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5つのパンと2匹の魚

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あなたの人生の主人は?

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アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を産み、その名をセツと名づけて言った、「カインがアベルを殺したので、神はアベルの代りに、ひとりの子をわたしに授けられました」。(創世記4章25節)

 カインが生まれたときにエバは、「わたしは得た」と告白しましたが、セツが生まれたときにエバは、「わたしはセツを得た」とは言いませんでした。エバは「神はアベルの代りに、ひとりの子をわたしに授けられました」と告白しました。つまり「神が授けられた」と告白したのです。カインが生まれた時の主語は「わたし」でしたが、セツが生まれた時には、主語は「神」に変わりました。そして名前をセツと名付けました。セツとは「授ける」という意味です。

 かつてエバは自分の能力によってカインを得たと考えました。しかし、エバは大事な息子カインとアベルを失ったことによって、大切なことを悟りました。息子を亡くすという事件は、カインが間違っていたのではない。私が間違っていた。神様によって与えられた命なのに、私は自分で得たと高慢になり、その結果息子のカインもまた神様を畏れない子供になってしまった。すべては私の間違いであった。エバはそう感じたと思います。そしてエバは新しく生まれた子は「得た」ではなく、「授かる」と名付けたのです。

 私たちの人生もこれと同じです。自分の力で得たと考えるか、神様によってすべて与えられたと考えるか。これまでの人生、学歴や資格、今までの数々の成功。家族や友人。そうした全てを自分の努力によって得たと見るか、神様によって与えられたと見るか。私がという人生か、それとも神様がという人生を選ぶか。あなたはどちらの人生を歩んでいますか?「私が」という人生でしょうか?それとも「神様が」という人生でしょうか?後者を選択した者の人生は神様の祝福に充たされます。神様こそあなたの人生の主人です。
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by carbondalle1996 | 2014-09-30 06:35 | 日記 | Comments(0)

わたしは得た

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人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。(創世記4章1節)

 アダムとエバは、神様から食べてはいけないと言われた善悪を知る木の実を取って食べた結果、神様によってエデンの園から追放されてしまいました。そしてエデンの園から追い出されたアダムとエバに子供が与えられました。そのときの喜びをエバは、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」と告白ました。そして息子をカインと名付けました。カインとはへブル語で「得る」という意味です。

 親が子供に名前をつけるということは大変なことです。その子がどのような子になってほしいか。親の願いが込められています。我が家の長男はサムエル。聖書の預言者の名前です。これはサムエルのように主の声に聴き従ってほしいという願いもあり、ハンナの祈りの子であったという事実でもあります。私たち夫婦にとっても息子は祈りの子です。

 さて、「得る」という名前をもらったカインはその後、どのような人生を送ったでしょうか。カインやが成長し、神様への捧げ物について弟のアベルに嫉妬を燃やし、ある日弟のアベルを野原に誘い出して殺してしまいます。カインは弟を殺したという罪のために父と母の元から去ってしまいます。このときアダムとエバにとっては、同時に二人の息子を亡くしてしまうという経験をしました。大切な我が子二人を同時に失うとは、親にとってどれほど辛い出来事であったかと思います。

 エバはカイン「得る」という名前をつけるほどに子供の誕生を喜びました。しかし、多くの年月が過ぎて、エバは得たはずの息子たちを失ってしまいました。あなたは自分の力で得たと考えているものはありますか?年をとると若さも、健康も、能力も、視力もすべて失ってしまいます。そして失って初めて人は気がつくのではないでしょうか。失ったものの大切さを。そして本当に大切なものを。あなたにとって本当に大切なものは何でしょうか?失ったものですか?神様を宝とする人生を送りましょう。
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by carbondalle1996 | 2014-09-29 06:32 | 日記 | Comments(0)

神様の摂理とは?

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 神様の摂理についてユダヤの賢人は次のような物語を語りました。

 昔、一人のラビを友に持つ異邦人の王様がいました。王様はラビの鋭い知性に舌を巻いていました。ラビの言葉は、いつも王様に神の摂理を思い起こさせました。王様は危険な旅行が好きで、よくラビと遠出をしました。ある時、狩りをする王様に伴われたラビが、不慣れなために誤って王様を撃ってしまいました。この弾で王様は指を一本失ってしまい、激怒した王様はラビを地下牢に入れました。

 数ヵ月後、王様はまた別の冒険に出かけましたが、旅先で人食い部族に捕えられてしまいました。王様が煮えたぎる湯の中に投げ込まれる直前に、彼らは夕食の食材を吟味し始めました。そのとき彼らは王様の指が1本無い事を発見し、縁起が悪いと言い出しました。その結果、彼らは王様を食べずに開放したのです。ラビの失態によって王様は命拾いし、ラビは直ちに地下牢から釈放されました。

