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5つのパンと2匹の魚

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梶山先生を迎えて

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     昨日は大和カルバリーチャペルの支教会

     横浜市都筑区のニュータウン・カルバリー・フェローシップより

     梶山直樹先生が急遽来秋しくださり

     伊藤兄の病気の癒しのために

     オリーブオイルを塗って祈ってくださいました

     その後は共に軽食を取りながら

     主にある楽しいお交わりの時間を持ちました

     それは聖霊様の臨在に溢れた聖会のようでした

     主の御名を崇めます。

     Praise The Lord. Hallelujah!

          
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by carbondalle1996 | 2014-10-31 06:42 | 日記 | Comments(0)

丈夫な人には医者はいらない

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イエスはこれを聞いて言われた、「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。(マタイ9章12節)

 キルケゴールの「死に至る病」という本があります。これは1849年にデンマークで出版された本です。この本の冒頭でキルケゴールは、ヨハネ福音書11章4節の御言葉を紹介しています。ラザロが死に瀕していると聞いたイエス様は、「この病気は死に至るものではない」と言いました。キルケゴールはこの聖書箇所から、人はみな死に至る病を持って生きていると説いています。

 人はみな必ず死にます。死なないという人はいません。今日御亡くなる人もいれば、50年後に亡くなる方もいます。それがいつであるかは誰にもわかりません。人はみなこの死に向かって人生を歩んでいます。そしてキルケゴールは、この死に向かって歩む人生とは絶望だと説いています。ですから人はみな絶望に向かって生きているのです。絶望とは自己の喪失であり、神様との関係の喪失です。そしてこの絶望、つまり神様との関係の喪失こそ罪です。この神様との関係の喪失を回復しない以上、私たちはみな絶望という死に至る病をもって生きているとキルケゴールは言っています。

 しかしイエス・キリストはこの死に向かっているラザロの病気について、「この病気は死に至るものではない」と言いました。そこからキルケゴールは、人はイエス・キリストを救い主と告白することによって、初めて死に至る病から解放されると記しました。イエス・キリストは失われていた神様との関係を回復し、絶望に向かって歩んでいた人生をを希望に変え、死に向かって生きていた私たちの人生を、永遠に生きる人生へと変えてくださいました。

 あなたは自分が健康だと思っていますか?それとも死に至る病をもっていると考えますか。医者を必要としますか?必要としませんか?もしあなたが後者であるならば、イエス・キリストはあなたのために十字架に架かり、死んでくださいました。それはあなたの罪を贖い、あなたに永遠の命を与えるためだからです。イエス・キリストは全人類の救い主です。
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by carbondalle1996 | 2014-10-30 08:29 | 日記 | Comments(0)

あなたと共に食事する神

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パリサイ人たちはこれを見て、弟子たちに言った、「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか」。(マタイ9章11節)

 パリサイ人たちは、イエス様が取税人マタイやその友人たちと一緒に食事をしているのを見て憤慨しました。ここで使われている「見た」というギリシア語は、たまたま目に入ったとか、チラッと見たという言葉ではありません。落ち度はないか、責めるべきところはないかと目を皿のようにして観察して見るというギリシア語です。パリサイ人は最初からイエス様の間違いを見つけようと彼らを観察していました。そしてイエス様の間違いを見つけました。それはイエス様が罪人であるマタイと一緒に食事をしていることでした。

 ユダヤ社会で共に食事をするという意味は、その人と和解して友達となるという意味です。ですからこのときイエス様は罪人たちと友達になったということです。それはイエス様も罪人となったことを意味します。ですからパリサイ人は鬼の首を取ったように言いました。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人などと食事を共にするのか。」

 神様はあなたがどれほど罪を犯しても、あなたを捨てたりはなさいません。99匹の羊をそこへ置いてまでも、あなたという迷える1匹の羊を探し求めます。神様はあなたにレッテルを貼って、あなたを遠ざけるのではなく、あなたの隣に座って、共に食事をしてくださるお方です。神様はあなたと和解し、あなたと友達になりたいのです。あなたはこの神様の愛を受け取りますか?
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by carbondalle1996 | 2014-10-29 06:44 | 日記 | Comments(0)

神様の愛に応える者

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それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。(マタイ9章10節)

 イエス様は当時ユダヤ人社会から村八分にされ、罪人とさげすまれていたマタイの家に入り一緒に食事の席に着きました。食事の席に着くと聞くと、私たちはそこにテーブルがあって、中央の椅子に主賓であるイエス様が座り、イエス様の周りに弟子たちと収税人たちが座っている光景を思い浮かべると思います。テーブルの上にはたくさんの料理があり、それぞれがお皿に好きなものを箸やフォークで取って食べる。そのような光景を想い浮かべるのではないでしょうか。

