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5つのパンと2匹の魚

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一握りの肥料

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 昨年収穫したゴーヤの種から今年は6本の芽が出ました。ゴーヤの収穫を夢見て肥料をたくさん入れた鉢に植えかえたところ、ゴーヤの苗はすぐに枯れてしまいました。インターネットで調べると肥料のあげすぎが原因との事。素人考えでたくさんの肥料がゴーヤの成長に良いと考えたゆえの失敗。ゴーヤの育て方には「ほんの一握りの肥料で十分」と記載。栄養ある肥料をたくさん与えるよりも、それをわずかに与えることによって健康なゴーヤが成長することを学びました。

 聖書のみことばに、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とあります。イエス様に繋がるならば、私たちという枝は豊かな実を結ぶという聖書の約束です。イエス様が結ばせてくださる豊かな実とは愛。ゆるせない隣人を赦し、愛し、その人の祝福のために祈るほどの愛。私たちは自分の努力でこの愛を持つことはできませんが、イエス様に繋がることによって神様が結ばせてくださる実です。

 そのような愛の実を結ぶための「ほんの一握りの肥料」とは何だろうと考えました。大川先生は、「一日5分聖書を読むだけであなたの人生は変わる」と言いました。1日は24時間。これを分に直すと1440分。つまり1440分の中で5分間、聖書を読む時間とするだけで、私たちは人生の中で豊かな実を結ぶことができるのです。これはまさに「ほんの一握りの肥料」だと知りました。

 本日、メッセージを取り次いでくださる柴田先生は、18歳の時に学校の前で受け取った一枚のトラクトからイエス様という木に繋がりました。高校卒業後に神学校に進んだ先生は、カナダのインディアン宣教の想いが与えられ、奥様とカナダに渡りました。18年間の宣教を通して大勢のインディアンがイエス様に繋がり、また奥様との間に4人の子供が与えられました。現在、子供たちはみな巣立ちましたが、それぞれイエス様に繋がった人生を歩んでいます。キリストに繋がるならば豊かな実を結ぶという聖書の約束は、まさに先生の人生において成就されました。

 一枚のトラクトという「ほんの一握りの肥料」から、柴田先生はキリストに繋がり、豊かな実を結ぶ人生へと変えられました。今日、お届けする聖書のメッセージが、みなさんの人生にとって「一握りの肥料」となりますようにお祈りいたします。

“わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。” (ヨハネ15章5節)

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by carbondalle1996 | 2014-06-30 05:21 | 日記 | Comments(0)

洗礼式&転入式

          今日は横浜カルバリーチャペルから

          柴田順一先生をお迎えして

          夏の特別伝道集会をいたしました

          ルカ15章の放蕩息子の聖書箇所から

          神様のメッセージを届けてくださいました

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          礼拝の最後に洗礼式を行いました

          洗礼を受けたのは金田さん

          昨年のイースター伝道集会に

          初めて教会に来られてから1年と3カ月

          この日は金田さんのお父さんも礼拝に出席

          金田さんの洗礼式に立ち会ってくださいました

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          金田さんの洗礼式に続き

          菊地兄の転入会式を執り行いました

          実は金田さんは菊地兄の親戚で

          菊地兄が祈り導いた青年です

          今日はご自身が導いた

          金田さんの洗礼式に合わせて

          転入会式となりました。

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          二人と一緒に記念写真を撮りました

          午後の祝会はカレーパーティー

          いろいろな種類のカレー、

          ビーフ、ポーク、チキン、シーフードカレー

          焼きカレー、ドライカレーとカレーパン

          ナッツライスにサフランライス

          デザートにジュースなどなど



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          我が家の子供たちも元気いっぱいで

          いろいろなカレーを食べました

          恵まれた夏の伝道集会となりました。

          感謝!

