ブログトップ

5つのパンと2匹の魚

fivebread.exblog.jp

<   2016年 01月 ( 22 )   > この月の画像一覧

記憶から忘れ去られてしまった頃

f0229700_18565747.jpg


 やがて7人の青年は神様の預言どおりにそれぞれの国へ宣教師として遣わされました。お金は各教会を回って集めたそうです。彼らは宣教先で風土病になって死んだり、迫害されて殉教の死を遂げる者もいました。彼らが死んで10年、20年と経ち、誰も彼らのことをおぼえていない。

 彼らが人々の記憶から忘れ去られてしまったとき、神様はまた新しい人々を起こしました。それは彼ら宣教師の子供たちでした。子供たちは自分の母親が亡くなってゆくとき、父はなすすべもなくただ祈るしかなかった。そのような証しを各教会でしたときに、そこに聖霊が臨み、各教会は「与えなさい。そうすれば与えられます」という言葉が臨み彼らを世界宣教に遣わしました。こうしてアメリカで信仰復興運動が起こり、アメリカに海外宣教局が誕生しました。

するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。(マタイ17:20)
[PR]
by carbondalle1996 | 2016-01-31 18:46 | 日記 | Comments(0)

グリーンフィールドのリバイバル

f0229700_18452630.jpg


 彼らは已むなく学校の外にあった山の上に登ってそこで祈り会を始めました。7人の学生がその山の上で祈祷課題を挙げて祈りました。2年、3年と祈り続けましたが何も起こりませんでした。しかし神様は突然彼らの上に訪れました。ある日、山で祈っていた7人に突然、嵐が襲いました。彼らは聖書と教科書を頭の上に乗せて、「逃げろ」と叫んで山を降りました。

 途中に稲の藁が山のように積まれていたそうです。彼らはその藁の中に飛び込んで、嵐が去るのを待ちました。するとそのとき聖霊が彼らに臨みました。彼らは藁の中で急に不思議な言葉を口にし始めました。「心が燃える。心が燃える」と告白し始めたのです。一人が「心が燃える。心が燃える」と言ったら、それが飛び火して次の人も、その次の人も「心が燃える。心が燃える」と言いました。

 続けて7人が祈っていると、一人の人が「主よ、私はアフリカへ行きます」と告白しました。言った本人はどうして自分はそんなことを言ったのか不思議でした。すると「次の人は「主よ、わたしは中国へ行きます」と告白しました。次の人は「主よ、私はタイへ行きます」と告白しました。聖霊が彼らに臨み、彼らは預言を語りました。

 彼らは宣教師になると決意し、教会に戻りましたが、教会は彼らの話を聞いてあざ笑いました。「何が世界宣教だ。アメリカを見ろ。こんな状態で世界宣教どころではない。まずはアメリカからだ。」この考え方は理にかなっているように見えますが、神様の方程式は人間の考えと違います。神様の方程式は「与えなさい。そうすれば与えられます」。アメリカが豊かになってから世界宣教ではなく、世界宣教に出た後で豊かになる。
[PR]
by carbondalle1996 | 2016-01-30 18:40 | 日記 | Comments(0)

無学な農夫の祈り

f0229700_18392414.jpg


 イギリスからメイフラワー号に乗って清教徒たちがアメリカに渡りましたが、やがて彼らの信仰は形骸化し、ボストンでは犯罪率が高まり女性が昼間でも一人で歩くのが危ないような町となりました。教会では祈祷会は行われず、神学校には生徒が集まらなくなり、クリスチャンとは名ばかりで、だんだんとその信仰がなくなってしまったような状態。

 そのような中にあって神様は一人の老人を用いました。その人は名も無い無学な農夫でした。彼は神様に祈りました。「神様、このアメリカを、このボストンをかつてのような信仰熱心な国に戻してください」と祈り続けたそうです。この老人は死ぬまでアメリカのリバイバル、ボストンのリバイバルを祈り続けましたが、彼が祈っても何も起こりませんでした。やがてこの老人は死んで天国へ帰りました。

