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5つのパンと2匹の魚

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ごきげんよう

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                          故 村岡花子

 NHKドラマ「花子とアン」の中で主人公の村岡花子がラジオ放送の最後に「ごきげんよう」を挿入させてほしいと上司に願い出るシーンがありました。このときの主人公のセリフがとても心に残りました。

 「ごきげんようは、さまざまな祈りが込められた言葉だと思います。どうかお健やかに、お幸せにお暮らしくださいという祈りです。人生はうまくゆくときばかりではありません。病気になることもあるし、何をいやってもうまくいかないときもあります。健康な子も、病気の子も、大人たちも、どうか全ての人たちが明日も元気に、無事に放送を聴けますようにという祈りを込めて番組を終わらせたいのです。」

 「ごきげんよう」という言葉にこうした意味が含まれていたことを知り、改めて感動。人生には山あり谷あり。嵐の日もあれば、晴れの日もあります。今日会った人に、今日お別れする相手に「どうか健やかに、お幸せにお暮らしください」という祈りを込めて挨拶できることは素晴らしい。広島の土砂災害では大勢の命が失われました。災害で亡くなった家族を想うとき、私たちは全ての人々が明日も元気に、無事で、しあわせに暮らせますようにと祈らずにおれません。

 イスラエルの挨拶はシャローム。昼でも夜でも人々は笑顔で「シャローム」と挨拶。その意味は「平安」。花子の言葉ではありませんが、人生はうまくゆくときばかりではなく、何をやってもうまくゆかないときもあります。試練や患難の中にあって心に平安を保つことは難しい。そのようなとき私たちは、「どうして私ばかりこんな不幸が・・・」と思ってしまいがちです。しかしそのような時でもユダヤ人は「シャローム」と挨拶します。それは「あなたの心に平安がありますように」という願いを込めてであり、真実の平安を創られるお方が誰であるかを知っているからだと思います。

“あなたは神と和らいで、平安を得るがよい。そうすれば幸福があなたに来るでしょう。” (ヨブ記22章21節)


 「ごきげんよう」は当時の東洋英和女学校で使われた挨拶。もしかしたらその中に、「神様の平安があなたにありますよう」という祈りも込められていたのかもしれません。今週もみなさまの心が主の平安で充たされますように。シャローム!

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by carbondalle1996 | 2014-08-31 23:07 | 日記 | Comments(0)

弱い時にこそ強い

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”その人は言った、「夜が明けるからわたしを去らせてください」。ヤコブは答えた、「わたしを祝福してくださらないなら、あなたを去らせません」。その人は彼に言った、「あなたの名はなんと言いますか」。彼は答えた、「ヤコブです」。その人は言った、「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。” (創世記32章26~28節)

 もものつがいをはずされて弱くされたヤコブは、今度は神様に、「祝福してくださらなければ去らせない」としがみつきます。格闘において自分の最も深い部分に触れさせないようにしたヤコブですが、ひとたび「もものつがいがはずされた」ヤコブはここではなんとか祝福を得ようとしてしがみついているのです。

 神様はヤコブをここで徹底的に取り扱おうとしているのです。神様はヤコブに言います。「あなたの名は何というのか」と。ヤコブが自分を「ヤコブ」と言うことは当たり前のように思いますが、ここで問われている「名」とは存在の本質を意味します。ヤコブの本性、本質、性格、考え方、生き方、これまでしてきたすてべの行為の源泉ともいうべきものを含んだもの、それが「名」です。「おまえの名は何というのか」とい問いは、「あなたという存在、あなたという存在の本当の正体はいった何か」という問いかけなのです。

 その問いにヤコブは、なんと自分を「ヤコブ」と答えたのです。これも一見、当たり前のように思われます。でも違います。ヤコブが自分を「ヤコブ」と名乗ることは彼が最も嫌なことだったと考えます。つまり、それは「自分は人を出し抜き、人を押しのける存在」だということを自ら認めるだけでなく、それが自分の本性であり、「恐れ」をもたらしている問題の本源であることを自ら認めることになるからです。自分がそのような存在でしかないこと、そしてそれが自分のうちに恐れをもたらしていることをヤコブが認めたそのとき、「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ」と宣言されたのです。

 イスラエルとは「神と闘って勝った者」という意味です。それは、ヤコブが自分の真の弱さを認めたことにより、自分のうちにあった恐れに打ち勝ったことを意味します。ここでいう「勝った」とは、自分の弱さを認め、神に支配してもらうことを意味します。それはいわば使徒パウロの言う「弱い時にこそ、強い」という逆説の真理を意味するものです。

