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5つのパンと2匹の魚

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主は観ておられます

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  隠れた事を見ておられるあなたの父が報いてくださる。私はこの御言葉が大好きですが、それは別に自分が隠れて良い行いをして、いつも見てくださっているからという意味ではありません。逆に自分が辛い出来事に出会ったとき、理不尽だと思うことをされたとき。しかし、神様はすべてを知っておられると思うと、自分でどこか納得するようになりました。しかし、以前はそうではありませんでした。神様が見ておられても、神様が知っておられたとしても、どうしても納得できない。これは間違いだと主張した自分がありました。するとどうでしょうか。時間が経ち、怒りが収まった後で振り返ってみると、自分の正しさが通ったかというと通りません。問題によって傷だけが残ってしまうとい結果を見ました。

 イエス様は言いました。「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」神様は私に報いてくださらなかったのです。なぜでしょうか。私はその問題を神様の手に委ねることをしないで、自分で解決しようとしたからです。それも自分の正義を押し通すという間違った方法でした。ですから私は聖書が教えるとおり、自分が蒔いた種を自分で刈り取るという失敗を犯したのです。

 父なる神様は隠れたことを見ておられます。誰が間違っており、誰が正しいか。そして私たちの心の中も見ておられます。もし私たちが自分では正しいと思っても、神様の目から見たら間違っているということもあります。すると神様は私たちにその間違いを気づかせてくださいます。感謝です。相手が間違っていると神様が視られるならば、神様は全能なる方ですから、相手に働いてくださり悔い改めへと導いてくださるのです。

 この真理を知り、経験し、心に受け入れてから私はもうあらゆる問題に対して思い煩うことが無くなりました。すべては神様がご存知です。それでいいではないか。主がご存知だから。するとどうでしょうか。私の口から不平不満は出なくなりました。大丈夫という言葉がでます。神様が全て見ておられるのですから。神様が見ておられるという真理は、私に平安を与えてくださいました。

 あなたは問題に出会うとき、相手を非難する言葉が口から出ることがありませんか?問題は主に委ねませんか?主はすべてをご存知です。あなたが正しいならば、あなたに報いてくださるでしょう。しかし、もしあなたが間違っているならば、主はあなたにそのことを気づかせてくださり、悔い改めへと導いてくださいます。だから思い煩うことをやめましょう。主は観ておられます。
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by carbondalle1996 | 2014-04-30 05:52 | 日記 | Comments(0)

ラッパのシーズン

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だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。(マタイ6章2~4節)

 イエス様はここで施しをするのに自分の前でラッパを吹き鳴らすなと戒めています。これを少し説明しますと、昔ユダヤでは毎年ユダヤ暦の7月に畑の収穫が完了しました。すると村々、町々で施しの祭りが行われました。そのため毎年7月になりますと、街の至る所でラッパが吹き鳴らされ、喜ばしい施しのシーズンが到来したことを告げました。

 神様は愛なる方であり、憐れみ深いお方です。神様は貧しい人々働き手を失ったやもめなどの生活を人々が社会全体で施しという善をもって養うことを律法で規定しました。エステル記に出てくる落ち穂拾いという習慣は、貧しい人々が畑で落ち穂を拾えるようにわざと落ち穂を落としておくというものでした。どこか日本人がもっている相互助け合い、和をもって尊しとなすという文化に似ているものがあります。

 また7年ごとに1年間は畑作業を中止して、自然に芽生えて取れる作物が、国中の貧しい人々の食料として開放され、雇われていた労働者は解放されました。このときもラッパが吹き鳴らされました。さらに7年を7倍した49年の次の年、つまり50年目は「ヨベルの年」と呼ばれ、労働者が借金の担保として取られていた畑は、この年のラッパの合図によってみな借りていた労働者に返すという決まりとなっていました。こうしてラッパを吹き鳴らすことによって、ユダヤ人は施しのシーズンの到来を告げ知らせたのです。このように、毎年7月のラッパ、7年目毎のラッパ、そして50年目と施しのラッパは鳴らされました。

