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5つのパンと2匹の魚

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文月

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【今日のみことば】わたしは取るにたらない者で、人に侮られるけれども、なお、あなたのさとしを忘れません。 (詩編119:141)
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by carbondalle1996 | 2015-07-31 04:48 | 日記 | Comments(0)

新生のための土台

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 キリスト教は道徳的な宗教だという指摘があります。確かにキリスト教を信仰することによって、乱暴だった人が柔和な人になったり、親兄弟や友人に迷惑ばかりをかけていた人が、親切な人に変えられたという証しもあります。そのためある人は、キリスト教は十字架を思い起こすことによって、人々の思考を変える宗教だという人もいます。キリストの十字架を思い起こすことによって、人々に悔い改めと、思考の変化をもたらすというものです。

 しかし神様はイエス・キリストを十字架に架けることによって、私たち人間の思考を「変革」しようとされたのではありません。神様はイエス・キリストを十字架に架けることによって、私たち人間を新しく生まれさせようとされたのです。これが「新生」です。英語でNew Bornと言います。イエス様は「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言いました。神様は十字架によって私たちに「新生」のための土台を提供してくださったのです。

”だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。”(第二コリント5章17節)
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by carbondalle1996 | 2015-07-30 06:01 | 日記 | Comments(0)

唯一の道

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 聖書は2つの事を私たちに教えています。1つ目は、神様はどのような方であるかということ。神様は天地万物を創造された創造主なるお方で、唯一なるお方。ですから日本人が考えるような八百万の神々とは違います。そして全智全能なるお方です。ですから日本の神々のように分業制の神様ではなく、この神様に全ての解決があります。

 そして聖書が教えている2つ目の大切なことは、この全智全能なる神様に私たち人間がどのように近づくことができるのかということです。イエス・キリストの十字架は、私たち人間が神様に近づく唯一の道。イエス様の十字架の贖いによって私たちの命の代価は主御自身が支払ってくださいました。

 自分がイエス様によって贖われたと信じる者は救われます。十字架は私たちが全能の神様に近づく唯一の道です。

 ”神は唯一であり、神と人間との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。”(Ⅰテモテ2章5節)
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by carbondalle1996 | 2015-07-29 07:03 | 日記 | Comments(0)

食後のケーキ

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          S兄の東京土産


          美味しいカステラでした


          大和教会の礼拝に参加した後


          青年会で横浜中華街に行かれたとか


          恵まれたお交わりだったそうです


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          こちらはH姉の差し入れ


          とっても美味しいケーキでした


          祈りの家の食事も豪勢ですが


          食後のデザートも


          とっても豪華でした


          神様に感謝!
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by carbondalle1996 | 2015-07-28 06:31 | 日記 | Comments(0)

ひとしな出し忘れたー!

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          昨日の教会のランチは


          冷やしうどん


          具がたくさん載って


          とても美味しかったです


          今日も満腹と感謝に満ちて


          家路に就きました


          夕方家の電話が鳴りました


          I姉からでした


          「今日のランチに1品出し忘れたー!」


          とのことでした


          「えー!あれ以上まだ具があったの?」


          実はあそこに鶏肉が


          加えられる予定だったそうです


          いつもながら


          教会のランチは贅沢です


          これで300円とは!
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by carbondalle1996 | 2015-07-27 05:58 | 日記 | Comments(0)

水を汲む女性

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 聖書を読むと女性が水を汲みに井戸に来る場面によく出会います。我が家では、水を汲むのは私の担当です。毎週、日曜日と木曜日に近所のスーパーへ行き、純水を汲んで帰ります。我が家も二千年前に生まれていれば、水を汲む仕事は妻の担当になっていたのかな?と考えたりもします。どうしてイスラエルでは「か弱い」女性が水を汲みに行き、「力強い」男性が水を汲みに行かなかったのでしょうか。 本当に強いのは女性だということを神様が知っていたからでしょうか?