          


          
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by carbondalle1996 | 2014-06-29 18:22 | 日記 | Comments(0)

アウグスチヌス

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(ライオン門)


 アウグスチヌス(354 - 430)は北アフリカのタガステという町で生まれました。母モニカは敬虔なクリスチャン、父パトリキウスは異教徒でした。母親よりも父親からの影響を受けたアウグスチヌスは世の快楽を楽しむという生活始めました。そしてアウグスチヌスは、カルタゴに移り住み、当時北アフリカで広がっていたマニ教という異端宗教に入ってしまいました。そしてマニ教徒だったアウグスチヌスは、快楽に目覚めてしまいます。16歳で年上の女性と同棲し、彼女との間に子供が与えられました。息子の放蕩生活に母モニカは深く心が傷つきつつも、毎日息子の救いのために祈り続けました。

 理論派だったアウグスチヌスは、さわやかな雄弁をもってマニ教の伝道に努めていましたが、あるときミラノでキリスト教の司教アンブロシウスのメッセージに触れました。アンブロシウスはダビデの詩篇からこうメッセージしました。「ダビデ王は偉大な王様でしたが、あるとき大きな罪を犯しました。それは部下の妻と不倫し、その部下を戦場で殺してしまうという罪です。ダビデはこの罪を預言者ナタンに指摘され、激しく悔い改め、神様に立ち返りました。そのようなダビデを神様は赦してくださいました。ダビデが犯した罪は人間的な罪です。しかし、ダビデが悔い改めて神様に立ち返り、罪が赦されたのは、神様の恵みです。あなたの人生には、このような神様の恵みはありますか。」アンブロシウスはそのように会衆に語りかけました。

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 アンブロシウスのメッセージを聴いたアウグスチヌスは、自分の人生を振り返りこう言いました。「自分にもたくさんの罪がある。ダビデ以上にたくさんの人間的な罪を犯してきた。しかし、自分の人生にはダビデが経験したような神の恵みがない。それがなければ本当の意味で、私の人生は豊かな人生にならない。」このときからアウグスチヌスは悶々とした日々を送りました。自分もダビデのように神の恵みを受けたい。しかし、罪の生活を捨てることができない。このままではダメだ。

 ある日、アウグスチヌスが木陰で休んでいると、近くで子供たちが遊んでいる声が聞こえました。そのとき子供たちは遊び歌を歌って遊んでいました。その歌は、「取りて読め、取り読め」という歌詞でした。アウグスチヌスがふと手元を見るとそこに聖書がありました。その聖書を手に取り、開いた聖書の箇所を読みました。それはローマ人への手紙13章12節の御言葉でした。

“夜はふけ、日が近づいている。それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、光の武具を着けようではないか。”(ローマ書13:12)

 アウグスチヌスはこの聖書箇所を読み「はっ」としました。その場でアウグスチヌスはひざまずき、「イエス様、私の罪を赦してください」と祈りました。祈り終わった後で、今まで悶々としていた彼の心が信じられないような平安で充たされました。そのときアウグスチヌスは、「ああ、これが、ダビデが経験した神の恵みなんだ。私の人生にも神の恵みがやっときた」と告白しました。そしてすぐにアンブロシウスの所に行き、信仰を告白し洗礼を受けました。このニュースが母モニカの所に届き、モニカは涙を流して喜びました。モニカは言いました。「涙の祈りで祈られている子供は、決して滅びることはない。」
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by carbondalle1996 | 2014-06-27 06:14 | 日記 | Comments(0)

キリストは真理です

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(ダマスカス門)

”狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。”(マタイ7章13節)

 どんなに大勢の人々が自分たちは正しい。間違ったことはしていないと言っても、神様の目には、それは滅びに至る門に向って歩いている姿なのです。この世では多数決によって、51対49ならば多数となった51が正しいとされる世界です。ましてクリスチャンがこの世に対して間違っていると手を挙げたらどうでしょうか。きっと1対99で否決されると思います。99という大多数が正しいと判断される世界です。しかし、天国は多数決で決めて入れる世界ではありません。

