩漬けだったろうと言われています。現代のように冷蔵庫や冷凍庫がない時代ですから、取った魚の腐敗を防止するということで塩は大変重要な役割でした。

 また塩のもう一つ大きな役割は清めです。これは私たち日本人には分かりやすいと思います。大相撲は鶴龍が優勝しましたが、相撲で力士が塩を土俵に撒きますが、あれは土俵を清める意味があります。古くは邪気を清めるという意味があるそうです。列王記にはエリシャが水の源へ塩を投げ入れて水を清めたという記事もあります。このように塩には清めるという役割があります。

 また塩は食材としても無くてはならぬ存在です。塩を舐めると辛い味がします。ここからイエス様が言われた「あなたがたは、地の塩である」という言葉から、私たちキリスト者は世の腐敗を防ぎ、この地を清める塩であると解釈されます。しかし、塩が塩として辛い味をもっていなければ、世の腐敗を防ぐこともこの地を清めることもできません。そのような塩ならばもう塩ではなく、外に捨てられてしまいます。

 あなたはイエス様によって地の塩とされた存在です。あなたの塩味はいかがでしょうか?ピリッと辛い塩味は効いているでしょうか?それとも見かけは塩だけれども、味は砂糖のように甘いですか?大丈夫。イエス様はそんなあなたを地の塩だと言われました。今週は地の塩、世の光について学びます。


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 祈りの家特製ちらし寿司


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 W姉からのプレゼントの特製シュークリーム。

 マリアはこれを見て思わず「Happy Birthday to You」を歌い出しました。
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by carbondalle1996 | 2014-03-31 06:41 | 日記 | Comments(0)

善い事に関心を持たせ続ける

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 娘のマリアが決まって観るDVDがあります。それはウォルト・ディズニーの白雪姫。サムエルは小人達が歌うシーンが大好きで歌が始まるとテレビの前で踊り出します。二人とも飽きないのかと思うほど、繰り返し白雪姫の映画を観て楽しんでいます。話の内容をどの程度理解しているのか私にはわかりませんが、白雪姫を楽しそうにそして真剣な眼差しで見ている二人の姿に親として嬉しくなります。

 ウォルト・ディズニーは、この世には光と闇があり、善は悪に必ず勝利するのだということを子供たちに教えなければならないと考えていました。しかしその方法は、説教ではなく、善い事に関心を持たせ続けることだと考えました。ディズニーアニメのテーマは神と人への愛です。このテーマを子供たちに持続して関心を抱かせるために、ディズニーのアニメーションは作られました。そしてディズニーのアニメは子供だけではなく、大人にも益となる物語と歌を伝えるようになっているそうです。

 またディズニーのアニメーションには、聖書的なメッセージが込められていると言われています。白雪姫をそそのかしてリンゴを食べさせる魔女は、エデンの園で人を誘惑するサタンを表します。魔女は石を落として小人たちを殺そうとしますが、天の雷に打たれた魔女は崖下に落とされ、小人たちに落そうとした石は魔女自身の上に落ちます。これはエステル記のハマンとモルデカイの記事を思い出させます。また眠るような死を迎えた白雪姫を甦らせる王子様は、イエス・キリストです。これは教会を花嫁、救い主イエス・キリストを花婿に喩える聖書の教えに通じています。

 新聞で小さい頃に本を読んで育てられた子供の正当率が高いという記事を読みました。しかしいくら算数・国語の正当率が高くても、善と悪を判断する正当率が低くては仕方ありません。善悪の唯一の判断基準は聖書にあります。そういった面で、ディズニーのアニメーションから流れ出る聖書的なメッセージを、我が家の子供たちがどれだけ受け止めてくれるか楽しみです。ウォルト・ディズニーがアニメの中に込めたメッセージを子供たちすべてに受け止めてほしいものです。

“心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。また自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。”
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by carbondalle1996 | 2014-03-30 23:30 | 日記 | Comments(0)

プロバンス地方の奇跡

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 20年経ち、その若者は40代になった。再びプロバンス地方に行った彼は、そこでの光景に思わず目を見張った。谷間全体が、様々な種類の木が繁る美しい森で覆われていたのだった。もちろんまだ若木で、6、7メートルしかなかったが、木には違いなかった。その谷全体に生命がみなぎっていた。青々とした草、潅木、そして動物達もいた。土地は潤い、農夫達も畑で働いていた。「あの羊飼いはどうなったんだろう。」と、彼は思った。驚いたことに、羊飼いはまだ生きていた! 相変わらず、あの小さな小屋で、毎晩、木の実をより分けていたのだった。