 この老人が天国へ召された後、神様は一人の青年を起こされました。彼の名前はサムエル・ムースと言ってミッションスクールの生徒でした。彼は聖書を読んで祈っていたのですが、まわりの生徒からは馬鹿にされました。しかし、彼の祈りに応じて一人、二人と共に祈る仲間が与えられました。学校内で聖書研究会Bible Study が始まりましたが、他の生徒たちから馬鹿にされて、迫害されて聖書研究も祈りもできない状態となりました。
[PR]
by carbondalle1996 | 2016-01-29 18:35 | 日記 | Comments(0)

どんなことがあってもあきらめない

f0229700_6505268.jpg


 19世紀のアメリカにR.U.ダービーという青年がいました。時代はまさにゴールドラッシュで、一攫千金を狙った人々が西へ西へと進んだ時代です。コロラド州に来たときに、彼は金が出ると言われた山を購入しました。この山の下には金の鉱脈があるから掘れば必ず金がでると言われて、彼はこの山を購入しました。

 彼は全財産をはたいてこの山を購入し、労働者を雇って山を掘りました。しかし、いくら掘っても、掘っても、金は出てきません。彼は騙されたと思いました。彼は掘ることをあきらめて、二束三文でこの山を他人に売りました。ダービーからこの山を購入した人は、ものはためしにもう少し掘ってみようと掘り始めました。するとダービーがあきらめた地から1m下に金の鉱脈が発見されたのです。

 R.U.ダービーはこの事実を後から聞きました。そしてこのことから彼は大切な教訓を得ました。彼は後に保険業界で働きます。そして彼はやがて全米一の保険セールスマンになりました。彼は自分の成功の秘訣についてこう言っています。それは「どんなことがあっても決してあきらめない。」

 私たちの人生はいかに多くの人々が、神様からの素晴らしい祝福を得る前に、あきらめて祈り続けることを止めてしまっているでしょうか。これは神様の御心だと信じたら、祈りのスコップを持って掘り続けること。

さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(ヘブル11:1)

[PR]
by carbondalle1996 | 2016-01-28 06:48 | 日記 | Comments(0)

疑わずに信じれば

f0229700_6474639.jpg


それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。(マタイ17:19-20)

 先日、テレビでスターウォーズという映画を観ました。その中で主人公がフォースという不思議な力を体得する修行の場面がありました。主人公はフォースの力を使って、湖に沈んだ飛行機を陸地に写すのですが、なかなかできません。

 ジェダイマスターのヨーダが言います。「お前には忍耐が足りない。」するとルークが答えます。「こんなことは最初から無理だとわかっていたのです」と言いました。ルークの答えを聞いてヨーダが、「それがおまえのできない理由だ。疑わずに信じれば物体の大きさは関係ない」と言って、ヨーダは湖の中に沈みかけた戦闘機を浮かび上がらせ、陸地へと運びました。それはまるでイエス様が「信じる者にはなんでもできる」と弟子に言っているようだと思いました。

 問題の大きさは関係ありません。神様にはなんでもできないことはない。これはクリスマスで御使いガブリエルがマリヤに言った言葉です。マリヤはその言葉を素直に「はい」と受け取り信じました。神様にはなんでもできると信じ続けること。神様に信頼すること。それがからし種一粒の信仰です。

 しかしそこには忍耐が伴います。祈ってすぐに聴かれることはほとんどありません。そこには長い時間がかかります。アブラハムは神様の声を聞いて30年後の100歳のときにイサクが与えられました。からし種が蒔かれたならば、その種が芽を出し、成長するのを、忍耐を持って待つことが大切です。結果が出る前に「もう駄目だ」とあきらめてはいけません。

 あなたは祈ったことが自分の想いどおりにならずに、祈ることをあきらめた経験はありませんか?あきらめずに祈り続けましょう。神様には不可能はありません。
[PR]
by carbondalle1996 | 2016-01-27 06:42 | 日記 | Comments(0)

からし種の信仰

f0229700_6293785.jpg


それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。(マタイ17:19-20)

 例えば、私達日本語にこれと似た慣用句があります。例えば「あの人は大きい」と言えば、体の大きさではなく人間性の大きさを意味します。逆に「あの人は小さい」と言えば、人間性としての器の小ささを言います。ならばどうすれば大きな人になれるかというと、これも難しい問題です。