 イエス・キリストという門を通る者だけが天国に至ることができます。イエス様は言いました。「命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。」どんなに教会が十字架を高く掲げて、全ての人々に見えるようにしても、十字架に赤いライトや白いライトで夜でも見えるようにしている教会は多いです。それでも人々は気付きません。大和キリスト教会は大和市で一番大きな教会です。その前を大勢の人々が通ります。しかし、初めて来た人の多くがこう言います。「ここが教会だと知りませんでした。」十字架の門は人々の目に入らない、気にも留められないそのような門です。この門を見出す人は少ないのです。

 私は洗礼を受けてから18年になります。この18年の間にいろいろなことがありましたが、命に至る門を見出したことに後悔したことは一度もありません。もし私がこの世の新興宗教を信じていたら、とっくに躓いて止めていでしょう。しかし私はこの18年間、イエス・キリストに躓いたことは一度もありませんでした。躓いたといえば、自分がイエス様に従わなかったことから起きた失敗に対して躓き、そのたびに悔い改めました。そして私は確信しました。「ああ、やっぱり神様は正しい。聖書の教えは真理だ。」
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by carbondalle1996 | 2014-06-26 06:18 | 日記 | Comments(1)

ICUの意味

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(ヤッフォ門)

 先週の大和教会の礼拝で日本基督教団代田教会の平野克己先生がメッセージされました。とてもすばらしいメッセージで私はどんどんメッセージの中に吸い込まれて行くような経験をしました。平野先生はこんなお話をしてくださいました。先生は国際基督教大学の卒業生であり、国際基督教大学というのは通称ICUというそうです。ICUとはInternational Christian University の略称です。しかしこの大学の学生さんたちは自分たちの大学を、愛着をもってこう呼ぶそうです。Isolated Crazy Utopia。隔離された、ちょっと変わった人々が集う、ユートピア。

 この大学の学生さんたちは、一般の社会の中ではちょっと変わった自分であることに気付かされるそうです。でも社会では変わり者だけれども、このユートピアの中に入るとみんなが変わっているから自分が変わっていることに気付く必要がない。ユートピアだというのです。そして平野先生はこう言いました。教会というのも実はこのICUなのではないですか。クリスチャンはこの世の人の価値観と変わっていませんか。
 私たちはイエス・キリストは復活したと信じます。ではそれを人々に伝えて行くとどうでしょうか。教会の帰りに家のブザーを押して、戸を開けてくださった人に「イエス・キリストはよみがえられました」と挨拶したら、どう思われるでしょうか。きっと頭がおかしな人が来たと思われて、ドアを閉じられてしまうでしょう。

 私は平野先生のお話を伺いながら、自分がイエス様を信じて洗礼を受けたときのことを思い出しました。今まで一緒に馬鹿な遊びをしていた友人から、こう言われました。「モーセが紅海を分けたことや、イエス・キリストが復活したなんて本気で信じているの。頭おかしいんじゃないの。聖書は良いところだけ、道徳として読めばいいんだよ。」彼は日本の有名大学を卒業して、アメリカでMBAを学びに来ている優秀な学生でした。世の中から見たら、クリスチャンとはおかしな人々の集まりかもしれません。

 この世の常識は進化論です。猿が長い年月を通して突然変異を繰り変えして人間となったと信じている世界です。人間は猿が進化したのではない。神によって創造されたのですと言えば、人々は笑うでしょう。それがこの世の常識です。若い男女が結婚する前に同棲生活することは姦淫の罪ですと言えば、人々は私たちをあざ笑うでしょう。

 イエス様という門はこの世の常識から外れています。しかしイエス様はこの門を入りなさいとおっしゃっています。この門にこそあなたの救いがあります。

”君侯に依り頼んではならない。人間には救う力はない。”
          (詩篇146:3)

 
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by carbondalle1996 | 2014-06-25 07:07 | 日記 | Comments(0)

人目につかない門

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(糞門)

