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5つのパンと2匹の魚

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シドンを経てデカポリス地方を通りぬけ

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イエスはそこを去って、ガリラヤの海べに行き、それから山に登ってそこにすわられた。(マタイ15:29)


イエス様はガリラヤ伝道からしばらく退いてツロとシドンの地方に弟子たちと退きました。そこは今のレバノンで当時はフェニキヤと呼ばれていました。レバノンは秋田県と同じくらいの広さで秋田と同じ杉の産地で有名だというお話をしました。私たちは家を建てるときに秋田杉を使いますが、ソロモン王も神殿を建てるときにレベノン杉の中で最も高価なレバノンの香柏をフェニキヤ王に願い求め、神殿を建てました。

 マルコ福音書には、イエス様はその後ツロの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通りぬけ、ガリラヤの海辺に来られたとあります。デカポリスというのはギリシア語で10の都市という意味です。デカが10という意味で、ポリスは都市。ですからこの地方は10の都市が同盟を結んだ形の国で、イエス様の時代はローマ帝国の支配下に置かれていました。

 10の町は、ガダラ、カナタ、ゲラサ、スキトポリス、ダマスコ、ディオン、ヒッポス、フィラデルフィア、ペラ、ラファナの町。これらは、アレクサンドロス大王の後継者たちによって建てられ、うちダマスコだけは北方に離れて位置し、ヘレニズム以前からの古い歴史を持ちました。
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by carbondalle1996 | 2015-10-31 06:22 | 日記 | Comments(0)

接ぎ木された恵み

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しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのである。(ローマ11:17-18)

 私たち異邦人は野生のオリブです。良い実を結ぶものではありません。しかし、枝が切られ、オリブの樹に接ぎ木されたのです。その結果、私たちもキリストにある良い実を結び、救いの恵みに預かる者となりました。ですから誇ってはならないのです。私達はキリストの血潮によって良い実を結ぶオリブに接ぎ木されました。ただただ神の恵みです。ハレルヤ!

 
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by carbondalle1996 | 2015-10-30 06:58 | 日記 | Comments(0)

受ける恵みの大きさは比例します

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そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。(マタイ15:28)

 イエス様はこの女性の言葉を聞いて「あなたの信仰は見あげたものである」と言いました。この「見上げたものである」というギリシア語は「大きい」という意味です。ですからイエス様はカナンの女の言葉を聞いて、「あなたの信仰は大きい」と言われたのです。そういえば、イエス様から「あなたの信仰は小さい」と言われてしまった人がいました。それは弟子たちです。

 弟子たちは舟に乗ってガリラヤ湖を渡ったとき、暴風雨に遭遇し、舟が沈没しそうになったとき弟子たちは寝ていたイエス様を起こして「イエス様助けてください」と叫びました。そのときイエス様は暴風雨を鎮めてから弟子たちに向かって言いました。「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ。」信仰の薄いという言葉の直訳は、信仰の小さいという意味です。

イエス様に献身し、イエス様の弟子となったペテロやヤコブたちでさえ、イエス様から「あなたの信仰は大きい」とは言われませんでした。ところが異邦人の地に住み、異邦人であるカナンの女の告白を聞いて「あなたの信仰は大きい」とイエス様は賞賛しました。

 彼女の信仰は、イスラエルの失われた家に遣わされたイエス様の祝福を受ける信仰として認められたのです。そして聖書は、「その時に、娘はいやされた」とあります。イエス様は娘の手を取って「娘よ起きなさい」とも「悪霊よ出て行け」とも言っていません。「あなたの願いどおりになるように」つまり、あなたの信仰の通りになるようにと言ったのです。

 あなたの信仰は弟子たちのように小さな信仰ですか?それともこの女性のような大きな信仰ですか?あなたの信仰の大きさと受ける恵みの大きさは比例します。大きな信仰でイエス様を求めましょう。
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by carbondalle1996 | 2015-10-29 06:57 | 日記 | Comments(0)