 しかしここで使われている食事の席に着くというギリシア語は、「横たわる」という動詞です。当時のユダヤ人は椅子に座って食べませんでした。それはヨーロッパ式です。ユダヤ人の正式な食べ方は、横になって左肘をついて、右手で料理を取って食べました。これが正式な当時のユダヤ人の食べ方でした。私たちがこのように寝ながら食べたら行儀が悪いと叱られてしまいますが、当時のユダヤ人の間ではこれが正式な食事方法でした。

 私が小学生の時代に「しかと」という遊びが流行りました。いじめっ子から「あの子をしかとしろ」と命令されると、同級生はみなその子と口を聞いてはいけません。あるときクラスのAくんがクラス中の男子からしかとされました。昼食時に男子はみんなで机を整えて一緒に食事をします。しかし、Aくんだけは一人で食事をしました。彼と一緒に食事をする人がいません。そこに同級生の女の子が来て、「Aくん一緒に食事をしよう」と声をかけました。

 あなたには一緒に食事をする友はおられますか?マタイには罪人と呼ばれた取税人仲間しかおりませんでした。誰も進んで彼と共に食事をしたいと願う人はいませんでした。彼は孤独でした。しかし、そのようなマタイに神様は進んで友達となり、一緒に食事をしてくださいました。神様は決してあなたを一人にはしません。あなたを愛して止まない神様は、あなたをたずねて探し出し、共に喜びの宴で食事をしてくださります。神はあなたを愛しています。この神様の愛に応える者となりましょう。
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by carbondalle1996 | 2014-10-28 06:11 | 日記 | Comments(0)

マタイの宴

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それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである。多くの取税人や罪人たちがきて、イエスや弟子たちと共にその席に着いていた。(マタイ9章10節)

 「それから、イエスが家で食事の席についておられた時のことである」とあります。ここをそのまま読むとイエス様が自分の家に人々を招待しているように読めます。しかしルカ福音書には、「それから、レビは自分の家で、イエスのために盛大な宴会を催した」とありますから、これはイエス様ではなくマタイが招待した宴であることがわかります。

 イエス様はマタイに向かって「わたしに従って来なさい」と言うと、マタイは全てを捨てて従いました。その日、マタイは自分の家にイエス様とお弟子たちを招き盛大な宴会をしたということがわかります。それはもしかしたらマタイにとって新しく生まれた魂の新生をお祝いする宴だったかもしれません。または収税人として最後のお別れ会だったのかもしれません。それはわかりません。わかっていることは、それは喜びの宴であり、そこに呼ばれた人々はみな収税人であったということです。昔から類は類を呼ぶと言いますから、収税人のマタイは収税人仲間をたくさん呼びました。

 マタイは宴会に集まった人々に何を語ったのでしょうか?それはきっと証しだったと考えられます。自分がレビと言う名でありながら、神様に背を向けて罪の生活を送ってきたこと。人々からは罪人と蔑まれてきた生活。抜け出そうにも抜け出せないでいた苦しさ。それは闇の生活であったこと。しかしそのような自分にイエス様が招いてくださり、闇から光へと導いてくださったことなどを語ったのではないでしょうか。

 イエス・キリストはあなたを闇から光へ、絶望から希望へと導いてっくださいます。このお方に従って歩む人生を送りましょう。
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by carbondalle1996 | 2014-10-27 07:28 | 日記 | Comments(0)

宗教改革記念日に思うこと

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 今月、大和教会で小さな事件が起こりました。若い信仰熱心な女性信徒さんがある聖会に出席し、その影響を受けてから「携挙」を強く信じるようになり、聖書の正しい教えから逸脱してしまいました。携挙とはイエス・キリストが再臨したときに、全ての聖徒が栄光の体に復活し、天に挙げられ主と出会うという聖書の教えです。これを強調しすぎると、「この人は熱心だから携挙されるが、あの人はそうでないから携挙されない」という論争が起こり、また「もうすぐイエス様が再臨し、携挙が起こるから礼拝に出席しても仕方が無い」等の誤った考えが生まれます。