 今はNHKのドラマでもクリスチャンが主人公ですから、なんとなくキリスト教というのは神の愛を伝える宗教、隣人愛や罪の赦しを説く宗教だと知っているのではないでしょうか。詳しいことは知らないけれど、なんとなく良い宗教だというイメージはあるのではないでしょうか。教会の前を通れば十字架が掲げてあり、これが教会だと誰の目にも止まるのではないでしょうか。しかし、教会があることは知っていても、教会の門をくぐるというのはちょと気が引けるというのが多くの人々の本音ではないでしょうか。このキリストの十字架は誰にも見えるように高く掲げられておりますが、十字架の下に集まる人は少ないのです。

”わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。”(ヨハネ10章9節)

 イエス様ご自身が天国に通じる門です。永遠の命に至る門です。望む者すべての人に門を開けて入ることができる広い大きな門です。しかし、どんなに大きくて広い門であっても、この門は人々の目に留まらない門です。ゆえに狭い門なのです。日本中でキリスト教を知らない人はいないと思います。しかし、人々の関心を抱く門ではないのです。そのように人目につかない門。人々から関心を向けられない門。この門から入りなさいとイエス様はおっしゃったのです。あなたもどうぞこの門を見出し、この門から人生を始めてみてはいかがですか?幸せはこの門の向こう側にあります。
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by carbondalle1996 | 2014-06-24 06:12 | 日記 | Comments(0)

狭い門から入れ

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(シオン門)

狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。(マタイ7章13~14節)

 イエス様は狭い門から入れと教えました。狭い門と聞くと私達は何を思い浮かべるでしょうか。ある人は東大のような有名な大学の門をイメージするかもしれません。ある人は司法試験や国家試験をイメージするかもしれません。有名な大学や企業はよく狭き門だと言われています。お隣の韓国ではサムスンという企業に10万人以上の学生が入社試験に臨み、合格者は5千人くらいだったそうです。倍率20倍の狭き門をくぐったエリートがサムスンという会社の社員だそうです。

 私が勤めている会社今年の新入社員は40名位でした。5千人と40名でしたらどちらが狭い門かは誰でもわかります。私の勤めている会社の方が狭い門です。40名しか入れないのですから。サムスンは5千人も入る広い門です。しかし誰も私が勤めている会社の門を狭い門とは呼びません。たぶん50名の入社希望者がいたら50名入れたと思います。サムスンは5千人入る門ですから、そこに入りたい人が大勢いるために相対的に門が狭くなるのです。サムスンは韓国のトップ企業で、この会社に入ると年収が他の企業と比べて大きく違うそうです。そのため大勢の大学生がこの会社を受験するそうです。5千人が入る門でも、10万人が希望するために相対的に狭き門となります。

 しかしイエス様は、そのような10万人が希望しても5千人しか入れないという相対的な意味で狭い門とおっしゃったのではありません。イエス様の門は10万人が希望したら10万人、100万人が希望したら100万人が入ることが許される門です。全人類に対して開かれた門ですから、百億人が入れる門かもしれません。こんなに広い門はありません。しかし、イエス様はこの門は狭いとおっしゃいました。どうしてでしょうか。イエス様が狭いと言われた言葉の意味は、「人目につかない」という意味があります。小さすぎて人目につかないのでしょうか。いいえ、違います。人々の関心がそこに無いために、人々にとって目に入らない存在なのです。

 あなたにとって十字架の門は目に入らない門でしょうか。この門を通ったものだけがまことのいのちに至ります。どうぞキリストの門を見出す者となってください。
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by carbondalle1996 | 2014-06-23 06:16 | 日記 | Comments(0)

祈るということ

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 ある日、問題を抱えて悩んでいた信徒さんが教会に来て牧師に告白しました。「牧師先生、すみません。教会に来て祈っても神様に祈りが届いていないような気がして、あまりに不安になって、駅前の占い師に4千円払って相談してしまいました。しかも、その占いの答えがとても辛い内容だったので、余計に不安になってしまいました。自業自得ですけど、私は今とても苦しいんです。どうしたら良いでしょうか。」 