主人の食卓から落ちるパンくず

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すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。(マタイ15:27)

 このとき女性は「人を犬扱いするなんて、なんてひどい人」と言って怒りませんでした。イエス様の言葉をそのまま受けて、自分を小犬としました。その上で「でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」と訴えました。

 礼拝の後で食事をしますが、するとドアの向こうで愛犬ドルチェが騒ぎ始めます。きっと臭いでわかるのでしょう。「ワタシモ欲しい」と言って騒ぎます。そして部屋に入れてあげると、床の上で騒ぎます。ドルチェはちゃんと主人の手に抱かれてスプーンで食事を頂きますが、もしパンなどがテーブルの下に落ちたら食べると思います。
 
 実はここで「でも」と訳されている言葉は本来「なぜならば」とか「だから」と訳される言葉です。しかし、そうすると会話が通じなくなるというので、「でも」と訳されています。しかし、ある学者が言うには、原典の言葉をそのまま訳した方が良い。そこに聖書の深い意味があるとも言っています。直訳しますと、「主よ、そのとおりです。だから、小犬は主人の食卓から落ちるパンくずをいただくのです。」

 私たち異邦人が救われたのも同じではないでしょうか。救われるべきユダヤ人の食卓から救いというパンが落ちたゆえに、私たちも救いの恵みに預かることが許されました。この恵みを感謝して、今日を歩みましょう。
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by carbondalle1996 | 2015-10-28 06:51 | 日記 | Comments(0)

奇跡を受ける受け皿

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イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。(マタイ15:26)

 ここでイエス様は初めてこの女性に対して答えています。それも比喩的な言葉で答えました。「子供たち」というのは誰のことでしょうか。ユダヤ人です。そして「小犬」とは誰でしょうか。異邦人です。ユダヤ人に与えるべき祝福を異邦人に与えるのはよくないとイエス様は言いました。当時のユダヤ人は異邦人を「犬」と呼びました。日本語にも「犬」を使った蔑称があります。「犬畜生」とか「かませ犬」また女性に対して「あのメス犬」。ユダヤ人も蔑称として異邦人を蔑んで「犬」と呼びました。

 それではイエス様も異邦人を蔑んで、この女性を「犬」と呼んだのでしょうか。実はユダヤ人が異邦人を呼ぶ時の「犬」とはギリシア語でクオンという言葉で、これは「野犬、野良犬」を意味します。しかしこのときイエス様が使った言葉は、クナリオンというギリシア語でこれは家で飼っている犬。ドルチェのように家で大事に育てられているペットです。ですからイエス様は異邦人を蔑んだのではないということです。

 どうしてイエス様はこのような比喩的な言い方をされたかというと、女性の信仰を引き出すためです。癒しを受けるには信仰が受け皿となりますから、ここでイエス様は彼女の信仰を引き出そうとしています。あなたはイエス様から救いの奇跡を受けるだけの信仰はありますか?あなたの信仰が奇跡を受ける受け皿となります。
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by carbondalle1996 | 2015-10-27 06:38 | 日記 | Comments(0)

イエスを主と呼び求める者

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しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。(マタイ15:25)

 女は最初「主よ、ダビデの子よ」とイエス様を呼んでいましたが、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」というイエス様の言葉を聞いて、もうダビデの子とは呼ばずに「主よ」と呼んでいます。それは悟ったからです。自分は異邦人であって、「イスラエルに与えられた約束の受け手ではない」こと。だからもうイスラエルの民が呼ぶ「ダビデの子」という言葉は使わなかったのです。

 しかし、メシヤであることを信じていた女はイエス様を「主よ」と叫び続けました。私達も異邦人ですから、イエス様を「ダビデの子」とは呼びません。「主」と呼びます。これは正しい呼び方です。イエスを主と呼び求める者はみな救われます。
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by carbondalle1996 | 2015-10-26 17:38 | 日記 | Comments(0)

本日の教会のランチ

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by carbondalle1996 | 2015-10-25 17:32 | 日記 | Comments(0)

