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5つのパンと2匹の魚

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わたしのためではなく

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イエスは女たちの方に振りむいて言われた、「エルサレムの娘たちよ、わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のため、また自分の子供たちのために泣くがよい。(ルカ23章28節)

 イエス様が十字架を負ってゴルゴダの丘へ行く途中に、女性の弟子たちに逢いました。彼女たちはイエス様の姿を見て泣きだしました。彼女たちは「どうしてイエス様が十字架に架からなければならないのか」と泣きじゃくったのだと思います。彼女たちの名前は記されておりませんが、イエス様の十字架を見たマグダラのマリアと、イエスの母マリアだったかもしれません。

 そのときイエス様は、「わたしのために泣くな。むしろ、あなたがた自身のために泣きなさい」と言いました。十字架は他人事ではありません。イエス様が可哀そうだと思っていたら、何時まで経っても十字架の出来事は自分のものとなりません。クレネ人シモンもそうですが、十字架を第三者の立場で見るならば、いつもだも十字架は自分自身の体験となりません。

 私たちが自分の罪のために泣いたとき、初めてイエス様の十字架が私の罪の身代わりだったと感謝できるのです。十字架を通して私たちは神様の愛を知るのです。正義なる神様は罪を裁かずにおれません。愛なる神様はどこまでも人類を赦し救いたい。この神様の葛藤がイエス・キリストの十字架上で成就しました。十字架は神の正義と神の愛が激しくぶつかったもの。

 イエス・キリストの十字架は私の罪の身代わりです。そして私たちは自分の罪のために泣く者となります。
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by carbondalle1996 | 2015-03-31 06:47 | 日記 | Comments(0)

クレネ人シモン

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”彼らがイエスをひいてゆく途中、シモンというクレネ人が郊外から出てきたのを捕えて十字架を負わせ、それをになってイエスのあとから行かせた。”(ルカ23章26節)

 イエス様が十字架に架かる前に一人の男性が登場します。それはシモンというクレネ人です。クレネは北アフリカにあるユダヤ人居住区の地名です。クレネから大勢のユダヤ人が過越の祭りを祝うためにエルサレムに上っていたのでしょう。このときシモンの目の前に十字架を背負ったイエス様がいました。イエス様は十字架の横木を担いで歩いていましたが、激しいムチ打ちの後だったのでイエス様は歩けずに倒れます。それを見ていたローマ兵がそばにいたクレネ人シモンに無理やり十字架の横木を背負わせました。

 シモンは思ったことでしょう。「どうして俺がこんな奴の十字架を代わりに背負わなければならないのか」と。人はだれでも皆、十字架に対して他人事です。自分には関係無い。自分は知らない。しかし、二千年経った私たちクリスチャンにとって、イエス様の十字架を担うことができたシモンは人類の中で最高の栄誉だと考えます。ですから世界中のクリスチャンはエルサレムに行くとヴィア・ドロローザ「悲しみの道」を、十字架を背負って行進します。それは自分もイエス様の担がれた十字架を背負いたいからです。

 シモンはこのときわからなかったでしょう。自分が神の御子イエス様の十字架を背負っていることを。しかし、聖書を読むとシモンの子供たちが教会に忠実に仕えたことを思わせる記事があります。クレネ人シモンは、この後十字架上のイエス様の言葉を聞き、回心したと思います。十字架の目撃者となったローマ兵は、「まことにこの方は、神の子であった」と告白しました。その告白の中にシモンもいたことでしょう。

 かつてイエス・キリストの十字架は、私たちにとっても他人事でした。自分には関係ないと考えました。しかし、私たちは目が開かれて、イエス・キリストの十字架は私の罪の身代わりであったと知りました。クレネ人シモンの経験がそのまま私自身の体験と重なったのです。それは全てイエスは主と告白する者が同じく体験することだと思います。ハレルヤ!
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by carbondalle1996 | 2015-03-30 06:33 | 日記 | Comments(0)

誰がための十字架

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 神様は天地万物を創造し、人を神様に似せて造られました。最初の人アダムとエバはエデンの園で神様と共に歩む生活をしていましたが、そこに蛇の姿をしたサタンが近づきました。サタンはエバを誘惑し、神様が食べてはいけないと言った「善悪を知る知識の実」を食べてしまいました。その結果アダムとエバの中に罪が入りました。