 私の祈りは神様に届いているのか?祈った経験がある人は誰もが持つ悩みです。「祈り」を辞書で調べると「自分の力ではどうにもできないような困難なことについて、神仏にお願いすること」とありました。日本人の「祈り」とは、神仏にお願いすること。ですから自分のお願いが、神仏に届いているかと心配になるのです。しかし、聖書で「祈る」と訳されている言葉は、本来「聴く」という意味を持っています。ですから「祈る」とは「お願い」ではなく、私たち自身が神様の御声を「聴く」ことなのです。

 ケセン語訳聖書を作った医師の山浦玄嗣さんは、祈りについてこう言っています。「声を聴かせてくださいと願っても、なかなか神様の声は聴こえません。しかし神様はいつも私たちに語っています。それは私たちの周りに起こる出来事を通してです。私たちのまわりの出来事に目を留める時に、必ずそこに神様のメッセージがあります。ですから私達はこの状況の中でどうやって神様に仕えて行けば良いですかと聴くのです。辛い状況の中で目を開くと、私がするべき事が見えてきます。」

 東日本大震災の津波によって大船渡市は壊滅。死者・行方不明者は400人を超え、8千人が避難生活となりました。病院も床上まで浸水し、山浦さんは絶望の中で神様に祈りました。神様のメッセージは、「医師としての本分を尽くす」こと。山浦さんはその翌日、病院内を覆っていたドロ、重油、下水の汚物をかき出して、病院を再開し、寒さの中で処方箋を書き、大勢の患者さんの診察を始めました。

 神様は私たちが祈るより先に、私たちの苦しみや悩みを全てご存知です。ですから神様は私たちに、御声に聴くことを求めています。なぜなら、そこに問題の解決があるからです。神様は私たちの問題を解決したいと考えておられます。ですから祈りましょう。祈りを通して私たちは神様のメッセージを受け取るのです。

“しかし主よ、わたしはあなたに祈ります。神よ、恵みの時に、あなたのいつくしみの豊かなるにより、わたしにお答えください。”(詩篇69:13)

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by carbondalle1996 | 2014-06-22 19:06 | 日記 | Comments(0)

エルトゥールル号事件

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 1890年、明治23年、オスマントルコの使節団が来日し、明治天皇に拝謁した後、帰国の途に着きました。しかし使節団を乗せた船は帰国途中に和歌山県沖で台風に遭い、船は岩礁にぶつかり沈没してしまいました。その日燈台職員は海岸でドドーンという爆発音が聞こえたそうです。しばらくして燈台職員のところに一人の血だらけの外国人が現れました。すぐにこの外国人は海で遭難したことがわかりました。このとき多くの乗組員が海に投げ出されました。

 この燈台職員は多くの乗組員を救うにはたくさんの人手がいると考え、すぐに村の男たちを呼びに行きました。村の男たちは総出で、岩場の海岸に降りて行きました。だんだんと空が明るくなるにつれて、海岸にはおびただしい船の残骸と遺体が見え始め、目を背けたくなるような光景でした。遠く外国からやってきて、日本で死ぬなんて、なんと悲しいことかと、一人でも多くの命を助けようとしましたが、海岸に打ち上げられて多くの人々は動きませんでした。そうした中で、息がある人を見つけ出すと、男たちは自分の体温で彼らを温め始めたそうです。そうやって村人の必死の救助によって乗組員は次々と意識を取り戻しました。こうして沈没したエルトゥールル号650名の乗組員のうち69名が助かりました。
 
 助け出された69名のトルコ人は近くの村の寺と小学校に収容されました。当時は電気もガスも水道も電話も無い時代です。この時、台風により漁に出れず食料の蓄えもわずかだったにもかかわらず、住民はヨ方などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用の鶏すらトルコの人々に食べさせ、献身的に救護に努めました。やがて彼らは日本の軍艦によってトルコに無事送還されました。