 プロバンス地方を再び訪問したあの男性は、その変わりようにたいそう驚いたそうだ。美しい木が生えていただけではなく、農業も復興し、野生動物が住み、地面も美しい緑におおわれていた。小さな農場では作物が豊かに育ち、村はまた活気を取り戻したようだった。すっかり荒れ果て、見捨てられていた20年前とは大違いだった。こうして活気を取り戻したのも、一人の人の先見の明と、来る日も来る日も、何年にも渡って自分にできる事を行なうというたゆまぬ努力、忍耐、犠牲、忠実さのおかげだった。

 それだけではない。あの若者は羊飼いに、「自分が何かためになることをしたのかどうかを、生きて目にすることもないではありませんか?」と言ったが、羊飼いは、89才になるまで生きた。だから自分の植えた木の実がすっかり成長して美しい森となり、その地方全体が完全に変わるのを見る事ができたのだった。神は羊飼いを祝福され、羊飼いが生きながらえてその努力の報いを見られるようにされたのだ。彼は神が自分を通してなされた偉業を目にしたのである!

「私達は善を行なうことに、うみ疲れてはならない。たゆまないでいると、時が来れば刈り取るようになる。」(ガラテヤ6:9)

 イエス・キリストは2000年前にこの地上に来られ、一粒の種となって植えられました。地球という罪が支配した荒地に神の愛という種が植えられました。今ではそれが世界中に広がり森となりました。私たちが今住んでいる秋田市もなかなか愛の種が育たない荒地のように思えます。しかし、この羊飼いのように荒地が森となるというビジョンを心に描いて福音の種を蒔き続けましょう。
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by carbondalle1996 | 2014-03-29 14:48 | 日記 | Comments(0)

木を植えているんだよ

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 1913年、 フランス南部のプロバンス地方で「ウォーキング・ツアー」 に出かけた20歳くらいの若者がいた。「ウォーキング・ツアー」とは、バックパックと寝袋を携帯して、人の少ない森などをハイキングすることである。おもに裏道や山道を通り、簡素なキャンプ場、農家などに泊めてもらう。

 当時のプロバンス地方はひどい田舎で、農作物の育たない荒れ地だった。森林伐採や、集約農業のやりすぎで、ほとんど木のない不毛の地と化したからだ。そして土を保っておく木がないために、土壌は雨に流されていた。というわけで、若者が旅していたこの土地は非常にやせていて、農業もほとんど行なわれていなかった。村は活気がなく、すたれ、大部分の村人は村を捨て、他の土地へと引っ越していた。野生動物さえ姿を消してしまっていた。動物にも住むために安全な場所、安心できる繁みなどが必要だが、木がなければ、雑草や低木も育たず、生きていくために必要な食べ物もなかったからだ。水も必要だが、その地域には木がなく、土地は水分を保つことができないので、ほんの僅かな流れしかなかった。

 ある夜、この若者は羊飼いの小屋に泊めてもらった。その羊飼いは白髪まじりで50代半ばだったが、なかなか壮健だった。親切な羊飼いは、若者を暖かくもてなし、若者は何日かそこに泊まらせてもらった。夜になると、羊飼いは、ランプの光をたよりに何時間もかけて、木の実をより分けていたので、若者は好奇心をそそられた。カシ、ハシバミ、クリなどの実を、テーブルの上で非常に慎重かつ真剣に選り分け、質の良くないものは捨てていった。ついにその夜の仕事が終わると、羊飼いは選んだ木の実をナップサックに入れたのだった。

 次の日、羊の群れを連れて外に出た羊飼いは、行く先々で昨夜の木の実を植えていくのだった。羊が草を食べている間、羊飼いはその辺りをまっすぐ歩いていった。何歩か歩いては、杖で地面をぐっと押して、深さ数センチの穴をあけた。それから木の実をその穴に落として足で土をかぶせるのだ。羊飼いはまた何歩か歩くと、乾いた地に杖で穴をあけ、木の実を落とした。こうして羊飼いは日中ずっと、羊に草を食べさせながら、プロバンス地方を何キロも歩き回った。毎日違う場所に行き、殆ど木がない場所に、木の実を植えていったのだった。