 その理由は男女の身体の違いにあるそうです。女性はヒップを中心にバランスを取るため、重い水を頭の上に乗せても上手にバランスをとって歩くことができ、両手もフリーとなります。しかし男性はヒップが小さいためバランスを取れず、頭の上に水を置いても、手で押さえないと歩けません。何キロもの道のりを、重たい水を両手で支えながら歩くことは並大抵のことではありません。そのため、昔からイスラエルでは水汲みは「か弱い」女性の仕事だったようです。

 イスラエルを旅行すると、エルサレムの北と南では水事情も大きく違うことに気づきます。イスラエル北部のガリラヤ地方やエリコなどは比較的水が豊かで作物がたくさん実っているのを見ます。ところがエルサレムから南に下るとネゲブ砂漠が広がり、植物を目にする機会もずっと減ります。そのようなネゲブ砂漠の中を車で走っていると、突然エンゲディという看板が目に飛び込んできます。この場所は、ダビデが詩篇42篇の中で「神よ、鹿が谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」と歌った場所です。

 なぜ「慕いあえぐ」という言葉が使われているのか。それほどに水がなく、緑のない土地だからです。水がない所で、渇ききった喉を潤すために、あえぐ思いで水を探すことは、水の豊富な日本では想像できないことです。ダビデは水を慕いあえぐように神御自身を慕いあえぎました。それはダビデ自身がサウル王に追われ、命の危険に迫られた状況下で、神御自身を慕いあえぐものだったのです。

 人生には多くの困難や問題があります。しかし「荒野で主の恵みを得た」とあるように、私たちは荒野を通ったからこそ主に出会うという経験をします。なぜなら私たちは、荒野を通らなければ主に依り頼むことをしないからです。そのように考えると、今の苦難や問題も主に出会うための試練として、私たちは感謝して受け止めることもできるのではないでしょうか。マイナスは必ずプラスになります。ハレルヤ!
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by carbondalle1996 | 2015-07-26 07:23 | 日記 | Comments(0)

ヨム・キプール

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その二頭のやぎのために、くじを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためである。(レビ記16章8節)

 ヨム・キプールとは「贖罪の日」、「罪を覆う日」です。ユダヤ人は7つの大切な祭りを毎年守っています。過越の祭(3月)、七週の祭り(5月)、仮庵の祭(9月)。これがユダヤ三大祭です。これ以外に、新年祭と贖罪日(ヨム・キプール)が9月。そして12月に光の祭と呼ばれるハヌカの祭。そして2月にはエステル記で有名なプリムの祭があります。これらは旧約聖書に記された祭りです。

 この7つの祭りの中で最も厳粛な祭りと呼ばれているのが、このヨム・キプールと呼ばれる贖罪の日です。現在でも90%以上のユダヤ人がこのヨム・キプールに断食し、シナゴーグへ行きます。今はしませんが、二千年前にエルサレムに神殿が建てられていたとき、大祭司は重要な儀式をこの日にしていました。

 二頭の山羊を神殿に運びます。そして大祭司はくじを引きます。1つのくじには「主の為」と書かれています。もう1つのくじには「アザゼルのため」と書かれています。このアザゼルとはどういう意味なのかユダヤ人もわかりません。わからないけれどもそのようにくじに書いて行っていました。

 「主のため」というくじが当たった山羊は、大祭司によってほふられて殺されます。その血をもって至聖所の祭壇にふりかけます。もう一頭の「アザゼルのため」というくじが当たった山羊は、その場で開放されて荒野へ逃がします。逃がされた山羊は二度と神殿に戻ってきません。

 「主のため」とほふられた山羊は、罪の犠牲となりました。そして「アザゼルのため」という山羊が荒野に放たれることは、犠牲が捧げられたから神様はもう私の罪を思い出さないという意味を表しています。これはキリストの十字架のひな形です。イエス様の十字架の贖いによって私は罪赦され、死から開放され永遠の命に預かりました。イエス様を信じる者はみな救われます。
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by carbondalle1996 | 2015-07-25 22:07 | 日記 | Comments(0)

罪を覆う十字架

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 贖うというヘブル語の本来の意味は「覆う」という意味。例えば、私が転んで足をすりむいたとします。最初にすることは何でしょうか。消毒です。傷口を水で洗って消毒します。次にすることは何でしょうか。私は赤チンを塗りますが、我が家に赤チンがないのでマキロンを塗ります。そして最後に何をしますか。傷口にバンドエイドを貼ります。