 このエルトゥール号事件から90年近く経った1985年、イラン・イラク戦争の最中にサダム・フセインが今から48時間後にイラン上空の全ての飛行機を撃ち落とすという発言をしました。イランにいた多くの日本人ビジネスマンとその家族はあわててテヘラン空港に向かいました。しかし飛行機は満席で乗れません。他の国々は自国の救援機を出して自国民を救済しました。このとき日本政府は決断ができずに空港にいた日本人はパニック状態に陥りました。

 ところがそこに2機の飛行機が到着し、日本人215名を乗せて成田空港に飛び立ちました。サダム・フセインが言った48時間のまさに1時間前でした。この飛行機はトルコ政府の航空機でした。どうしてトルコ政府が日本人救出のために飛行機を出してくれたのでしょうか。

 駐日トルコ大使はこう言っています。「エルトゥール号の事故に際し、紀伊大島の人々や日本人がしてくださった献身的な救助活動を今もトルコ人は忘れていません。私も歴史の教科書で学びました。トルコでは子供たちでさえエルトゥール号の事件を知っています。それでテヘランで困っている日本人を助けようとトルコの航空機が飛んだのです。」

 イエス様は言われました。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」
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by carbondalle1996 | 2014-06-21 06:18 | 日記 | Comments(0)

頂いた愛を隣人へ

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だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。(マタイ7章12節)

 この黄金律と呼ばれている聖書の教えは、イエス様が初めて言ったことばです。旧約聖書を調べてもこのみ言葉はありません。しかし、これと似た言葉は私たちが育ってきた環境の中でたくさん聞いています。それは「自分が人にされて嫌なことは人にしてはならない」という教えです。これは旧約聖書続編という書物のトビト書の中にありますし、孔子の教えの中にもあります。またそれ以外にも世界中で見つけられる戒めです。これが世界中で子供を育てる過程で教えられる理由は、これが宗教的戒めではなく、常識だからです。

 これは黄金律と似ています。では黄金律と呼ばれるかというと呼ばれません。黄金律とは全く違います。例えばチックフィレイが、「自分が人にされて嫌なことは人にしてはならない」という言葉を基準にして会社を経営したらどうでしょうか。渋滞のときに車を押してあげるという親切も、立ち往生して困っているドライバーにチキンサンドを届けるという発想も生まれません。「店の前で渋滞して営業の迷惑だ。自分が運転して他人に迷惑をかけないように今日の運転はやめよう」となるかもしれません。

「自分が人にされて嫌なことは人にしてはならない」という言葉は、誰もがその経験から言うことができます。そしてこれを守ることは簡単です。みなさんの中でこの教えを守るのは難しいという方はいますか。きっと誰もが簡単だと考えると思います。しかし、聖書の黄金律を守ろうとすると難しさを覚えます。なぜでしょうか。前者は他者と関わらずにすみますが、後者は相手と関わることを薦めるからです。

 ペンテコステはユダヤ人の七週の祭りがオリジナルだと学びました。それは二つのパンが捧げられる祭り。それはユダヤ人と異邦人を表し、敵意という中垣を取り除き和解し、キリストに在って1つとなること。つまり聖霊が注がれることによって新しい人となるという奥義でした。私は聖霊の働きとは、この新しい人に生まれ変わることだと気が付きました。それは愛せなかった人を愛する者となり、赦せなかった人を赦す者になること。

 今日の黄金律で言えば、自分がしてほしいことを人にするという思いも、行為も愛から生まれるものであり、私たちはキリストに留まったときに初めて生まれるもの。なぜならばキリストに留まるならば、私たちはキリストの愛を頂くからです。私たちはキリストから愛を頂いたから、その愛を隣人に与えることができるのです。
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by carbondalle1996 | 2014-06-20 10:32 | 日記 | Comments(0)