 不思議に思った若者は、羊飼に尋ねた。「一体何をしているんですか?」「木を植えているんだよ。」若者は思わずこう言った。「でも、どうしてですか? この実が育って木になり、あなたがそこから利益を得るのは、まだ遠い先の話ですよ! 木が大きくなるまで、生きていないかもしれないし!」「その通り。だが、いつか木は大きくなって誰かの役に立ち、この地域が前のような美しい所になる助けになるだろう。わしはそれを見ることができんかもしれんが、わしの子供達が見ることだろう。」

 若者は、実際にその成果を見たり、利益を得たりすることはないかもしれないのに、これからの世代のために住み良い土地を作ろうとする、その長期的な展望と無私の姿に感動しました。

 あなたは自分が見える時代だけを見ていますか?それとも見えない次の世代のために種を植えていますか?荒野と思える地において福音の種を蒔き続けるならば、主は必ずあなたの時代に目にすることができなくても、次の時代にすばらしいことをなさってくださると信じます。ハレルヤ!
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by carbondalle1996 | 2014-03-28 06:27 | 日記 | Comments(0)

神との和解

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 どうやって私たちは自分自身の中にある争いを終えて、平和を作ることができるのでしょうか。それは何行苦行を積み上げて行く結果として与えられるものではありません。また善行とう行為によって到達できる資格でもありません。また聖書をたくさん読んで、研究して解決するものではありません。原因は私たちの中にある罪なのですから、この原因を解決する以外に問題の解決はありません。それではどうやって私たちは罪という問題を解決できるのでしょうか。それは神様にしかできないことです。ヨブ記22章にこうあります。

あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。(ヨブ記22章21節)

 問題の原因は私たちの罪にあります。それは神様に背を向けて、神様に逆らって生きる自己中心にあると聖書はおしえています。ですから神様と和解することが、問題の解決の第一歩です。神様と和解する唯一の方法はイエス・キリストです。救い主イエス・キリストを私の救い主として心に迎え入れるときに私たちは神様と和解します。聖書は、イエス・キリストは平和の君、Prince of Peaceと呼ばれるとあるからです。

しかし、クリスチャンであっても自分の中に争いを見出します。ですからイエス様を受け入れて神様と和解したから、今日から私は平和を作る人になった。もう自分自身の中に矛盾は無いということではありません。問題の根本を解決したという事です。そして私たちが本当の意味でPeace Maker平和を作り出す人へと成長するためには、聖霊様の働きが必要です。ガラテヤ書5章に御霊の実は愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制とあります。

 ですから平和もまた御霊の実なのです。私たちが神様と和解し、キリストという木に留まり続けるならば、聖霊という樹液が枝である私たちに流れ、私たちは平和という実を結ぶ者とされるのです。ですからそれは決して私たちの努力で得られるものでも、人格形成の上に作られるものではないのです。これは神様の賜物であり、神様からの無償のプレゼントです。

 私たちを成長させてくださるの神様です。決して私たちの努力や能力によって得られるものではありません。私たちが主に繋がり続ける中で、御霊の実が豊かに実ります。主はあなたを平和を作り出す者とされるのです。
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by carbondalle1996 | 2014-03-27 10:20 | 日記 | Comments(0)

Prince of Peace

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 このように私たちの中には良いことをしたいという思いと同時に、それを反対して行くという思いがあります。つまり私たちの中に相対する思いがいつもあるのです。聖書が愛しなさいと教えるように自分も他者を愛したいと願うが、ある特定の人物になると憎しみがそれを壊してしまう。赦したいと願うが過去の苦い経験がこうした思いを覆してしまう。私たちはそのような矛盾を抱えた者でございます。パウロは私たちが抱えているこの矛盾に苦しみました。ローマ人への手紙7章はこの自己矛盾に悩んだパウロの告白です。

わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。 もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。(ローマ7:15~17)

 ここでパウロが告白しているように私たちは真正面から真剣に自分自身と向き合うならば、自分の中には善を行ないたいと願っていながら、悪を行なっているという自分を発見するのです。それを聖書は罪だと断罪しています。