 あなたは自分の弱さを神様の前で認めていますか?あなたが自身の弱さを認めるならば、神様はあなたを支配し、神様の器として用いてっくださいます。そのときあなたは弱い時にこそ、強い者となります。
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by carbondalle1996 | 2014-08-30 07:19 | 日記 | Comments(0)

主によって変えられる

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”ところでその人はヤコブに勝てないのを見て、ヤコブのもものつがいにさわったので、ヤコブのもものつがいが、その人と組打ちするあいだにはずれた。” (創世記32章25節)

 「恐れ」とは私たちの内面にある最も深い問題です。私たちのすべての思考と行動は、この「恐れ」から生じていると言っても過言ではありません。ヤコブはかつてエソウを騙した問題において、贈り物を与えることで解決しようとしましたが、恐れとはそんな簡単な問題ではなく、自分の生存と防衛の保障を揺り動かすほどの力を持っています。ここで神様は、多くの財産を持ちながらも、それによって平安や安心を得られず、恐れに支配されてしまっているヤコブを救うためにヤコブの前に現れました。

 それはまさに神様の恩寵です。しかし、ヤコブの自我が余りにも強いために、神様はヤコブを取り扱おうにも取り扱うことができませんでした。それが「勝てなかった」と表現しているのだと思います。このことは神の救いを求めながらも、自分の最も深い問題には触れてもらいたくないという人間の自己中心性を意味しているように思います。

 神様は、ヤコブをそのままでは取り扱うことができないために、彼のもものつがいを打ったのです。もものつがいとは人の腰の部分ですが、身体的に人間を支えている重要な部分です。しかしその部分は象徴的な意味において、ヤコブを支えている精神的本柱でもあります。その部分を打つことによってつがいがはずれるとは、はずされた者の最も深い部分に触れられたことを意味するだけでなく、実際に、ヤコブが自分の力で戦うことができず、弱い者とされたことを意味します。

 今まで自分の智恵や能力に頼り、神様にすべてをゆだねることができなかったヤコブ。神様はそのような哀れなヤコブの前に現れ、ヤコブのもものつがいを打つことによって、ヤコブの問題を解決されました。もものつがいを打たれたヤコブはもう自分の力で自分を支えることはできません。もはや神様に頼る以外に方法は無くなってしまったのです。こうしてヤコブは神様によって新しく造り変えられました。

 あなたも自分自身の自我の強さが、神様の働きを妨げていることはありませんか?自分で自分を変えることはできませんが、神様はあなたを変えることができます。悔い改めて、イエス・キリストを心の王座に迎え入れてください。あなたも主の力によって全てをゆだねる者に変えられます。主はあなたを愛しています。
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by carbondalle1996 | 2014-08-29 23:40 | 日記 | Comments(0)

神様と相撲を取った男

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”ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。”(創世記32章24節)


 妻と子供たち、そして僕たちをヤボクの川を渡らせたヤコブはその夜、一人ヤボクに残りました。どうして一緒に渡らなかったのか。聖書にその答えはありません。しかし、その夜、ひとりの人がヤコブの前に現れて、ヤコブと組みうちしました。昔の人はこれを神様と相撲を取ったと訳しています。英語訳聖書ではレスリングしたと訳されています。このひとこそ神様でした。受肉前のキリストという解釈もあります。どうして神様はこのとき、人となってヤコブの前に現れ、そしてヤコブと組打ちをしたのでしょうか。

 私たちは神様と実際に相撲を取ることも、レスリングすることもありませんが、祈りの格闘をすることがあります。どうしても解決できない問題。どこに持っていっても治らない病気。もう絶望するしかない状況。私たちは八方塞がりの状態で、天を仰ぎ神様に祈ります。それは断食の祈りであったり、夜通しの祈りであり、それはまさに神様と祈りにおいて格闘する如くです。

 イエス様も十字架の前夜、ゲツセマネの園で血の汗を流してお祈りしました。この盃を取り除いてくださいと祈ったイエス様。最後は父のみ心がなりますようにと盃を受けました。それはイエス様と父なる神様との祈りの格闘のようです。

 ヤコブもこのとき人生において一番大きな問題に直面していました。それは兄に再会するという問題です。今まで2度も兄エサウから祝福を奪ったヤコブ。大きな恐れがヤコブを襲っていました。この恐れこそヤコブがずっと持ち続けてきた罪でした。自分の智恵で人生を歩んできたヤコブ。ゆえに恐ればかりが募りました。ヤコブと神様の組み打ちには、この恐れを克服するためのものでした。

 あなたは神以外のものを恐れていませんか?怖れるお方は主のみです。
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by carbondalle1996 | 2014-08-28 06:24 | 日記 | Comments(0)