 やがてアダムとエバに入った罪は全人類に蔓延し、世は神様の前に乱れて暴虐が地に満ちました。神様は人を造られたことを悔いて、全人類を滅ぼす決心しました。しかしノアは神様の前に正しい人であったので、ノアとその家族だけを救いました。これがノアの箱舟です。神様は大洪水によってノアの家族以外を滅ぼして人類の歴史をリセットしようとしました。ところが自分が選んだノアの子供たちの中に罪が入っていることを見ました。やがてノアの子孫から再び暴虐が地を充たしたことを見ます。

 私たちのDNAは子供に受け継がれます。医学的にがん患者の多くは、親が同じようながんに懸っているそうです。アメリカの有名な女優のアンジェリーナ・ジョエリーさんは乳房を切除しました。それは自分の母親の家系が代々乳癌だったからだそうです。これと同じように罪というのも親から子供に転移します。恐ろしいことにこの転移率は100%です。

 神様は大洪水によって人類をリセットしたつもりでしたが、ノアの子孫に罪があることを見たとき、人類を滅ぼすことによっては罪の問題は解決しないと考えました。ではどうすれば人間の中にある罪を取り除くことができるでしょうか。もう一度全人類を滅ぼして、最初からアダムとエバを再創造するのでしょうか。神様は人類を滅ぼすのではなく、身代わりとなって罪を贖う方法を取りました。そのために神様は救い主イエス・キリストを地上に送りました。

 イエス・キリストの十字架は、私たち人間に与えられた罪の問題を解決する唯一の方法なのです。あなたは自分の中に罪があることを認めますか?イエス・キリストの十字架はあなたの罪のためです。この方を今日もあなたの心にお迎えください。
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by carbondalle1996 | 2015-03-29 19:49 | 日記 | Comments(0)

パスカルの回心

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 パスカルとはどんな人だったのでしょうか。私たちは数学や物理学でパスカルの定理などを学んだ経験があります。パスカルはいろいろな物理学の定理や法則を発見しました。一番私たちに理解しやすい法則として、三角形の内角の和は180度であるというもの。この法則をパスカルは10歳にならない少年の時に発見したと言いますから、パスカルがいかに天才であったかがわかります。彼はその才能から当時のフランスの上流社会や社交界にデビューします。

 しかし、28歳の時に転機が訪れました。最愛の父が亡くなり、姉が結婚し、妹は修道院へ入ります。今まで家族に支えられて生きて来たパスカルが一人ぼっちになってしまいました。フランス社交界での華やかな生活も彼にとってはなぐさめになりませんでした。こうして世捨て人のようになってしまったパスカルは、修道院に入った妹の下へゆきます。そのときのパスカルの状態を妹はこう書いています。

 自分は現世に深い嫌悪を感じている。しかし、自分は神に全く見離されており、神の方からの招きを何も感じない。全力をつくして神に向おうとするが、自分を最善のものに向わせる力は、自らの理性と精神であって、神の霊の働きではない。自分のまわりのものに執着のなくなった今、もし以前と同じように神を感じることができるなら、どのようなことも可能なのだが。」

 パスカルに回心という現象が起ったのは、兄妹の間にこうした問答がかわされてから二ヵ月たった11月23日の夜十時半頃であった。この回心については、その体験を記した「覚え書き」はパスカル死後、召し使いが彼の胴衣の裏に厚くなっているところがあるのを見つけて、不思議に思ってほどいた所、故人自筆の羊皮紙と紙片各一枚が折りたたまれて入っていたものである。羊皮紙は紙片の清書であった。彼が自分の決定的回心の体験を常に思い起こすために縫いこんであったものである。彼の死後、胴着に縫い込んだ羊皮紙のメモが発見されなければ、誰も知ることがなく終った筈である。

一六五四年 十一月二三日 月曜日、
・・・夜十時半頃から十二時頃まで。
   火
「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」
哲学者や、学者の神ではない。  
確実、確実、感情、歓喜、平和、  
イエス・キリストの神。
「わたしの神、またあなたがたの神。」
「あなたの神は、わたしの神です。」  
この世も、何もかも忘れてしまう、神のほかには。
神は福音書に教えられた道によってしか、
見いだすことができない。  