 イエス様はこうした施しは生活に困っている人々を助けるためであって、決してあなたがたがそうした行為によって人々から賞賛を受けるためではない。それは自分でラッパを吹き鳴らす行為だと戒められたのです。だから施しという善行を行なうときには、隠れて行ないなさいと言いました。「隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」この4節の言葉は、施し、祈り、断食という3つの文章の最後にそれぞれ出てくる言葉です。施しという善も、祈りという善も、そして断食という善行もすべて人に見せるためのものではない。逆に人々に隠れてしなさい。人々の目には隠されていても、隠れたことを見ておられる父なる神様がちゃんと見ておられるからです。
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by carbondalle1996 | 2014-04-29 06:34 | 日記 | Comments(0)

自分の義を

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自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。(マタイ6章1節)

 マタイ福音書6章1節が続く18節までの要約となる文章です。私たちは正しい行為を普通にしていれば良いのですが、ついそれでは満足せず、人に自分がこんな良いことをしているのだと知ってもらおうと考えます。そして他人からの賞賛を得ると、今度は正しい行為の目的が本来の目的から外れて、自分が賞賛されることを目的とした行為に変わってしまいます。これは決して2000年前の出来事ではなく、今生きている私たちにも当てはまる戒めです。

 ここでイエス様は、2節から18節までの3つの行為を1つのまとまりとして教えています。3つの行為の1つ目は施しです。施しとは私と隣り人との間の対人関係の中で表される義です。2つ目が祈り。祈りは私と神様との間の対神関係に表される信仰生活です。そして3つ目が断食。断食は私が自分自身を鞭打って従えさせる自分に対する宗教生活。この3つの行為は当時のユダヤ人の信仰生活の中でとても大事に考えられておりました。

 こうした義は本来の目的があります。施しは弱者を助けること。祈りは神様に聞き届けられること。断食も同様です。しかしこうした行為が本来の目的から離れて、人々の賞賛や尊敬を受けることが目的と変わってしまったことに対するイエス様の警鐘です。イエス様は隠れたところを見ておられる神様が、あなたの心を見ておられると教えています。

 あなたは自分が行なう義を人々に知ってもらいたい。観てもらいたい。支持し評価してほしいと感じたことはありませんか。正しい評価は必要です。しかし、神様はすべてをご存知です。全能の神が見て、あなたを評価していることを忘れないようにしましょう。

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by carbondalle1996 | 2014-04-28 06:14 | 日記 | Comments(0)

Let it go

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 ディズニー映画「アナと雪の女王」がアニメ史上最大のヒットとなり、日本でも主題歌の「Let it go」が社会現象となっています。映画の中でそれは「ありのままでいい」と歌われています。すばらしい訳に驚きました。Let it goは英語特有のフレーズで、相手が何か思い悩んでいる場合に使う場合が多く、「もういいよ、もう忘れよう」というニュアンス。直訳すると「it」を「go」させよう。ではこの「it」が何かとなります。実は「Let it go」の歌詞の中にたくさんの「it」が隠れており、歌詞の中に表されているのは2つです。

 1つは「I could not keep it in」。keep it inは「心にしまう」という意味。私は「it」を心にしまっておくことができなかった。2つ目は、「I cannot hold it back anymore」。Hold it backは「秘密にする」という意味。私はもうこれ以上「it」を秘密にできない。そして主人公は「Let it go」と宣言するのです。「it」を「go」させようと。

 「Let it go」歌詞の最後のフレーズは、「The cold never bothered me anyway」です。直訳すると「とにかくもう寒さが私を悩ませることはない」です。この「The cold」は彼女が持つ「Frozen」させる力を意味します。ですから「it」とはこの力を意味し、主人公はずっとこの力を隠し、秘密にし、心に仕舞い込んできたのです。そのような生き方をやめて、この力を「解放」しようと主人公は「Let it go」と宣言します。

 私たちは辛い過去を忘れることができません。また過去に受けた心の傷をひきずってしまうケースが多々あります。そのような過去や傷を「Let it go」と「忘れる」ことはなかなかできません。イエス様はあなたの重荷をわたしのもとに持ってきなさいとおっしゃっておられます。ですから私たちは「it」を忘れる努力をするのではなく、イエス様のもとへ持ってゆけば良いのです。イエス様は私たちの代わりとなって、重荷を担ってくださいます。

 本当の開放はイエス・キリストにあるのです。Let it go to Jesus!
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by carbondalle1996 | 2014-04-28 00:01 | 日記 | Comments(0)