あなたの問題の根本

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彼はこれらをそれぞれの群れに分けて、しもべたちの手にわたし、しもべたちに言った、「あなたがたはわたしの先に進みなさい、そして群れと群れとの間には隔たりをおきなさい」。(創世記32章16節)

 兄エサウとの再会を前にして恐れるヤコブ。神様があなたを祝福すると約束したにも関わらず、神様の約束を信じきれない姿がここにあります。ヤコブは自分の智恵でこの場を乗り切ろうと、群れと群れとの間に隔てを起きました。これは1つは兄をなだめるためであり、もう1つは撃たれてももう一方が逃げるためです。考えてみるとヤコブの人生は、神様に従いたいと思いながら従えない人生だったのではないでしょうか。

 その姿はそのまま私たちの姿として二重写しに重なります。私たちは神様に従いますと告白していながら、問題が襲ってくると、自分の智恵で問題を解決しようと考えます。問題の解決はイエス・キリストにあると教会では語りながら、教会から一歩外へでると世の人々と同じ行動をしてしまいます。大切なことは問題の解決ではなく、問題の意味を知ることです。その問題は神様が意味をもって私たちの前に置いたことを知りましょう。そして神様は見ておられます。私たちがこの問題をどう解決するか。神様は「その問題をわたしにゆだねなさい」とおっしゃっています。

 創世記32章はヤコブのもっている問題の根本が解決される章です。あなたの問題を主にゆだねましょう。主はあなたの問題を解決することによって、あなたの中にある問題の根本を解決されようとしています。
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by carbondalle1996 | 2014-08-27 06:33 | 日記 | Comments(0)

明け渡しとゆだね切る

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ヤコブはまた言った、「父アブラハムの神、父イサクの神よ、かつてわたしに『おまえの国へ帰り、おまえの親族に行け。わたしはおまえを恵もう』と言われた主よ、 あなたがしもべに施されたすべての恵みとまことをわたしは受けるに足りない者です。わたしは、つえのほか何も持たないでこのヨルダンを渡りましたが、今は二つの組にもなりました。どうぞ、兄エサウの手からわたしをお救いください。わたしは彼がきて、わたしを撃ち、母や子供たちにまで及ぶのを恐れます。あなたは、かつて、『わたしは必ずおまえを恵み、おまえの子孫を海の砂の数えがたいほど多くしよう』と言われました」。(創世記32章9~12節)


 かつて神様はヤコブに対して「わたしは必ずおまえを恵み、おまえの子孫を多くしよう」と約束されました。しかしヤコブはどうでしょうか。故郷を目前として、兄エサウに会うことを恐れています。恐れが彼を縛っているようです。神様が必ず恵むと約束しているにもかかわらず、どうしてヤコブは兄を恐れるのでしょうか。神様の約束を信じきることができないのでしょうか。そこにヤコブの問題があります。

 それは実に私たち自身にも言える問題だと思えます。私たちは神様を知り、イエス・キリストの十字架によって罪赦された者です。この真理を知ったからこそ、メタノイア、悔い改めました。悔い改めるとは、180度方向を転換することです。今までの延長線上に生きるのではなく、全く路線が変えられること。神様の約束のみことば、祝福のみことばが与えられているにもかかわらず、今までの自分で生きようとするところに私たちの問題があります。

 このときのヤコブも同じです。ヤコブは神の約束を頂きながら、悔い改めがありませんでした。ゆえに20年が経ったこのときも、やはり「他人を押しのける者」ヤコブだったのです。ヤコブは見えない兄を恐れていますが、その本質は神様にゆだねきれない自分の罪、神様に自分を明け渡せない罪。それがヤコブの恐れとなってヤコブ自身に降りかかっているように思えます。

 あなたはどうでしょうか?あなたの目の前に見える問題、病気、それら一切を神様にゆだね、明け渡していますか?あなたに恐れがあるなら、それはあなたが神様にゆだね切れないからではないでしょうか?あなたの手の中に握っている問題を神様に開け渡しましょう。神様が解決してくださいます。
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by carbondalle1996 | 2014-08-26 05:33 | 日記 | Comments(0)

ヤコブの恐れ

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”そこでヤコブは大いに恐れ、苦しみ、共にいる民および羊、牛、らくだを二つの組に分けて、言った、「たとい、エサウがきて、一つの組を撃っても、残りの組はのがれるであろう」。”(創世記32章7・8節)

 20年ぶりに約束の地へ帰るヤコブ。しかしヤコブには1つの問題がありました。それはカナンを逃げ出したという問題です。兄から祝福を奪い取り、兄に命の狙われて、叔父ラバンの元へ逃げました。弟が兄に命を狙われているという恐れ。それは現代に生きる私たちいはわからないものだと思います。私も兄がいますが、そのような恐れを抱いたことはありません。