 パスカルは咄嗟に火の正体が神ご自身であることを理解したようです。つまりパスカルはこの日、聖霊の火の体験をしました。この状態が夜10時半頃から12時頃まで1時間半ほど続いたようです。そしてパスカルは「確実、確実、感情、歓喜、平和」という単語を羊皮紙に書き綴りました。パスカルはこの聖霊体験の後に修道院に入り、信徒として訓練を受けました。それからは今まで以上に熱心な信仰生活を送りキリスト教弁証論などを書いています。そして39歳の若さで天国へ帰りました。

 病床のパスカルはいつも頭の中で考えていたことは神様だったのです。パスカルが「人間は一本の葦にすぎない。自然の中でいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である」と書いた背景には、パスカル自身のそのような体験があったのです。
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by carbondalle1996 | 2015-03-28 19:32 | 日記 | Comments(0)

人間は考える葦である

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 パスカルは、パンセという「瞑想録」の中で「人間は一本の葦にすぎない。自然の中でいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である」と述べています。人間は、自然のなかでも弱い、かぼそい、一茎の葦にすぎないと言うのです。それは第一に、人間は一人では生きられないということでしょう。第二には、傷つき易く、折れ易い存在だということであり、第三には、保護、守りを必要とするということではないでしょうか。

 パスカルがこの言葉を書いたとき、彼の頭のなかにイザヤ42章の言葉があったのは間違いないとされています。パンセを読むと、パスカルは、この宇宙の中で地球さえも、さらには天体の運行さえも、宇宙全体の中では小さいものであり、ましてや人間存在などなんと小さいことかと考えます。それはまるで一本の葦のようだ、いつ折れるか、いつ傷つくかわからない弱くもろいものに過ぎないと考えます。

 しかしパスカルは言うのです。人間は弱く小さな存在だけれど、しかし神さまを考えることが出来る、と。ここで考えるとは、頭でひねくりまわして研究することではありません。どんなに弱く、もろく、折れそうなときでも、消えそうなときでも、神さまの救いの働きを思うことができる。

 心に傷を負っていない人はいません。誰もが立派な葦ではなく、新品で輝く燈心ではありません。誰もが傷ついて、もう折れてしまいそうな、弱い葦です。これ以上輝くことができないくすぶる燈心です。しかしイエス様は、そのような私たちに触れて、傷んだ私たちに寄り添ってくださる方。

 消えそうな私たちの信仰生活に、「もっと頑張れ、もっと輝け」と迫るのではなく、信仰の燈心を消すことなく、私たちに向かって「大丈夫だ、わたしがあなたと共にいるから大丈夫だ」と優しく声をかけてくださるお方です。イエス様が弱い私たちと共に歩んでくださるから、私たちは今日も一歩を踏み出すことができます。私たちは、イエス様によって新しい命によって生かされているのです。イエス・キリストは今日もあなたと共におられます。
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by carbondalle1996 | 2015-03-27 06:27 | 日記 | Comments(0)

くすぶる燈心

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”いためられた葦を折ることがなく、
       煙っている燈心を消すこともない。” 
                          (マタイ12章20節)


 当時、イスラエルでは、パピルスの茎で籠を作っていました。虫が食ったものや傷の付いた材料は使い物になりませんから、パピルス職人はそのようなものを見つけると折って捨てていました。折るのは、良いものと混ざらないように区別するためでした。

 煙っている燈心、新改訳では「くすぶる燈心」と訳されています。私は以前、小さなろうそくに火を灯し、音楽を聞きながらぼんやり灯りを眺めていました。3時間ほどで火は消えるのですが、私はもっと燃えてほしいとローソクのロウを加えましたが、一旦消えかかった燈心はなかなか新品のようには灯りません。つまり燈心として役に立たなくなります。

 傷んだ葦も、くすぶる燈心も人々から役立たず、価値の無い物として捨てられてしまう物の象徴です。安息日に会堂で右手のなえた人がいました。パリサイ人や律法学者は、彼が癒されるよりも安息日に労働をしないことを善いとしました。それが彼らにとっての右手のなえた人の存在価値でした。なんと軽いものでしょうか。

 足がなえて立てない人、目が見えない人、口がきけない人、病気でずっと寝込んだ人。そういった人々は当時のユダヤ社会から何の生産性がない、社会の役に立たたない、価値の無い者として見られ、扱われておりました。そのような人々に対してイエス様は、あなたは高価で尊い、神様はあなたを愛していると言わんばかりに彼らを癒したのです。