 ですから私たちが平和を願い、平和を作り出したいと思うならば、私たち自身の中にまず平和を作り出さなければなりません。自分の内側にいつも争いを抱えておきながら、いくら平和そうな顔で振舞っても、他者との人間関係において平和を創ることはできません。イエス様がおっしゃった平和を作る人とは、自分の中に平和を作り出す人です。そのような人が他者との間においても平和を作り出すPeace Makerとなるのです。

 あなたは自分の中に平和がありますか?もし争いがあることを認めるならば、平和の君と呼ばれるイエス・キリストを求め、このお方を心にお迎えいたしましょう。主が私たちの心の争いを閉じ、平和をもたらしてくださいます。
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by carbondalle1996 | 2014-03-26 06:28 | 日記 | Comments(0)

自分の中の争い

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 平和について辞書で調べてみますと、平和とは戦争や争いが無く穏やかな状態である事とありました。そこでまず平和について考える前に、私たち自身の中にこの平和があるでしょうか。すると私たちの内なる心は他者との平和、争いがなく穏やかな関係を求めている一方で、それを否定する思いもまた起こってきてしまうという事実を見ます。私たちの心は一方で平和を願いながら、もう一方で平和を壊してしまう自分があることを認めます。

 聖書が教えるように人々を愛したい、赦したいと願いますが、しかしいざ隣人となると愛せない自分がいえ、赦せない自分がいます。心の奥底に沈めていた苦い記憶がよみがえり、どうしても隣人を愛することも、赦すこともできなくなってしまう。そのような経験を誰もがみなもっていると思います。このように私たちは平和を願う一方で、自分自身の中に平和を壊してしまう自分があることに気がつくのです。

 つまり平和を壊す原因は私たちの外にあるのではなく、私たちの内にあるのです。常に私自身の中には聖書のみことば、神様のみことばに従おうという思いと、それを邪魔しようという思いが起こり対立します。何も事が起こらなければそれは特に目立つことはありませんが、何か事が起こるときにそれはまるで火山が噴火するかのように起こってまいります。

 このような矛盾を抱えた人間が集まって、平和を作り出そうと一所懸命に平和運動を行なってもうまくゆくはずがありません。熱心に行動を起せば起こすほどに人間同士がぶつかりあって、争いや分裂が起こってしまう現実を見ます。神様は私たちがもつこの問題を解決するためにイエス・キリストを地上に送られました。
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by carbondalle1996 | 2014-03-25 06:37 | 日記 | Comments(0)

平和をつくり出す人

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平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。(マタイ5章9節)

 イエス様は平和を愛する人は幸いと言ったのではありません。また平和を守る人は幸いと言ったのでもありません。イエス様はガリラヤ湖の湖畔で「平和を作り出す人はさいわいである」とおっしゃいました。イエス様が言われた「平和を作り出す人」とは、どのような人なのでしょうか。

 世の中にはたくさんの平和というスローガンや文字があります。昔は新党平和という党もありました。私たちが今まで見てきた平和運動とはどのような運動でしょうか。人々が集まって、人と人との関係において、そこに協調がなされ、和合がなされ平和が作り出されているように思えます。それを願って、あるいは議論したり、研究したり、運動したりする。そこで平和というものが作り出されていくように考えられます。

 ですからその方向が少しでもずれたり、その考え方にずれが生じると平和のために運動し研究しあう人たちの間で対立が起こります。そこでは平和どころか争いが起こってしまいます。こういった出来事を私たちはテレビや新聞で見ただけではなく、私たち自身も似たような経験を持っているかと思います。それは社会だけではなく、キリストの教会と呼ばれるものの中においてすら激しい対立が起こり、互いに主張しあい、果ては分裂、そういったことが起こっています。そのような平和と、ここでイエス様が言われている平和とは根本的に違うのではないでしょうか。
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by carbondalle1996 | 2014-03-24 06:22 | 日記 | Comments(0)

Peace Maker

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平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。(マタイ5章9節)

 今ほど平和という言葉が叫ばれていない時代もないのではないでしょうか。ロシア軍によりウクライナのクリミア自治共和国編入のニュースを見るたびに、平和という言葉と現実との差を感じてしまうのではないでしょうか。現在の日中関係も一触即発の危機にある今、イエス様が「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」と語られた言葉が胸に迫ってくるようです。