 ヤコブは兄が400人の手勢を率いて自分を迎えに来ると聞いて、自分は殺されるのではないかと恐れました。ヤコブの心に後ろめたいものがなければ、このような過度な恐れは起きません。ヤコブが兄を騙し取った祝福ゆえにヤコブには兄に対して後ろめたさがありました。この問題を解決するためにヤコブが取った方法は、2つの組に分けるという方法でした。

 それは決して神様から頂いた智恵ではありません。私たちは神様を知っているとしながらも、いざというときに神様に頼らずに、自分の経験や知恵にすがってしまう性質をもっています。問題があるときにこそ、主に祈り、主の智恵を求める者となりましょう。
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by carbondalle1996 | 2014-08-25 06:32 | 日記 | Comments(0)

小さな祈り

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 K兄よりクリスマスに向けて男性二重唱のご提案がありました。音楽を得意としない私にとって大きなチャレンジでありましたが、「恥は我がもの、栄は主のもの」との言葉を想い、男性陣で受ける事と致しました。どうぞみなさんお祈りをもって応援して頂きたいと思います。選曲について頭を悩ましていたところ、菊地兄より曲のリクエストがございました。それはLyre(リラ)というクリスチャン・グループが作った「小さな祈り」という曲です。

 Lyreは東京基督教大学に入学した学生4人が、自分達の賛美をテープに録音したことが始まり。その後2名が加わり学園祭で歌った際、「竪琴」「ライラックの花」の意味を込めてグループ名を「Lyre」とする。周囲の勧めに従って発売したアルバムCDにより、全国的にその歌が知られることになりました。大学卒業後はそれぞれが牧師、牧師夫人、宣教師として日本および世界各地に遣わされ、メンバーの一人塚田宣教師の一時帰国に合わせてメンバーが集まり、CDの制作や国内各教会を訪問してコンサート活動などをしています。

 今回、K兄が教会のみなさんにも歌って頂きたいとDVDを制作してくださいました。DVDには「小さな祈り」他8曲が収録されております。どれもすばらしい曲ばかりです。クリスマスには教会のみなさんで讃美できればと願っています。ハレルヤ!

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by carbondalle1996 | 2014-08-24 19:02 | 日記 | Comments(0)

ペテロの妻

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 熱病から癒されたペテロの姑は、それからずっと死ぬまでイエス様にお仕えした人生だっただろうと思います。イエス様に救われた者はみなそのような人生を送ります。実は聖書に記されておりませんが、ペテロの妻、この姑の娘となりますが、彼女もまた死ぬまでイエス様に従い通して女性だったと伝承が残っています。

 ペテロの妻の名前はわかりません。しかし伝承では、ペテロの妻は熱心なクリスチャンでペテロの伝道をいつも一緒について周り、夫を助けたと言われています。カトリックの書物によるとペテロの妻は、ペテロと同じ時期に殉教を遂げたそうです。このときペテロは、自分が死ぬ前に妻の死を目撃するという苦しい立場に置かれたが、ペテロは妻が殺されるのを見て、天国に召されて行く事を喜び、彼女の名を呼んで、「主をおぼえなさい」と言って力強く励まし、慰めたと言われています。

 ペテロにとって妻は同労者であったでしょう。キリストのくびきを負い、伴にキリストのために命をも捧げ、人類の救いのためにサタンと共に戦った戦友かもしれません。どのような言葉が正しいかはわかりませんが、ペテロにとって一番大切な人であったことは確かです。キリスト者の夫婦が共に人生を主に捧げ、走るべき行程を走り終えるすばらしさ。私もペテロ夫婦の走った行程を走る者でありたいと思います。
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by carbondalle1996 | 2014-08-23 06:36 | 日記 | Comments(0)

秋田朝祷会

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          昨日は秋田キリスト教会を会場に


          8月の朝祷会が行われました


          講師は酒田キリスト教会の西田先生


          西田先生は献身前に仕事で


          イスラエルに滞在された経歴を持ち


          定年退職後に開拓伝道をされました


          説教は創世記32章から「神なる祝福」


          と題してお話くださいました。


          とても恵みを受けました。


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          朝祷会の後はロビーでお食事会


          料理はすべて秋田キリスト教会のみなさまが


          準備してくださいました


          朝祷会はいつも霊のお腹が充たされ


          肉のお腹も充たされる感謝な場です


          秋田の尊敬する先生方と共に祈り、お食事し、


          すばらしいお交わりの時間となりました。

     
          栄光在主

          
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by carbondalle1996 | 2014-08-22 06:40 | 日記 | Comments(0)