 同じように信仰が大きいとは「立派な信仰」を意味する慣用句であり、信仰が少ないとは、「信仰が薄い」を意味する慣用句だったのではないかと考えられます。ですから当然のこととして立派な信仰が望まれます。しかしそれは信仰の量が問題ではないといいうことです。

 イエス様が言う立派な信仰とは、からし種のように小さな種であっても良いから、神様には不可能なことはないと信じ続ける心だと言っているのではないでしょうか。イエス様は弟子たちに「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移る。」と言っておられます。

 からし種は最も小さな種ですが、地に落ちて芽を出すならば、それは成長し大きな木となって、鳥が巣を作り、そこにたくさんの種を実らせます。現在目の前にあるのはからし種という小さな種出としても、信仰の目をもって視るならば、私たちはそこに大きな森を視ます。その森に住む多くの動物や鳥や昆虫。神様に不可能はない。信じない者ではなく信じる者になりましょう。
[PR]
by carbondalle1996 | 2016-01-26 06:30 | 日記 | Comments(0)

主のみことばの矛盾?

f0229700_622335.jpg


それから、弟子たちがひそかにイエスのもとにきて言った、「わたしたちは、どうして霊を追い出せなかったのですか」。するとイエスは言われた、「あなたがたの信仰が足りないからである。よく言い聞かせておくが、もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう。このように、あなたがたにできない事は、何もないであろう。(マタイ17:19-20)


 イエス様は弟子たちが霊を追い出せなかった理由は、「あなたがたの信仰が足りないからである」と言いました。この「信仰が足りない」という言葉は、イエス様が弟子たちに言った「信仰の薄い者よ」と同じ言葉です。イエス様と弟子たちが一緒に舟に乗って向こう岸に渡るときに嵐が吹いて、舟が沈没しそうになりました。そのとき弟子たちは寝ているイエス様を起こして助けを求め、イエス様は嵐を叱ると風が止みました。そしてイエス様は弟子たちに向かって「信仰の薄い者よ」と言いました。この「信仰の薄い」という言葉の直訳は、「信仰が少ない」という意味です。

 そして百卒長がイエス様に「みことばをください。そうすれば僕は癒されます」と答えたとき、イエス様は「あなたの信仰は立派です」と言いました。この言葉の直訳は「信仰が多い」という意味です。つまり不十分な信仰とは少ない信仰であり、立派な信仰とは信仰の量が多いとなります。信仰がまるで秤によって計られるようでおもしろいですね。

 ところがこのときイエス様は、弟子たちが霊を追い出せなかった理由は、信仰が少ないからと言っておきながら、その後で「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら」と言いました。「からし種」とは種の中で最も小さい種を表現しています。これは明らかに矛盾しています。信仰の量が問題だと言いながら、信仰の量ではなく質が問題だと言っているようなものです。
[PR]
by carbondalle1996 | 2016-01-25 06:14 | 日記 | Comments(0)

今日を感謝して生きる

f0229700_649298.jpg


 Y教会のK先生のメッセージからご紹介します。クリスチャンの信仰生活の土台はいつも喜び、絶えず祈り、全てを感謝すること。しかしある人は言います。「キリスト教の土台は十字架と復活だから、信仰生活の土台も十字架と復活ではないのですか?」と。

 そのとおりですが、サタンは既に完成したみわざを奪うことはできません。十字架と復活は既に二千年前に完成しましたから、サタンはこれらを奪うことはできないのです。だからサタンは創造の冠として造られた人間から、「喜び」、「祈り」、そして「感謝」を奪うことで人間を堕落させ、神様の創造されたこの世界を破壊しようとするのです。

 シンガポールのジョセフ・プリンス牧師がこう言っています。私たちの人生を奪う2つの泥棒に注意しましょう。1つ目は「昨日」という名の泥棒。この泥棒は過去の失敗を私たちに思い出させ、私たちを後悔させようとします。2つ目は「明日」という名の泥棒。この泥棒は、将来の心配や恐れを私たちに起こさせて、私たちがいつも思いわずらうように仕向けます。

 イエス様が十字架に掛かったときに3本の十字架がありました。一方の十字架に掛かった泥棒は、過去に縛られてイエス様に救いを求めませんでした。もう一方の十字架に掛かった泥棒は、「明日助けてください」と願った。イエス様の答えは、「今日、あなたはパラダイスにいる」でした。