 王様はラビに尋ねました。「親愛なるラビ、あなたはいつも神様の摂理について語っていましたね。ついにそれがわかりました。わたしは指を失ったおかげで、殺されずに済んだのですから。しかし、あなたにとって神様の摂理とは何だったのですか。地下牢に何カ月も入れられたことが、どんな役に立ったのですか?」
 ラビは微笑んで王様の質問に答えました。「王様、もし私が地下牢にいなければ私は王様と一緒に冒険に出かけたことでしょう。そして私も一緒に人食い部族に捕まっていたでしょう。そのとき私には指が10本ありますから、私は彼らに食べられていたに違いありません。」

 このラビと王様の話から私たちは神様の摂理について考えます。神様の摂理とは、私たちに起きるすべての出来事は、神様の守りの御手を通して起きると信じなくてはなりません。それが一見、辛く悲しい出来事に思えたとしても、私たちを愛してくださる神様は、私たちの人生に最善のものを与えてくださるお方なのです。

神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。  
(ローマ8章28節)


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by carbondalle1996 | 2014-09-28 23:10 | 日記 | Comments(0)

根負けした神様

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 先日、私はサムエルとマリアにカレーライスを作って食べさせました。何が気に入らなかったのか、サムエルは私に布巾を投げつけました。私は叱ってサムエルに「ごめんなさい」とパパに謝りなさいと言いましたが、サムエルは決して「ごめんなさい」を言いません。「それならもうカレーライスを食べなくていい」と言って、カレーライスを取り上げると、えんえんと泣き続けました。それでもサムエルはごめんなさいを言いません。もう我慢くらべです。こちらは早く赦して、サムエルにカレーライスを与えたいのですが、サムエルは決してごめんなさいを言いません。

 そのとき父なる神様も同じだとわかりました。神様は私たちに罰を与えたいのではなく、私たちが「ごめんなさい」を言うことをずっと待っているのです。神様の方は私たちと和解したくて、したくて仕方がないのに、私たちが「ごめんなさい」を言わないから赦すことができません。アダムとエバが神様にごめんなさいを言えなくても、神様の方でアダムとエバに動物の皮で衣を作ってあげました。神様はわたしたちと和解したいのです。赦したいのです。それが神様です。

 ずっと涙目でパパに赦してほしいと訴えるサムエルですが、決して「ごめんなさい」を言いません。私はどうしたと思いますか。私の方が根負けして、サムエルを抱き締めました。そして「もう布巾を人に投げつけてはダメだよ」と言うとサムエルもまたエーン、エーンと泣きました。そして新しいカレーライスを出すと喜んで食べました。

 天の父なる神様も同じです。私たちの方から「ごめんなさい」を言えずについに神様が根負けして、ご自身の一人子イエス・キリストを十字架に掛けてご自身の方から私たちに和解の道を作られました。ここに神様の愛があります。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3章16節)

 
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by carbondalle1996 | 2014-09-27 06:33 | 日記 | Comments(0)

メシヤとしての証明

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しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言い、中風の者にむかって、「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と言われた。すると彼は起きあがり、家に帰って行った。(マタイ9章6~7節)

 イエス様はこのとき「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言いました。あなたがたとはここに集まっている群衆ではありません。あなたがたとは、イエス様を非難した律法学者たちです。そのように考えてみると、イエス様はこのことを証明するために、わざと中風の者に「あなたの罪は赦された」と宣言されたことがわかります。8章で百卒長が中風の者を癒してくださいと願い出たときに、イエス様は「わたしが行ってなおしてあげよう」と言いました。それに対して百卒長は「みことばをください」と願いました。そしてイエス様が「あなたの信じたとおりになるように」と言ったその時に、僕はいやされたとあります。

 つまり同じ中風の者の癒しでも、8章では罪の赦しの宣言はしていません。それではなぜ、今回は中風の癒しを宣言せずに罪の赦しを宣言したのでしょうか。それはそこに最高議会から派遣された律法学者がいたからです。彼等はカペナウムで起きたメシヤ運動を観察し、それを最高議会に報告しなければなりません。イエス様が、「人の子は地上で罪をゆるす権威をもっていることが、あなたがたにわかるために」と言った理由は、そこにありました。そしてイエス様が中風の者に「起きよ、床を取りあげて家に帰れ」と命じると、彼は起き上がり家に帰りました。