失われた羊

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するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。(マタイ15:24)

 イエス様がどうしてカナンの女の願いを聴いてあげないのか。それはカナンの女は異邦人ですから、イスラエルに与えられた約束の受け手ではないからです。イエス様は「イスラエルの家の失われた羊」つまりユダヤ人に遣わされたメシヤだからです。

 出エジプト記19章で神様がイスラエルの民に対して、「もし、あなたがたがわたしの契約を守り、わたしの声に聞き従うならば、あなたがたは全ての民にまさって、わたしの宝となる」と約束しました。メシヤは第一義的にイスラエルに遣わされたのです。イスラエルは神様の宝の民だからです。

 しかし、イスラエルの民がメシヤを拒否したために、この福音が異邦人に及びました。そして福音が全世界に満ちて最後にイスラエルに戻ります。そしてイスラエルの民が悔い改めて、イエス・キリストを救い主と告白した時に、イエス様はもう一度この地上に戻られると約束しています。ですから私たちがユダヤ人の救いのために祈るということは、聖書の教えに沿っています。

 私たちが救われて神の子とされたのは、この福音が異邦人に広げられたからです。その結果、私たちも宝の民とされたのです。私たちが受けたこの恵みを伝える者となりましょう。
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by carbondalle1996 | 2015-10-24 06:56 | 日記 | Comments(0)

沈黙の神

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しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。(マタイ15:23)

 ここでイエス様は不思議な行動を取っています。「娘を助けてください」という女性の声を無視しています。ガリラヤ湖で群衆も見て深く憐れんだイエス様、「信じる者にはなんでもできる」と父親を叱責してその息子を悪霊から解放したイエス様と同じイエス様なのに、ここでイエス様は女性の言葉を沈黙しています。

 弟子たちはそんなイエス様に気をつかって「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」と言いました。この言葉をそのまま読むと弟子たちも優しくないと考えてしまいますが、ある注解書にはこの弟子たちの言葉の意味はその逆で、「この女が叫びながらついてきますから、どうかこの女を癒して帰らせてください」とイエス様に願い出ているのだと言っています。

 イエス様はどうしてこの女性に対して沈黙で答えているのでしょうか?私たちの人生においても神様が祈りに答えてくださらない。沈黙を守っておられると感じるときがあります。そのときあなたはどうしたでしょうか?

 「やっぱり駄目か。じゃあ、あきらめよう」と言ってあきらめてしまいませんでしたか。それとも神様から答えを頂くまで、祈り続けたでしょうか。聖書は「叩きなさい。そうすれば開かれます」とあります。あきらめずに神の胸を叩き続ける者となりましょう。必ず神の道は開かれます。
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by carbondalle1996 | 2015-10-23 06:14 | 日記 | Comments(0)

ダビデの子

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すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。(マタイ15:22)

 カナン人というのは、ユダヤ人にとってはサマリヤ人と同じくらい偏見をもって見られた人々です。カナン人は道徳的に最も堕落した人々だとユダヤ人は考えていました。ユダヤ人からそのように堕落した民と見られていたカナン人の女性が出て来て叫びました。「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます。」ダビデの子というのは、当時のユダヤ人が使っていたメシヤの称号です。

 不思議なことにユダヤ人から尊敬されていたパリサイ人や律法学者は、決してイエス様に対してこの称号で呼ぶことはありませんでした。しかしユダヤ人が軽蔑していたカナン人の女性は、「ダビデの子」というメシヤの称号でイエス様を呼びました。この女性がイエス様をメシヤと考えていたことがわかります。そしてイエス様のうわさは、この異邦人の地ツロとシドンにも届いていたということです。

 人はその心にある思いを口で告白します。あなたはイエス様を何と告白しますか?あなたを罪の奴隷から救いだし、永遠の命へと導かれるお方はこの方です。イエスを主と告白する者は救われます。
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by carbondalle1996 | 2015-10-22 06:17 | 日記 | Comments(0)