アナと雪の女王

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 先日、話題のディズニー映画「アナと雪の女王」を観ました。英語名は「Frozen」。日本語では「凍結」となり少し違和感。英語名も「Ana and the Snow Queen」の方が良いのではと思いましたが、映画を観て「Frozen」というタイトルに納得しました。全てのものを「Frozen」させてしまう能力を持つ主人公。能力を制御できず、主人公の個性を凍結したところから物語はスタートし、記憶、感情、姉妹関係の凍結。そしてついに王国そのものが凍結されてしまう。この凍結をいかに溶かしてゆくかが、この物語のテーマ。「Frozen」された全てを溶かすものはいったい何か・・・。

 ウォルト・ディズニーは、この世には光と闇があり、善は悪に必ず勝利するのだということを子供たちに教えなければならないと考ました。しかしその方法は、説教ではなく、善い事に関心を持たせ続けることだと考えました。ディズニーアニメのテーマは神と人への愛。このテーマを子供たちに持続して関心を抱かせるために、ディズニーのアニメーションは作られました。そして、ディズニーのアニメは子供だけではなく、大人にも益となる物語と歌を伝えるようになっているそうです。

 「アナと雪の女王」の主題歌「Let it go」も世界中で記録的なヒット。日本語では「ありのままでいいの」と訳され、ネット上で素晴らしい訳と絶賛。英語も日本語も誰もがふと口ずさむほど。私も職場で「Let it go~♪Let it go~♪」とつい鼻歌したところ、まわりの同僚から「やっぱり小西さん、その曲歌った」と言われ苦笑い。DVDが発売されたら購入して子供たちと一緒に観たい作品です。

 娘のマリアにちょっとした変化を発見しました。今までは自分の分しか準備しなかったマリアが、最近はサムエルのお皿を出したり、コップを準備したり、帰宅すると兄のランドセルを片付けたりします。先日は夕食を食べなかったサムエルのために、わざわざ台所からサムエルのシチューを運んでくれました。マリアの中で何かが始まっているようです。マリアの中にあった「Frozen」されたものが溶かされ始めたのでしょうか。これも普段からディズニーのDVDを観ている影響かも。

 もしかしたら私達の中にも気づかずに「Frozen」されたものがあるかもしれません。それは記憶、感情、または人間関係かもしれません。作者はこの映画を通して、「あなたの中にあるFrozenも必ず溶かされる」とメッセージしているのだと思います。この映画を観る人すべてにその「答え」を持って、劇場を後にしてほしいものです。

“愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。”(Ⅰヨハネ4:18)

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by carbondalle1996 | 2014-04-27 22:52 | 日記 | Comments(0)

神様の大いなる愛

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 私たちが、桜の花びら一枚散るのを見て、「ああ、命ははかない」と思ったとしたら、それは何も見えてないということです。よく考えてみてください。「花びら一枚が散っていく」って言うけど、花びら一枚散ったって、まだそこに桜の木は生きています。私たちは自分が一枚の桜の花びらだなんて思ってるから、はかなく感じるのです。しかし、花びらが突然、無から生まれてくるわけではありません。桜の木という大いなるいのちの中に一枚の花びらが生かされているのであって、その花びらが、「ああ、私はこの大いなるいのちの一部なんだ」と気づいたとき、そこにまことの愛と安らぎが生まれるんです。

 大切なことは、大いなるいのちが小さな花びらになって、自らを現しているのです。小さな花びらは、自分は大いなるいのちそのものだと気づくために存在する。同じように「私」という存在は、神様という「大いなるいのち」の現れなのです。ですから私という存在は、神様という「大いなる命」の現れとして、今、この時を生かされているのです。この真理に気づいたとき、私たちの心に平安が与えられます。

 神様は大いなる愛をもってあなたを愛し、大いなる命をもってあなたを生かしておられます。あなたの存在は神様という大いなる命の現われなのです。そのことにどうぞ、今日気づいてください。神様はあなたを愛しています。

 
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by carbondalle1996 | 2014-04-26 08:02 | 日記 | Comments(0)