 聖書は「イエス・キリストを信じるだけで救われる」とあります。もしこの教えでは不十分で「熱心でなければ」という文言を加えるならば、それは福音ではなくなります。救いは私たちの努力によって獲得する賞品ではなく、神様の恵みによって与えられるプレゼント。私達はただ、「イエス様私をお救い下さい」と告白すれば良いのです。秋田市内にもこうした間違った教えを説くキリスト教集会があります。そうした集会に出席する人々は、外見はとても熱心に見えますので、ご注意ください。実を見て見分けましょう。

 今週は宗教改革記念日。1517年10月31日にマルチン・ルターが、95カ条の質問状をヴィッテンベルク城教会の扉に貼り出しました。当時のカトリック教会では免罪符が売られ、免罪符購入によって天国の保証が与えられるとされていました。こうした誤った教えに対してルターは、聖書の教えに立ち返ること提言し、人は善行によって救われるのではなく、キリストを信じる信仰によって救われると訴えました。これが信仰義認。ルターの抗議(プロテスト)からプロテスタント教会が生まれました。

 カトリック教会とプロテスタント教会の違いは大きく3つあります。1つは信仰義認。1つは万人祭司。そしてもう1つが聖書信仰。カトリック教会の権威順序は次のとおりです。【神様>教会>聖書】 プロテスタント教会は【神様>聖書>教会】となります。つまりカトリック教会では聖書よりも教会に権威がありますが、プロテスタント教会では教会よりも神様のことばである聖書に権威があります。聖書は何と書かれているか。毎年、宗教改革記念日を迎えるこの時期は、聖書の教えに立ち返る良い機会となります。二千年のキリスト教史において正しい聖書理解は、誤った教えに対するブレーキとなります。礼拝に出席し、正しい聖書理解を学びましょう。

“聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。” (Ⅱテモテ3:16)

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by carbondalle1996 | 2014-10-26 23:53 | 日記 | Comments(0)

主はあなたを祝福したいのです

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 K先生は、高校に入学する前から進学したいと願っていた大学がありました。K先生の進学した高校から希望する大学へは指定校推薦制度があり、優秀な成績を取るとその大学に推薦入学できたそうです。ですからK先生は高校3年間一所懸命に勉強をしました。そして高校3年生の1学期の成績表が渡されました。K先生はその大学に推薦入学できる成績を取りました。K先生にはバラ色の大学生活が待っていました。後は高校を卒業するだけでした。ところがその年の夏休み、イエス様からチャレンジを受けました。それは献身へのチャレンジでした。

 進路について悩んだK先生は教会の牧師先生に相談しました。牧師先生が「神学校は大学を卒業してからでも遅くありません。今は大学へ進みなさい」と言ってくれたら問題なかったのですが、そのとき牧師先生は「高校を卒業したら神学校に入りなさい」とおっしゃったのです。K先生はそのとき内心、「ちょっと待ってください。先生は僕のこの3年間の努力を知らないからそんな簡単に言えるのです」と思ったそうです。そしてまたしばらく悩んだそうです。

 しかし、その年の夏休みに、K先生はイエス様からはっきりと献身への召しを受けました。そしてK先生は高校卒業後に神学校へ進む決断をしました。同級生たちは、「あいつは気がおかしくなった」と言ったそうです。「もったいない」と言う友達もいました。しかしK先生の人生を見るとどうでしょう。神様はK先生が手放した以上のすばらしい奇跡の数々をもってK先生の人生を祝福されました。

 あなたはイエス様のために何を手放しましたか?人々はそれを見て「もったいない」と言うでしょう。しかし、神様に捧げるのに「もったいない」ことは1つもありません。神様はあなたが捧げた以上に、いいえ100倍にも1000倍にもしてあなたの人生を祝福してくださいます。主はあなたを祝福したいのです。

さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。(マタイ9章9節)

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by carbondalle1996 | 2014-10-25 09:13 | 日記 | Comments(0)

手放す人生

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さてイエスはそこから進んで行かれ、マタイという人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ちあがって、イエスに従った。(マタイ9章9節)

 アルパヨの子レビ。ベン・アルパヨ・レビ。これがマタイの本名です。このレビにマタイという名前を授けたのはイエス様だと考えられます。ペテロの本名はヨハネの子シモンです。イエス様はシモンに岩という意味のペテロという名前を与えました。そして同じようにイエス様はレビにマタイという名前を与えたのだと考えられます。マタイとは「主の賜物」という意味です。

 マタイはこの日、全てを捨ててイエス様に従いました。彼はイエス様に従ったとき、収税人という地位を捨てました。その中には、いつも彼が収税所で使用していたペンも紙もあったでしょう。しかしやがてマタイはこのペンを用いてユダヤ人に向けた福音書、マタイ福音書を書き記します。イエス様が主の賜物と名付けた通り、マタイは自分が持っていた「書き記す」という才能を神様からの賜物として受け取り、福音書を書きました。

 私たちも同じです。私たちがイエス・キリストを知る以前は、獲得する人生でした。お金も、仕事も、富も、学歴、友人や良い仕事。すべて私たちの努力で掴み取ったものです。しかし、イエス・キリストに従う人生とは、逆に手放す人生です。主のために手に握っていたものを手放します。あなたはイエス様のために手放したものはありますか?