 それは彼らの病気の身体を健康にした以上に、彼らの傷ついた心を癒し、彼らの心に神様の希望の光を灯しました。傷んだ葦を折るのではなく、傷を癒して再び籠造りの葦とし、煙る燈心を再び燃えて輝く新しい燈心として再創造されたのです。彼らはキリストにあって全く新しくされたのです。それはこの地に神の国をもたらすためだと聖書は言います。

 あなたは自分はもう駄目だ。もう存在価値が無いと考えていませんか。神様の目には、あなたは高価で尊い存在です。イエス・キリストに在るならば、あなたも新しく造られます。イエス様をあなたの心に迎え入れましょう。神様はあなたを愛しています。
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by carbondalle1996 | 2015-03-26 06:13 | 日記 | Comments(0)

傷んだ葦

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これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。(マタイ12章17~21節)

 これはイザヤ書42章の預言の成就だとマタイは言いました。どうしてこの安息日に人々を癒した出来事がイザヤ書42章の預言の成就なのでしょうか。例えば、イザヤ書35章にはこのようなメシヤ預言があります。

その時、見えない人の目は開かれ、聞えない人の耳は聞えるようになる。その時、足の不自由な人は、しかのように飛び走り、口のきけない人の舌は喜び歌う。(イザヤ書35章5~6節)

 イエス様は大勢の人々の病を癒されたのですから、このイザヤ書35章の預言が成就したというのならば理解できます。しかしマタイは、イザヤ書42章の預言「いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない」の成就だと言いました。傷められた葦、煙っている燈心とは何でしょうか。

 私が小学生の頃、荒川沿いのグランドで野球をしました。バッターがホームランを打つと、ボールは荒川沿いに茂った葦の中に落ちます。するとみんなで野球を一時中断して葦の茂みに入り、ボール探しをしました。一旦、葦の茂みにボールが入るとなかなか見つかりません。私は何度、葦の茂みにボールを無くしたか知れません。私たちは何度、ここに葦の茂みが無かったらと思いました。

 当時、イスラエルでは、パピルスの茎で籠を作っていました。虫が食ったものや傷の付いた材料は使い物になりませんから、パピルス職人はそのようなものを見つけると折って捨てていました。折るのは、良いものと混ざらないように区別するためでした。

 私たちの社会は使いものにならない、生産性のないものは役に立たないと捨ててしまいます。傷んだ葦が籠を作る材料に適さないと捨てられるように、役に立たない人を社会は捨ててしまいます。そのような傷んだ葦をイエス様は折ることもせず、大切なものとして触れてくださいます。傷んだ葦とは私であり、あなたです。神様の目にはあなたは高価で尊い存在です。神様の愛を今日も受け止めて行きましょう。

 
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by carbondalle1996 | 2015-03-25 06:06 | 日記 | Comments(0)

正しいことは・・・

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イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。 人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。(マタイ12章11~13節)

 羊飼いにとって羊は大切な動物です。どれほどたくさんの羊を所有していたとしても、一匹の羊は尊い存在です。その一匹の羊が穴に落ちて困っているとしたら、今日は安息日だから明日助けてあげようと言う羊飼いはいるでしょうか。羊飼いであるならば、安息日であっても一頭の羊を穴から救いだすはずです。イエス様も同じです。右手のなえた人に向かって「明日私の所に来なさい」とは言えませんでした。なぜなら、イエス様にとってもその人は尊い存在だからです。

 イエス様は「人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」と言いました。これがイエス様の答えです。良いことをするのは、正しいことである。パウロはエペソ人への手紙でこう書いています。「わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。」

 安息日であっても、安息日でなくても、私たちが良いことをすることは正しいことなのです。イエス様はパリサイ人や律法学者だけではなく、会堂にいた全ての人々にこの神様の真理を伝えたかったのだと思います。こう言ってからイエス様はこの右手のなえた人の手を癒されました。そしてイエス様は会堂を去りましたが、大勢の人々が着いて来たので、イエス様は彼らの病気をみな癒されました。

 あなたは神様の作品であって、良い行いをするために神様によって創造されました。あなたの手は倒れた人を助け起こすためであり、あなたの足は助けを必要としている人の傍らに走り寄るためです。あなたの肩はくずれた人をにその肩を背負うためです。あなたは良い行いをするためにキリスト・イエスにあって創られたのです。
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by carbondalle1996 | 2015-03-24 05:15 | 日記 | Comments(0)

ときには正面から

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イエスはそこを去って、彼らの会堂にはいられた。すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。(マタイ12章9~10節)