 これと同じように旧約時代にイスラエルの民が罪を犯して犠牲の動物の血を流して自分の罪を贖うという意味は、動物の血によって自分の罪を覆うという意味なのです。これは一時的ですから、彼らは毎年動物の犠牲によって罪を覆ったのです。いつまで犠牲の動物を捧げなければならなかったのでしょうか。完全な贖いがなされるまでです。それがイエス・キリストの十字架の血です。レビ記17章11節の聖句はそのことを啓示しています。

”肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。”

 私の友人がこう言いました。「キリスト教は血を流すから日本人に馴染まない。血を流すキリスト教は野蛮だ。」これも贖いを知らないゆえに起こる勘違いです。贖いの本当の意味を知るならば、それは野蛮ではなく神様の愛であることを知るのです。

 
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by carbondalle1996 | 2015-07-24 05:53 | 日記 | Comments(0)

血は血によって贖われる

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 聖書66巻の中で最も重要なのは、律法の書と呼ばれるモーセ五書。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。このモーセ五書には律法が記されており、その数は613の戒めがあります。そのモーセの律法の精神を要約していると言われている聖句がレビ記17章11節です。

肉の命は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、あがないをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は命であるゆえに、あがなうことができるからである。(レビ記17章11節)

 ここで「肉の命は血にあるから」とあります。血は血によって贖われる。これがモーセの律法の精神を要約している言葉です。罪を犯したらどうするか?イスラエルの民は罪を犯したらどうしたでしょうか。生贄となる動物を犠牲として殺して血を流して、自分の犯した罪の贖いとしました。

 ここで贖いという言葉が出てきましたが、日本人にはなじまない言葉です。なぜなら日本の文化に贖いというものが無いからです。あるとき伝道集会に婦人の方が来ました。彼女は伝道集会が終わって、怒って帰ってしまいました。彼女は「義人が十字架に架かって罪人の贖いとなって、罪人の罪が赦されたというのはおかしい。私は自分の罪は自分で責任を持ちます」と言ったそうです。

 この婦人の間違いは何でしょうか。それは自分の犯した罪に気づいていないという間違いです。もしくは自分が犯した罪は小さく、わずかなものだから、自分で責任を取れると考えたのです。このように考えている人は多いと思います。ですから贖いがわからないのです。贖われる必要など無いと考えているからです。

 あなたは自分が犯した罪をどのように考えていますか。警察に捕まったことも無いし、特に悪いこともして無いし、天国へ行けると思う。こう答える人が多くいます。しかし、神様の視点で見たらどうでしょうか。私たちの罪はあまりに多く、自分では負えないほどなのです。神様の視点から自分自身を視ることが大切です。
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by carbondalle1996 | 2015-07-23 03:35 | 日記 | Comments(0)

十字架こそ唯一の道

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 聖書が示す神様は、日本人が好む八百万の神々ではなく、分業制の神々ではなく、天地万物を創造された創造主で、唯一真なる神様で、全智全能なる神様だと言いました。ところが日本人というのは、この唯一というのが嫌いです。日本人は和の文化です。

 聖徳太子の定めた十七条の憲法の第一条に「和を以て貴しとなす」とあるように、これが日本人の精神に受け継がれているのかもしれません。大和というやまとことばを漢字で「大和」と書くのは、和を尊ぶ思想から来ているのかもしれません。

 私はアメリカから帰国して、「そうだ親戚のおじさんにもイエス様を伝えよう」と思いました。おじさんの家に行って、自分がアメリカに留学してそこで洗礼を受けてクリスチャンになったこと。イエス様が私の罪の身代わりとなって十字架に架かられたこと。そしてイエス様を信じて救われたことを話しました。するとおじさんは怒ってこう言いました。「宗教は嫌いだ。だいたいキリスト教以外に救いが無いというのはおかしい。そういうことを言うから宗教間で戦争が起こるんだ。」

 よく言われる考え方として、富士山の登山口はいくつかあっても、行き着くところは同じであるように、宗教も入口がいろいろあるけれど、行き着く神様は同じだという考えがあります。もし本当に救いに至る道がいくらでもあるならば、イエス・キリストの十字架は無意味なものとなってしまいます。それでは十字架は無意味なものでしょうか。いいえ、そんなことはありません。イエス・キリストの十字架こそ天国へ行く唯一の道です。
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by carbondalle1996 | 2015-07-22 06:48 | 日記 | Comments(0)