 今あなたが手放したものでも、時が来ると神様があなたに返してくださることがあります。イエス・キリストに従う人生とは、あなたが手放したものが、いつか神様の栄光ために、あなたの賜物として神様から用いられる時が来ます。そしてあなたがあなた自身を手放す時、神様があなたを栄光の器として用いてくださるのです。
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by carbondalle1996 | 2014-10-24 05:34 | 日記 | Comments(0)

遠く離れて立つ罪人

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 私はマタイの献身の箇所であるマタイ9章を読みながら、ルカ福音書18章の取税人でイエス様が語られた譬え話を思い起こしました。

「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。

 ここで書かれている取税人がマタイだという記述はありませんが、マタイもきっとこの取税人のように自分の罪に悩んでいたと思います。全てをご存知おられるイエス様はそのようなマタイに向かって「わたしに従ってきなさい」と言われました。イエス様はいつもこのように弟子たちを招きます。ペテロもアンデレもこのイエス様の言葉を聞いて、網を捨ててイエス様に従いました。同じようにマタイも立ち上がって、イエス様に従ったとあります。

 この世の物差しで計るとペテロやアンデレが捨てた網とマタイが捨てた収税人という地位は大きく違います。ペテロたちはいつでも網を持って漁に戻ることができましたが、マタイは高額なお金を投じて収税人という役職を購入しました。やっぱりやめたと言って再び収税人になることはできません。マタイはこのとき全てを捨てたのです。そしてイエス様に従うとは、自分が手放した価値以上のものがあると信じたからです。

 イエス様は今も生きて働かれます。私たちの心をじっと見ています。そして私達一人一人に「わたしに従ってきなさい」と語ってくださいます。そのとき私たちも、手に握っているものを手放してイエス様に従って行きましょう。私たちがイエス様に従うと時、イエス様は私たちが手放したものをはるかに超える大きな祝福を与えてくださいます。祝福ある人生を歩みましょう。
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by carbondalle1996 | 2014-10-23 08:32 | 日記 | Comments(0)

マタイの証し

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さてイエスはそこから進んで来られ、私が収税所にすわっているのをじっと見て言われた。「わたしに従ってきなさい」。そのとき私は立ちあがって、イエスに従った。


 これがマタイの証しです。その日、マタイはいつものように通りに机を置いて、ペンを走らせて一人一人から通行税や物品税を徴収し、帳簿に記載していたと思います。人々から悪口や雑言を言われ、罵られ、軽蔑されたいたマタイ。そのようなマタイのもとにイエス様の方から近づいて来ました。イエス様はマタイが収税所で座って仕事をしていた姿をチラッと見たのではありません。ルカ福音書では「テアオマイ」というギリシア語が使われています。その意味は「じっと見る」「凝視する」です。イエス様はマタイをじっと見つめました。

 さて、イエス様とマタイは知り合いだったのでしょうか。わかりませんが、そこはカペナウム。かつてイエス様が山上のメッセージを語った場所です。イエス様が「心の貧しい者は幸いなり。天国は彼らのものなり。」と語ったとき、その群衆の中にマタイはいたと思います。遠くからずっとイエス様をマタイは見ていたのではないでしょうか。そしてイエス様も飢え渇き、神を求めるマタイの貧しい心をじっと見ていたのではないでしょうか。

 イエス様は私たちの外側ではなく内側を見ておられます。チラッとではありません。じっと見ておられます。私たちの悲しみ、悩み、苦しみ。私たちがどんなに外では平気な顔をして、強がっても、私たちが誰にも見せない弱さを見ておられます。イエス様はあなたのすべてをご存知です。あなたの方からイエス様に近づかなくても、イエス様の方からあなたに近づいてくださいます。そしてあなたを救ってくださいます。あなたもどうぞ今日、イエス様を心にお迎えください。

 
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by carbondalle1996 | 2014-10-22 06:19 | 日記 | Comments(0)