 「失敗した昨日」も、「不安な明日」もすべてを含めて、「今日」を感謝して受け止めること。これが全てのことを感謝することに繋がります。ですから感謝するとは今日を生きること。過去に生きるのでもなく、未来に生きるのでもなく、今日を生きること。今日を感謝して生きることが幸せな人生を歩む鍵です。

 今日一日を反省し、たといそこに後悔があったとしても。明日を煩い、そこに憂いがあったとしても。主に在って全てを感謝して受け止めましょう。なぜなら神様はすべてをプラスに変えてくださるからです。そして私たちは神様を信じて生きる民だから。
 
“いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。”(Ⅰテサロニケ5章17~18)
[PR]
by carbondalle1996 | 2016-01-24 06:44 | 日記 | Comments(0)

不信仰な曲がった時代

f0229700_642424.jpg


イエスがおしかりになると、悪霊はその子から出て行った。そして子はその時いやされた。(マタイ17:18)

 私の尊敬するS教会のT先生はたくさんの悪霊追い出しの経験がありますが、T先生の教会にあるとき一人の婦人が訪ねてきました。その婦人は仏教徒にも神道にも熱心な方でした。どのくらい熱心かというと毎日仏壇に供えるお花と線香の煙を絶やしたことがない程でした。そして毎月2回、一日と十五日には先祖代々のお墓参りも怠ったことがないそうです。また先祖三代の戒名を暗唱するほど仏教に熱心な方でした。

 また神道にも熱心な方で毎年、初詣には伊勢神宮に行き、地元の神社の砂をもらって家の庭に蒔いて自宅をきよめるほど神道にも熱心な方でした。それだけではなく霊能者を自宅に招いて、部屋ごとに祈祷をしてもらうほど宗教に熱心な婦人でした。

 この婦人には息子さんがいて、スポーツも勉強もできる自慢の息子さんでした。ところがこの息子さんが中学生のときに不登校となり、家にひきこもってしまいました。すると幸せだった家庭は真っ暗となり、婦人は不幸のドン底におとされてしまいました。そのようなときに友人から教会に誘われて、礼拝に来たということでした。

 T先生はその女性にはっきりと教えたそうです。「あなたが熱心に拝んでいたものはあなた家庭を守る神ではなく、あなたの家庭を破壊する敵です。偶像崇拝から離れて真の神様を礼拝しなさい。」そして悪霊からの解放の祈り、悪霊絶ち切りの祈りをしたそうです。

 その日、この女性が家に帰ると今までにない霊的な感覚をおぼえたそうです。そして彼女の霊の目が開かれて、次の日曜日から彼女は礼拝に来るようになりました。そして偶像崇拝によって結ばれた悪霊との契約の1つ1つを破棄する祈りをしました。すると不登校だった息子が教会に来るようになり、友達が与えられ、やがて元気に学校に行くように変えられたそうです。

 私たちも不信仰な曲がった時代に生きています。日本にはたくさんの偶像があります。真の神様に顔を向けずに、間違った偶像に顔を向けて生きています。そうした偶像は私たちの家庭を守るものではなく敵です。キリストの真理をはっきりと告白する者となりましょう。
[PR]
by carbondalle1996 | 2016-01-23 06:39 | 日記 | Comments(0)

曲った時代

f0229700_187395.jpg


イエスは答えて言われた、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか。いつまであなたがたに我慢ができようか。その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」。(マタイ17:17)

 イエス様はそれを聞いて「なんという不信仰な、曲った時代であろう」と嘆かれました。「曲った」という言葉は「正しい方向に向いていない」という意味です。正しい方向とは神様の方向です。創造主なる神様を神様として認めて礼拝する。それが私たちの顔を向けるべき正しい方向です。

 しかし、人々はそうではない。特にこの事件が起こったのはヘルモン山の麓のピリポ・カイザリヤです。そこはギリシア神殿が建てられ、偶像崇拝がされていた町です。まさに不信仰な町。人々の顔は真の神様を礼拝する正しい方向に向いてない曲がった町でした。
[PR]
by carbondalle1996 | 2016-01-22 18:07 | 日記 | Comments(0)