 イエス様は安息日に会堂に入られました。ルカ福音書には、「イエス様が会堂に入って教えておられたところ、右手のなえた人がいた」とあります。会堂内にいたパリサイ人や律法学者は、イエス様を訴える口実を探していました。そこでイエス様がその右手のなえた人をいやすかどうか見張っていました。

 安息日に働くことを律法学者たちが作った口伝律法は禁止していました。畑に入って穂を摘んで食べることが、収穫と脱穀と貯蔵という3つの労働をしたと見なされ、律法違反の罪に問われます。ですから安息日に片手のなえた人を癒すというのは、病人を治したという労働と見なされ、これも律法違反の罪となります。ルカ福音書には、イエス様は彼らパリサイ人や律法学者の思っていることを知っていたとあります。イエス様が安息日に病人を癒したら、きっとまた「あなたは安息日にしてはならないことをした」と言って非難するつもりだったのでしょう。イエス様はそうした彼らの思いを知っておられました。

 イエス様はパリサイ人や律法学者の思いを知っていたから、こうした論争を避けることもできました。右手のなえた人に向かって、「安息日が終わったら私の下に来なさい。私が癒してあげよう」と言うこともできました。しかしイエス様はそのような方法は取りませんでした。

 時に私たちは他者との不必要な論争を避ける智恵が必要です。しかし、時には正面から「それは間違いだ」と相手に指摘する勇気も必要です。人を恐れず、神様のみを畏れて歩む大切さを考えます。自分自身にとって、今は論争を避けるとこか、それとも正面から相手の間違いを指摘すべきであるか。それは神様に聴くべき領域です。自分の思いではなく、神様の御心がなされるように今日も御言葉に聴き従い歩みましょう。
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by carbondalle1996 | 2015-03-23 06:05 | 日記 | Comments(0)

聖書の中にある宝物

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 創世記12章からスタートした私たちの祈祷会も、今週でラストの50章を迎えます。アブラハムが行く所知らずして旅立った信仰の旅。私たちもアブラハムと共にこの1年間の旅をしてきたような気持です。聖書の中にはたくさんの宝が隠されている。これは私の持論です。私は毎週の祈祷会で聖書に隠された宝を発見しては、一人でムフフ・・と笑っております。また祈祷会に加えられた兄弟姉妹の感想を聞くことで、私自身気づかなかった宝物に気づかされる事もあります。こうして聖書を読むことがまるで宝探しゲームのようでワクワクします。先週の祈祷会では次のような宝を発見しました。

  “そこにアブラハムと妻サラとが葬られ、
   イサクと妻リベカもそこに葬られたが、
    わたしはまたそこにレアを葬った。” (創世記49章31節)


 ヤコブは妻のレアを祖先が眠る墓(マクペラの洞穴)に葬りました。ヤコブにとって祖父母アブラハムとサラが眠り、両親であるイサクとリベカが眠る祖先の墓に妻レアを葬ることは、レアをこの一族の正統な嫁としたことを意味します。そしてヤコブ自身もそこに葬ってほしいと遺言します。ヤコブの正妻はラケルですが、結果として先祖の墓に加えられたのはレアでした。ここにも神様の御手あるように思えます。

 レアとラケルは姉妹ですが、同時にヤコブの妻となりました。夫から愛された妹のラケルに対し、姉のレアは夫のヤコブから十分な愛を注がれませんでした。レアは夫の愛情を自分に向けようと子供を産んで妹のラケルと張り合います。その結果、レアはヤコブに6人の子を産みましたが、ラケル以上に愛されることはありませんでした。しかし神様はレアを祖先の墓に葬り、レアの産んだユダからイエス・キリストを誕生させたのです。つまり神様はレアを祝福し、彼女をヤコブの正妻としたのです。

 このように聖書の中には、今まで気がつかなかったような聖句がたくさん隠されています。そのような宝を一つ一つ発見すると神様の愛がいかに大きく、広いかがわかります。今週の祈祷会で創世記は終了し、来月からはいよいよ出エジプト記です。聖書の中で最も重要な書物は、出エジプト記だと私は神学校で学びました。どうして出エジプト記が聖書で最も重要な書物なのでしょうか。その答えもまた、聖書の中に隠された沢山の宝物を発見しながら見つけたいと思います。ハレルヤ! 

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by carbondalle1996 | 2015-03-22 23:38 | 日記 | Comments(0)