人生は放浪ではなく旅である

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 先日、私は1つの映画をみました。それは高倉健主演の「あなたへ」という映画です。主演の高倉健が富山から妻の遺骨を海に散骨するために長崎まで行くのですが、途中いろいろな人々との出会いがあります。その中でビート・たけしが高倉健に出会います。そこでビート・たけしは高倉健にこう尋ねました。「旅と放浪の違いを知ってますか。それは目的地があるかないかの違いです。しかし、私の解釈では、帰るべき家があるかないかだと思います。」私はこの言葉にとても感動しました。

 私たちの人生も旅だと思います。天国は私たちが帰るべき家です。ですから私たちの人生は決して放浪ではありません。天国へと続く旅です。あなたは自分が何処から来て、何処へ行こうとしているか知っていますか。私たち一人一人は、天国という天の父なる神様の家からこの地上に送られてきました。そして地上生涯を終えたら、再び神様が待っておられる天国という我が家に戻る旅なのです。いつの日か、私たちは父なる神様がおられる我が家へ帰るのです。そのことを思うと、人生は希望で満ち溢れます。

 あなたは天国へ帰る確信をもっていますか?もし、まだもっておられないならば、イエス・キリストを信じてください。イエス・キリストはあなたを天国へ導くために、2000年前にこの地上に来られ、十字架に架かられたのです。そしてイエス様は復活し、今も生きておられます。あなたはこのことを信じますか?
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by carbondalle1996 | 2014-04-25 06:47 | 日記 | Comments(0)

タイムマシンがあったら

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 よく、「私は別に天国へ行きたいとも思いません」という人がいます。そういう方には私はこう言っています。「私もあなたが言うような天国だったら行きたくありません。」そういう人は、天国をどこかの遊園地か動物園と勘違いしているのだと思います。そんな遊園地や動物園だったら、「私は別に天国へ行きたいとも思いません」という言葉もわかります。

 私も実は、多くの人々が大好きなディズニーランドや遊園地、動物園やスカイツリーにあまり興味がありません。人が造った物よりも、神様が創られたものに興味があります。これは私の主観です。もし私に時間と経済的余裕があれば、アフリカの大自然を歩き、知らない街で一日中人々を観察したり、海を眺めていたいと思います。

 もし世界中で唯一つタイムマシンがこの街にあったら。タイムマシンを乗るために世界中の人々がこの街に集まるでしょう。私だったら、過去に戻って恐竜を観てみたい。モーセが紅海を渡った場面に立会いたい。イエス様に会いに2000年前のエルサレムに行きたい。「何処でもドア」があったら、月に行って地球を眺めながら日本茶を飲んでみたい。私はそこへ行きたくて、行きたくて、タイムマシンがある街へ行き、何処でもドアのある街への切符を手にすると思う。そして天国とはそれに勝る場所だと思います。

 天国とは天地万物を造られた神様がおられるところです。私たちが「行きたい」とか「行きたくない」と言う次元の世界ではなく、全人類が行きたくて、行きたくて仕方が無いというそういう世界です。だから世界中の人々が天国へ行くための切符を求めることが本当だと思う。天国への切符。それはイエス・キリストです。私はこの切符を手にしていることを確信しています。そしていつの日か、天国でイエス様にお会いする日がくることも。あなたはおの切符を持っていますか?
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by carbondalle1996 | 2014-04-24 08:53 | 日記 | Comments(0)

天国の希望

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 イエス・キリストの復活によって3つの真理が証明されました。1つ目は、人の命がこの地上で終わるものではないということ。2つ目は、たとい肉体は滅んでも、人の命は霊として永遠に生きるということ。そしてイエス・キリストの復活によって証明されたことの3つ目は、天国はあるということです。

 天国があるから、私たちは何を心配することがありますか。私たちはこの地上での命しか見えないから、ちょっとしたことに思い煩い、悩み、落ち込んでしまいます。しかし、イエス様が空の鳥を見なさい、野の花を見なさいと指差したそこにある命に目を向けるならば、私たちもこの神様の大いなる命の中で生かされ、愛されて生きていることを知ります。するとどうですか、何も思い煩う必要は無いことに気づきます。なぜならば、神様が最善をなしてくださると知ったからです。

 先日、ある牧師先生から電話がありました。妊娠したある女性から相談を受けているというものです。その女性は初めて授かった赤ちゃんで喜んだのですが、検査の結果お腹の赤ちゃんがダウン症だとわかり、育ててゆく自信が無いという相談でした。そしてその先生が私に、「小西先生はダウン症のお子さんをお持ちなので、彼女の気持ちがわかるのではないですか」というものでした。