イエス様はここで中風の者の癒しを行うことによって、ご自身のメシヤ性を証明されました。ユダヤ教のラビが論理的に物事を証明する方法の1つに、易しい方を証明して、より難しい方もまたそのとおりであると実証します。これはラビ特有の論理方法です。イエス様は律法学者らが普段使う証明方法によって、より易しいと思える中風の癒しを証明することによって、より難しいと考える罪の赦しを証明したのです。このことによってイエス様は、自分は神を汚す者ではなくメシヤであると律法学者に証明しました。
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by carbondalle1996 | 2014-09-26 06:07 | 日記 | Comments(0)

CGNTV撮影

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          今日はCGNTVの「みことばに聞く」の収録日


          10分のメッセージを3つ撮りました


          いつものことですがとても緊張しました


          無事に初日の撮影を終えて


          ディレクターの千葉宣教師とカメラマンの椙井さんを


          我が家に迎えて夕食を共にしました


          二人の若いお兄さんが来て


          子供たちは大はしゃぎ


          とっても楽しい食事会となりました。


          神様に感謝!
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by carbondalle1996 | 2014-09-25 23:45 | 日記 | Comments(0)

どちらがたやすいか?

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イエスは彼らの考えを見抜いて、「なぜ、あなたがたは心の中で悪いことを考えているのか。 あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。(マタイ9章4~5節)

 イエス様は律法学者たちの心を見抜いて言いました。「あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか。」みなさんだったらどちらがたやすいと考えますか。私はどちらがたやすいかというこの疑問に長年悩みました。さて、いったいどちらがたやすいのでしょうか。もちろん言葉だけでしたら、あなたの罪は赦されたと言うことの方がたやすいです。実際、人は罪が赦されたことを証明することができないからです。しかし、もしここに中風の人が寝ておられて、「あなたの足は癒されました」と言っても、その人が歩くことができなければ私は嘘をついたことになります。癒しは目で見て証明できるからです。

 しかし、律法学者が心の中で言ったように、罪の赦しは神様しかできないことです。イエス様は大勢の病人を今まで癒してきました。悪霊に取りつかれた人から悪霊も追い出しました。しかし、そうした奇跡を行っても、イエス様は神を汚していると非難はされませんでした。それは預言者でも癒しや悪霊追い出しをしたからです。しかし、罪を赦すという権威は、預言者には与えられていません。罪を赦すことができるのは神お一人です。ですから、律法学者の考えでは、罪の赦しの方がより難しいと考えられます。

 さて、あなたにとってはどちらがたやすいことでしょうか?罪は赦されたと宣言すること?それとも起きて歩けということ?イエス様のこの言葉はそのまま私たち自身に迫る言葉となります。あなたはどちらだと考えますか?
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by carbondalle1996 | 2014-09-24 06:26 | 日記 | Comments(0)

心の中の罪

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すると、ある律法学者たちが心の中で言った、「この人は神を汚している」。(マタイ9章3節)

 以前登場した律法学者はイエス様の奇跡を見て、「先生、あなたが行く所でしたら、どこへでも従ってまいります」と告白しましたが、その律法学者とは違うようです。福音書には多くの箇所でこのように律法学者が登場します。彼らは律法の専門家であると同時に、メシヤ運動が起こるとそれを検査し、最高議会に報告するという使命をもっていました。

 律法学者がメシヤ運動を検査するには2つの段階がありました。1つは観察段階です。彼等はメシヤ運動が起こるとそこへ派遣され、メシヤと呼ばれる人の運動や説教を観察しました。観察した結果を最高議会に報告しました。このときの律法学者たちは、イエス様が中風の者に対して「あなたの罪は赦された」と言った言葉を聞いて、心の中で「この人は神を汚している」と言いました。

 マルコ福音書には、「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神を汚すことだ。神ひとりのほかに、誰が罪を赦すことができるか」と律法学者は言っています。この律法学者の考えは正論です。神様以外に罪を赦すことはできません。つまりイエス様は神を汚す者か、もしくは神様と同等の権威を持つ救い主メシヤかどちらかとなります。

 あなたは心の中で人を悪く思ったり、妬んだり、恨んだりしたことはありませんか?それを罪と呼びます。それはすべて神様の御前で明らかにされています。あなたのその心に犯した罪はどのようにしたら清められますか?イエス様を信じることによって、あなたの罪がいかに紅のように赤くても、キリストの血潮によって真っ白くされるのです。イエス・キリストを信じて歩みましょう。
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by carbondalle1996 | 2014-09-23 06:51 | 日記 | Comments(0)