 それでは平和とはいったい何でしょうか。辞書で調べると、「戦争や争いがなく、穏やかな状態」とありました。まさしくこれは私たち日本人が考える平和です。しかし、平和の定義も国によって違うようです。今回のウクライナでの紛争が証明しているように、戦争によって国境線が幾度となく変わり続けた歴史をもつヨーロッパは、平和とは戦争と戦争の間の期間であると定義しているそうです。私たち日本人は外国に国土を占領されたという歴史があまり無いため、こうした平和の定義に馴染めませんが、これもまた事実です。

 イエス様は2000年前にガリラヤ湖畔の丘の上から、群集に向かってこのメッセージをしました。私たち日本人は総中産階級と言われ、その日の食料や医療費に困るという者ではありません。しかし、イエス様の下に集まって来た群衆は、その日一日を生きるのが精一杯。家もない。薬を買うお金も無い。健康な体も無い。そのよに絶望の只中にある人々がイエス様の下に集まりました。

 そのような彼らに向かってイエス様は、「あなたがた平和を作り出す人々は幸いです。あなたがたは神の子と呼ばれるからです」とおっしゃいました。しかし、どう考えてもそこに集まってきた群衆は、平和を作り出す人とは対極にある人々です。貧しさのために日々ケンカが絶えず、社会のルールや道徳も倫理も破って当たり前の生活を送っていた人々です。

 そのような争いばかりを起こしてしまう群集に向かって、イエス様は「あなたがたは平和を作り出す人」Peace Maker と呼ばれたのです。これはどういう意味でしょうか?イエス様は彼らに向かってお世辞を述べたのでしょうか。いいえ、違います。この日、イエス様の下に集ったこの群衆こそ、平和を作り出すPeace Maker だったからです。
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by carbondalle1996 | 2014-03-23 22:59 | 日記 | Comments(0)

天国を受け継ぐ者

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 三浦綾子さんが和歌山の升崎外彦先生を訪問されました。その升崎先生は、小さな博物館を持っておられたそうです。升崎先生は、その博物館でいちばん素晴らしいものを見せてあげましょうと言って、見せてくれたのが、アメリカ人の宣教師「ミス・デントン」の靴下でした。その靴下は継いではいで、厚くなって、生地が見えないぐらいに糸で刺してありました。

 これを、なぜ升崎先生の博物館に飾ってあるかと申しますと、ミス・デントンが亡くなったという電話がきたときに、いちばん先に先生が駆けつけた訳です。そしたら、そこにいた人が、「先生、どうかお好きなものを形見に持っていらしてください」と、言いました。いちばん先にいらしたんですから、いちばんお気に召したものを持っていってくださいとおっしゃった訳です。先生はすかさず、ミス・デントンの靴下をくださいとおっしゃった。先生は、ミス・デントンのいつも継いではいでいた靴下を知っていたからです。                                                                         
 ちらっと穴があいたら、その靴下は、大抵の人はもう履きません。伝線がスッと入ったら、もうそれは恥ずかしくて履いていけないというのが、私たちの情けない気持ちです。ですから、ミス・デントンのような靴下を履いて一町歩いておいでと言われたら、「死んでもそんな真似はできない」と言うだろうと思います。

 しかし、ミス・デントンは、これを苦痛としてではなく喜んで履いていました。これは、靴下に代表される彼女の姿であって、ミス・デントンは、着ていらっしやるものも継いでいたそうです。お家の中も粗末であったでしょう。ご自分のためには、おそらく、食べるものもそのような状態だったと思います。切り詰めるだけ切り詰めて、日本の女子学生のために学資を出していた。

”柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。”(マタイ5章5節)

 ミス・デントンはまさしく柔和な人でした。彼女の柔和さとは、穏やかさや人間関係における柔らかさではなく、どこまでも神様だけに寄り頼み、神様を信頼し、イエス・キリストを待ち望むという土台に立った「柔和」さです。聖書は御霊の実は、「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」とあります。キリストを土台とする人生によって私たちは聖霊の実を結ぶものとなります。結ばせてくださるのは神様です。あなたもキリストに留まり、柔和という実を結ぶ人生を送りませんか。そして天国を受け継ぐ者となりましょう。
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by carbondalle1996 | 2014-03-22 06:33 | 日記 | Comments(0)