 私がもし神様を知らなかったら、天国を信じていなかったら、この女性のように育ててゆく自信がないと考えたかもしれません。しかし、私たち夫婦は神様を信じて結婚し、そして子供が与えられました。子供は自分が作ったものではありません。また自分のものでもありません。子供は神様が私たち夫婦に預けてくださった宝だと思っています。ダウン症の子供だけど、この夫婦ならこの赤ちゃんにたくさんの愛を注いで育ててくれるだろうと神様が考えてくださったのかなと思っています。ですから私たち夫婦は何も子育てで思い煩いません。神様が全て最善をなしてくださると信じているからです。

 私に1つ心配があるとすれば、私の愛情が子供たちに伝わっているだろうかという心配です。愛は相手に届いてこそ愛だと思っています。こちらが親として精一杯やったとしても、子供から「お父さんから愛を感じたことがなかった。お父さんのこと信頼なんかしていない」と言われたら、親としてショックですね。しかしその反対に、「お父さんはどんなときでも僕の絶対的な味方だった。お父さんを信頼しているよ」と言われたら、父親として子供から卒業証書を頂いた気分になると思います。

 我が家の子供は二人とも障害をもっておりますが、天国には障害児はいません。ダウン症もなければ、発達障害もありません。ですから天国で私は子供たちとたくさんおしゃべりをしたいと思っています。私は天国でサムエルやマリアとお話しできることがとても楽しみです。天国は私たち全ての者にとって希望です。
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by carbondalle1996 | 2014-04-23 06:17 | 日記 | Comments(2)

トマスの悲しみ

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 神様は私たちをどのくらい愛しているでしょうか。それは神様の一人子イエス・キリストを私たちの罪の身代わりに十字架に掛けるほどの愛です。神様は御子イエス・キリストを十字架につけてまでも、私たち一人一人を救いたいと願いました。ですからイエス・キリストの十字架とは、私たちに対する神様の愛の証明でもあります。その結果、信じる者すべてが罪赦され、天国に入れる者となりました。

 イエス様は十字架刑の後、三日後の日曜日の夕方、弟子たちが集まっていた部屋に現れました。弟子たちは自分も捕まるのではないかと恐れて、部屋の戸を閉めていました。そのような不安の只中にある弟子達の前にイエス様は、「シャローム、平安があなたがたにあるように」と声をかけて現れました。弟子たちは当然驚きました。イエス様を人間イエスと理解していましたが、神様だとはわかりませんでした。復活のイエス様に出会った弟子達はもう以前のように部屋に隠れておびえるような弱虫ではなくなりました。部屋から出て行って大胆にイエス様は復活されたと証する者に変えられました。

 どうして弟子たちはこんなに変えられたのでしょうか。それは永遠の命があることを知ったからです。今までは知識では知っていました。しかし、実際に復活のイエス様に出会って、永遠の命とは真理であり、イエス様とつながることだとわかったからでした。

 このとき、実は復活のイエス様に出会えなかった弟子がいたことを聖書は記録しています。それがトマスでした。トマスは他の弟子たちがイエス様に会ったと言っても、決して信じませんでした。トマスは言いました。「私はその手に釘跡を見て、私の指をその釘跡に差し入れ、私の手をそのわきばらに差し入れないと決して信じない」と言いました。そのとおりだと思います。一昨日、十字架の上で死んだ人が生き返るなんて、誰が信じられますか。信じないのが当然だと思います。

 しかし、次の日曜日にイエス様は再び弟子たちが集まっているその部屋に現れました。そしてトマスに言いました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきに差し入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言いました。トマスはもう「信じます」と言えずに、ただ「わが主よ、わが神よ」という言葉しか出せませんでした。私はこのトマスの告白を読むたびに、そのとおりだなあと思います。もう手なんか入れなくても、指なんて入れなくても、「信じます」なんて言わなくても、目の前に大好きなイエス様がおられる。この事実は疑いようの無い事実なのです。

 あなたの人生に復活の主はおられますか?目に見えなくても、イエス様はおられます。そしてあなたを愛しておられます。
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by carbondalle1996 | 2014-04-22 06:30 | 日記 | Comments(0)