彼らの信仰を見て

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さて、イエスは舟に乗って海を渡り、自分の町に帰られた。すると、人々が中風の者を床の上に寝かせたままでみもとに運んできた。イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪はゆるされたのだ」と言われた。(マタイ9章1~2節)


 イエス様と弟子たちは舟に乗ってカペナウムからガリラヤ湖の東岸にあるガダラ人の地に行きました。そこで長年悪霊に取りつかれていた人から悪霊を追い出しました。追い出された悪霊は二千頭の豚に移り、豚は湖に落ちて死んでしまったというお話をしました。その地の人々は、二千頭の豚が死んでしまったという出来事を見て、イエス様にこの地を出て行ってくださいと願いました。こうしてイエス様は再びガリラヤ湖を渡り、カペナウムに戻ってきました。マタイは、イエス様がカペナウムに戻ったことを、イエス様は自分の町に帰られたとマタイは記しています。

 イエス様がカペナウムに戻ったある日、いつものように家でお話をしていました。その家はもしかしたらペテロの姑の家であったかもしれません。そこへ人々が中風の人を床の上に寝かせたまま運んで来ました。マルコ福音書では、運んで来た人々の人数は四人だとあります。ところが群衆のためにイエス様に近寄ることができませんでした。このときこの4人は外でイエス様が出て来られるのを待つではなく、その家の屋根に登って、イエス様がおられるあたりの屋根をはぎ、穴をあけて、中風の者を寝かせたままで床をつり下ろしました。

 この中風の人は、自分が苦しいときに助けてくれる友人が4人もいました。友人たちは中風の人を寝たままで、床ごと4人で四隅を持って運んだことでしょう。彼等はイエス様のところに行けば、必ず友人の中風は癒されると信じたことでしょう。そのような信仰をもった友はどんな宝物よりも高価ではないでしょうか。あなたを教会へ誘ってくれた友人がいると思います。その人はあなたの最高の友人ですね。同じように今度はあなたが友人をイエス様のもとへ導く人となりましょう。
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by carbondalle1996 | 2014-09-22 06:32 | 日記 | Comments(0)

バイブル・スタディーの恵み

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 「バイブル・スタディーなんて、うらやましいなあ」。これは町田カルバリー家の教会の大塚先生が私たちの祈祷会について語った言葉。聖書を読んで、心に留まった御言葉について瞑想し、感想を発表する。バイブル・スタディーは決して聖書講義ではなく、まして難しい神学を学ぶ授業でもありません。それは「聖書に学ぶ」という姿勢だと言えます。大学時代にKGK(キリスト者学生会)に所属した大塚先生は、バイブル・スタディーの楽しさと、その有益性を十分に理解しているようです。

 私もアメリカ留学時代にバイブル・スタディーに加わりました。当時の私はキリスト教について何も知らなかったので、おかしな質問をたくさんしました。例えば、「同棲は罪ですか?」「神輿を担いではいけないのですか?」「たばこは何本まで吸っていいのですか?」「未信者とは結婚できないのですか?」「クリスチャンになると豚肉もタコも食べられないって本当ですか?」などなど。そんな私のつまらない質問の1つ1つに、クリスチャンの方々が丁寧に答えてくださったことをおぼえています。

今になって考えると、アメリカで経験したバイブル・スタディーがその後の私の信仰生活にとって、とても役に立ったと思います。バイブル・スタディーを通して、私は聖書の基本を学ぶことができました。私が帰国して驚いたことの一つは、クリスチャンホームで育った青年たちの多くが、聖書の学びを受けていないという事実でした。ユダヤ人は子供に聖書を教えることは親の責任としています。「あなたの父と母を敬え」と、十戒が教えている理由は、親を通して子供は聖書を学び、神様を知るからです。

 最近、熱心なクリスチャンと呼ばれる人々から、「イエス・キリストの再臨が近いから、私たちはもっと真剣に伝道しなければならない」とか、「本当に献身したクリスチャンだけが天国へ入れる」と言った言葉を聞きました。信仰に対する熱心さは良いことですが、聖書の教えに対する盲目は罪です。ドライバーがアクセルとブレーキを間違えて事故に遭うように、クリスチャンもアクセルとブレーキを間違えると大事故に遭遇します。クリスチャンにとって熱心さはアクセルとなり、正しい聖書理解がブレーキとなります。私たちが健全な信仰生活を送るために正しい聖書の学びは必要です。町田カルバリー家の教会では、「リビングライフ」を用いて学び&分かち合いを祈祷会でスタートしたそうです。すばらしいですね。共に聖書に学ぶ者となりましょう。

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by carbondalle1996 | 2014-09-21 23:11 | 日記 | Comments(0)